No.545


 お盆休みの最終日となる8月16日、映画「フリー・ガイ」を観ました。ネットでの評価が非常に高い作品ですが、なかなか面白かったです。題材となっているビデオゲームの世界には疎いわたしですが、それなりに楽しめました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『デッドプール』シリーズなどのライアン・レイノルズが主演したアクション。自分がビデオゲームの世界に生きる背景(モブ)キャラだと知った主人公が、ヒーローになろうとする。メガホンを取るのは『ナイト ミュージアム』シリーズなどのショーン・レヴィ。ドラマシリーズ『キリング・イヴ/Killing Eve』などのジョディ・カマー、ドラマシリーズ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』などのジョー・キーリー、『ジョジョ・ラビット』などのタイカ・ワイティティらが共演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、「銀行の窓口係ガイ(ライアン・レイノルズ)は、平凡で退屈な毎日だと感じる一方で、連日強盗に襲われていた。疑問を抱いた彼は、襲ってきた銀行強盗に反撃を試みると撃退でき、さらに強盗から奪った眼鏡を掛けると、街の至るところにこれまで見たことのなかったアイテムやミッション、謎めいた数値があった。やがてガイは、自分がいる世界はビデオゲームの中で自身がモブキャラであることを知り、愛する女性と街の平和を守ろうと正義のヒーローを目指す」となっています。

 ライアン・レイノルズ演じる主人公のガイは、ゲームの中で生きるモブキャラです。モブは背景という意味ですが、じつはこの言葉をわたしが知ったのは1週間ほど前でした。東京五輪の開会式および閉会式が酷評されていますが、「モブのパフォーマーがショボすぎた」という意見を聞いたのです。「どういう意味かな?」と思って調べたら、メインのパフォーマーの背後で動く人々のことでした。プログラミングされたモブキャラに過ぎなかったガイが意識を持って自立したAIとして行動する設定は、なかなか哲学的で興味深かったです。というのも、わたしたち人間も神からプログラミングされた存在だと考えることも可能であり、そのような世界観は宗教に通じるからです。

 この映画に登場するオープンワイド型のゲームは、設計者や運営者がオフラインにして終了させることができます。つまり、彼らは世界を滅亡させることができるのです。世界各地の神話には、人間が神の怒りに触れて滅ぼされる話がたくさんあります。一条真也の映画館「夜叉ヶ池」で紹介した日本映画の原作は、泉鏡花です。鏡花はとても日本的な作家だと思われていますが、篠田正浩監督によれば「夜叉ヶ池」や「天守物語」といった彼の戯曲はギリシャ劇に似ているそうです。つまり、混沌とした世を描き、人間たちに天罰を下す神が出てくるというわけです。

 原爆が投下されたとき、大震災による津波で家や家族が流されたとき、人々はこの惨劇は神の仕業ではないかと考えました。いつでもこの世界をカタストロフに陥らせることのできる存在こそ神であり、それがビデオゲームの中のキャラクターたちにとっての運営者とまったく同じ存在なのです。ブログ「火と水とコロナ」に書いたように、人類にとって地球温暖化も新型コロナウイルスも制御不能となっていますが、人工的に核融合を起こすとか、ウイルスを実験的に操作するとか、そういう神の領域を冒すような愚挙に対しては破滅が待っているのかもしれません。

 でも、この「フリー・ガイ」と言う映画はそんな深刻で陰鬱な内容ではありません。モブキャラのガイは、ゲームの日常の中で理想の女性と出会い、自我に目覚め、知性を持ったAIに進化します。非常にロマンティックなエピソードであり、この出会いの背景に存在した現実世界での恋愛模様がラストで描かれます。胸がキュンとするハート・ウォーミングなラストシーンでしたが、このくだりを観ながら、わたしは村上春樹氏の短編小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子と出会うことについて」の内容を思い出しました。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子と出会うことについて」に登場する「僕」は、とても気持ちの良いある晴れた朝に、原宿の裏通りを歩いています。すると、「僕」にとって100パーセントの女の子を見かけます。距離が近づき、すれ違う。何歩か歩いてから振り返った時、彼女の姿は人混みの中に消えていた...そんな話ですが、短編小説集『カンガルー日和』に収録されています。わずか8ページの短いこの作品は、作者が電車内の広告モデルの女性にとてつもなく惹かれたことから生まれたそうです。そして、この作品を原型として長編小説『1Q84』が完成したといいます。「100%の女の子」というのは、いわゆる「どストライク」ということでしょう。「フリー・ガイ」を観て、わたしは自分にとってのそんな出会いについて回想しました。