No.546


 北九州では観れない映画をTOHOシネマズ日比谷で鑑賞。「ドライブ・マイ・カー」という日本映画ですが、グリーフケアがテーマのようなので、どうしても観なければなりませんでした。長いですが非常に興味深い作品で、村上春樹ワールドの幻想性もよく表現されていました。

 ヤフー映画の「解説」には、「村上春樹の短編小説を原作に描くヒューマンドラマ。妻を失い喪失感を抱えながら生きる主人公が、ある女性との出会いをきっかけに新たな一歩を踏み出す。『寝ても覚めても』などの濱口竜介が監督と脚本を手掛け、『きのう何食べた?』シリーズなどの西島秀俊が主人公、歌手で『21世紀の女の子』などで女優としても活動する三浦透子がヒロインを演じ、『運命じゃない人』などの霧島れいかや、『さんかく窓の外側は夜』などの岡田将生らが共演する」と書かれています。

 ヤフー映画の「あらすじ」は、「脚本家である妻の音(霧島れいか)と幸せな日々を過ごしていた舞台俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)だが、妻はある秘密を残したまま突然この世から消える。2年後、悠介はある演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島に向かう。口数の少ない専属ドライバーの渡利みさき(三浦透子)と時間を共有するうちに悠介は、それまで目を向けようとしなかったあることに気づかされる」となっています。

 一条真也の読書館『女のいない男たち』で紹介した村上春樹氏の短編集です。同書には6編の短編小説が収められていますが、最初に置かれているのが「ドライブ・マイ・カー」です。今は亡き妻が浮気をしていたことに悩まされる50代の俳優の話です。彼は妻が複数の男たちと不倫していることに気づきながら、知らないふりをして円満な夫婦を装っていました。彼ら夫婦には3日間だけ生きた子供がいました。病院の保育室で前触れもなく突然死したしたのです。著者は、「子供をそんな風に唐突に失ったことで、二人はもちろん深く傷ついた。そこに生じた空白は重く、暗かった。気持ちを立て直すまでに長い期間が必要だった。二人は家の中にこもり、多くの時間をほとんど無言のうちに送った」と書いています。

 子を失った夫婦はお互いを支え合うことで、少しずつ傷の痛みから回復し、危うい時期を乗り切ることができました。また以前より深く、それぞれの仕事に集中するようになりました。しかし、妻は「悪いけれどもう子供は作りたくないの」と言い、夫もそれに同意します。夫が後で思い起こしてみれば、妻が他の男と性的関係を持つようになったのは、そのあとからでした。妻の死後、その不倫相手に近づいて友人関係になるほど、夫の心は傷ついていました。しかし、彼の運転手として雇われた24歳の無愛想な女の子(彼が亡くした娘が生きていれば同じ年齢でした)が時々発する言葉が、次第に彼の心を癒していくのでした。ちなみに、この小説はビートルズの同名の曲にインスパイアして書かれたようです。

 さて、原作の話はここまで。いよいよ映画の話に入りますが、かなり原作とは異なります。夫婦が亡くした子どもの年齢も3日ではなく4歳ですし、運転手の女の子も24歳ではなく23歳になっています。でも、そんなことより、この映画、なんと179分もあります。心底、「この短い小説をよくぞここまで膨らませたなあ!」と感心しました。「週刊文春」のインタビューで、濱口監督は「プロデューサーからは、上映時間は140分に収めるよう堅く言われていたんですが(笑)。なぜ長くなったかというと、車の場面が時間を予想以上に取る、とか理由は色々ありますが、一番は役者が演じやすい場を作るにはどうするかと考えていった結果ですね」と語っています。

 そのインタビュアーである映画評論家の月永理絵氏は「映画『ドライブ・マイ・カー』を見て呆然とした。作品の中に無数の物語が存在し、その1つ1つが驚くほどの強度を持つ。どうすればこれほど力強い映画が生まれるのか」と書いています。映画では原作の短編を軸に、さらに『女のいない男たち』の別の2つの短編を組み込まれ、家福(西島秀俊)や妻・音(霧島れいか)、みさき(三浦透子)、高槻(岡田将生)ら登場人物にまつわる物語がいくつも挿入され、さらに広島での演劇祭という映画オリジナルのドラマが展開します。特に印象的だったのは霧島れいかで、49歳とは思えないほどの見事な肢体で濡れ場を演じ、大人の女性の魅力をスクリーンから大いに放っていました。

 その霧島れいかが演じた音は、夫とのセックスの後に物語を紡ぎます。それは、女子高生が初恋の相手の家に空き巣に入って、彼のベッドの上で自慰行為をするという不思議な物語なのですが、それが結果的に子を失った親のグリーフケア的行為になっている点が興味深かったです。というのも、物語とグリーフケアは不可分の関係にあるからです。上智大学グリーフケア研究所の特任教授で宗教哲学者の鎌田東二先生は、「シンとトニーとムーンサルトレター第193信」で、わたしが映画も小説もコミックも、何でもグリーフケアの物語に思えるという問題について、「それは単なる思い込みや思い違いではなく、どんな映画や物語にも『グリーフケア』の『要素』があるのだと言えます。そのようなスペクトラムが物語要素として含まれているということではないでしょうか?」とのコメントを寄せて下さいました。

 鎌田先生は、美学理論であるアリストテレスの「カタルシス」論を取り上げます。アリストテレスは『詩学』第6章で「悲劇」を「悲劇の機能は観客に憐憫と恐怖とを引き起こして、この種の感情のカタルシスを達成することにある」と規定しました。この「カタルシス」機能は「グリーフケア」の機能でもあるという鎌田先生は、「カタルシスの語源は、古代ギリシャ語の"κάθαρ (kathar)"で、不浄を取り除く浄化儀礼の意味を持っています。つまり、お祓い効果があると考えられてきたわけです。身心霊を浄化するはたらきが『カタルシス』で、それは『排泄』の意味も持っていました。排便や排尿ばかりでなく、落涙すること、すなわち涙を流すことも1つの排泄行為ですね。泣くことによる排泄浄化作用は確かに日々実感するところです」と述べておられます。

 この映画で運転手の女性みさきを演じた三浦透子が良かったです。失礼ながら女優としての華はありませんが、その名前の通りに彼女には透明感があります。映画での彼女は帽子をかぶって運転しているシーンがほとんどですが、その運転シーンが観ていて癒されるのです。グリーフケアとしての物語作りはカタルシス、つまり心の内面を外に吐き出すものですが、ドライブという行為はその反対に内面をさらに深く掘り下げるというか、自分を徹底的に見つめ直す営みのように思えました。三浦透子はインタビューで「運転に人柄が集約される」と語っていますが、たしかに運転とは心の鏡であると思います。あおり運転をするような者は、きっと心が病んでいるのでしょう。

 みさきが運転する車は家福のマイカーである赤のサーブですが、美しい車だと思いました。車といえば、原作者である村上春樹氏は、一条真也の読書館『騎士団長殺し』で紹介した長編小説で、ジャガーをこの上なく魅力的に描いています。わたしのマイカーは2台ありますが、そのうちの1台は緑のジャガーです。最近はもっぱら自宅と会社の往復ばかりで、ドライブらしい遠出はしていませんが。その赤いサーブで2人が北海道まで遠出するシーンはロードムービーのようでした。車の中で家福は「自分が妻を殺した」と言い、みさきは「私が母を殺した」と告白します。もちろん、実際に殺人が行われたわけではなく、故人が亡くなったのは自分の責任だとい意味ですが、愛する人を亡くした原因が自分にあると思うことは最大のグリーフであると痛感しました。北海道に着いた2人は、みさきの実家のあった場所を訪れます。そこで、みさきを抱きしめた家福が「生きている者は、亡くなった人を忘れてはならないんだ」と叫ぶ場面が非常に印象的でした。

 みさきに対し、家福は父親のような態度で接します。彼が亡くした娘が生きていれば、彼女と同じ23歳なのでした。当然ながら、家福はみさきに亡き娘の面影を見るわけですが、この「死んだ子の歳を数える」というのは悲しいけれども、これもまたグリーフケアなのだと思いました。ここで、思い出したのは日本映画「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)です。名優・高倉健が主演を務め、第117回直木賞を受賞した浅田次郎の短編小説を実写映画化した作品です。廃線間近となった北海道のローカル線・幌舞線の終着駅で駅長を務める佐藤乙松。今年で定年を迎える彼は、不器用なほどまっすぐに鉄道員(ぽっぽや)一筋だった自身の人生を振り返ります。幼い一人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、乙松は休むことなくずっと駅に立ち続けた。そんな彼の前に、ひとりの少女が現れる。愛らしい少女に、乙松は亡き娘・雪子の面影を重ねるのでした。雪子役の広末涼子も素晴らしく、予告編を観るだけで泣けてくるグリーフケア映画の傑作です。

 濱口監督は、近年国際映画祭で数々の映画賞を受賞しています。「寝ても覚めても」(2018年)に続き、「ドライブ・マイ・カー」もカンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品され、日本映画初の脚本賞(大江崇允との共同脚本)をはじめ、4つの賞を受賞しました。当然ながら、世界的に大きな注目を集めたわけですが、気になるのが「カンヌ狙いではないか?」と思われる内容です。映画の中に登場するチェーホフの「ワーニャおじさん」の舞台が日本人、韓国人、中国人の役者が混在し、しかもそれぞれが母国語で話し、さらには耳が不自由で手話を使う女優も出演するという設定なのです。もう「多様性」が全開で、パラリンピック開催中に上映される映画としてはピッタリでしょうが、どうも違和感が残ります。

 一条真也の映画館「どん底作家の人生に幸あれ!」で紹介した文豪チャールズ・ディケンズの半自伝的小説『デイヴィッド・コパフィールド』の映画化作品では、白人の役をアジア人や黒人が演じていますが、観ていてかなり混乱しました。今どきの「ダイバーシティ」を意識しているのでしょうが、観客は混乱します。もちろん人種差別は絶対悪ですが、ディケンズという文豪の大いなる遺産に政治的メッセージなどは込めないでほしいと思いました。今回、「ドライブ・マイ・カー」の劇中劇である「ワーニャおじさん」にもまったく同じことを感じました。もっとも一条真也の映画館「万引き家族」で紹介した映画をはじめ、是枝裕和監督の一連の作品が軒並みカンヌ映画祭で受賞しているように、「多様性」「ダイバーシティ」などの社会的メッセージの強い作品はカンヌ好みのように思えます。

 それでも、この映画に度々登場する「ワーニャおじさん」のセリフは印象的で、最後にワーニャが「私たちはどうして苦しむのか」とソーニャに言ったとき、彼女が「それでも、生きていくしかないの」と言い放った言葉は、ブログ「アニメ版『鬼滅の刃』」で紹介した「失っても、失っても、生きていくしかない」という竈門炭治郎のセリフに通じ、まさにグリーフケアの言葉だと思いました。チェーホフの『ワーニャおじさん』は、高校生のときに読みましたが、これを機会に読み返してみたいと思います。

 最後に、「ドライブ・マイ・カー」はグリーフケア映画ですが、その上映前に「ムーンライト・シャドウ」の予告編が流れました。この映画の原作は、1988年刊行、世界30か国以上で翻訳され、社会現象ともいえる大ヒットを博した吉本ばなな著『キッチン』収録の短編小説「ムーンライト・シャドウ」です。満月の光のもとで愛しい死者と再会できるというグリーフケアの物語で、拙著『ロマンティック・デス』(国書刊行会・幻冬舎文庫)でも言及しました。吉本ばななの原点とも言えるこの名作が、33年の時を経て映画となって生まれ変わったようです。またしても、観なければならない新作映画ができました。