No.547
東京に来ています。パラリンピックの開会式が行われた8月24日の夜、TOHOシネマズシャンテで映画「すべてが変わった日」を観ました。子どもを亡くした夫婦の物語ということで、グリーフケアの匂いを感じました。「グリーフケアと映画」はわたしの研究テーマですので、万難を排して必ず観ます。一条真也の映画館「ドライブ・マイ・カー」で紹介した日本映画に続けて連夜の映画鑑賞となりましたが、いずれも北九州では観ることのできない作品です。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ラリー・ワトソンの小説を原作に描くサイコスリラー。1960年代を背景に、ある夫妻が暴力的な家族から義理の娘と孫を取り戻すために立ち上がる。監督と脚本を担当するのは『恋するモンテカルロ』などのトーマス・ベズーチャ。『ドラフト・デイ』などのケヴィン・コスナーと『運命の女』などのダイアン・レインが夫婦を演じ、『チャーリー・セズ/マンソンの女たち』などのケイリー・カーターや、『ファントム・スレッド』などのレスリー・マンヴィルらが共演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、「1963年、元保安官のジョージ(ケヴィン・コスナー)とマーガレット(ダイアン・レイン)夫妻は、モンタナ州の牧場での落馬事故で息子ジェームズを亡くす。3年後、夫婦の義理の娘・ローナが、乱暴者のドニーと再婚する。マーガレットはドニーがローナと孫のジミーを連れてノースダコタ州の実家に引っ越したと知り、二人を連れ戻そうとする」です。
この映画、グリーフケア映画であることは間違いないのですが、それ以上にサイコホラーの要素が強く、かなり不気味でした。ジョージとマーガレットの夫婦は愛する息子のジェームズを落馬事故で亡くした日から、すべてが変わってしまいます。ジェームズの未亡人ローナには身寄りがなかったため、その後も実の娘のように一緒に暮らしますが、3年後にローラはドニーという青年と再婚します。そのドニーの家族であるウィボーイ家がとんでもない一家でした。特に、彼の母親であるブランチ(レスリー・マンヴィル)が強烈なキャラクターです。ブランチといえば、テネシー・ウイリアムズの原作小説を映画化した「欲望という名の電車」でヴィヴィアン・リーが2回目のアカデミー主演女優賞に輝いたブランチ役を連想してしまいますが、ヴィヴィアンのブランチもかなり頭のいかれた女でしたが、レスリー・マンヴィルのブランチはそれ以上です。
ノースダコタの田舎に住むウィボーイ家の人々は、みなブランチのマインドコントロール下にありますが、ブランチの甥であるビル(ジェフリー・ドノヴァン)が非常に嫌らしい性格で、口の利き方も無礼そのものです。初対面で、しかも年長の相手に対する態度ではありません。まあ田舎者といえば田舎者なのでしょうが、その根底には土地の人間以外は信じないという強い排他的精神を感じます。この映画を鑑賞した日に開幕した東京パラリンピックの目指す理念である「共生社会」とは対極に位置するような考え方、というか狂気をウィボーイ一族から感じます。
わたしには2人の未婚の娘がいますが、彼女たちがいずれ結婚するであろう相手の家族が、こんな一族だったら怖いですね。「結婚前には、必ず相手の親に会っておかなければ!」と痛感しました。もし、娘や孫が辛い目に遭っているとわかったら、これはもう敵陣に乗り込んで連れ戻すしかありません。もちろん、最初から喧嘩腰ではなく話し合いを求めますが・・・・・・。もっとも、ジョージとマーガレットの夫婦にも非があります。それは、ローナとドニーの結婚式を独断的に行い、ウィボーイ家の人々を参列させなかったことです。そもそも、これほど非礼な話もなく、このときの非礼が禍根を残して悲劇を生んだという見方もできるでしょう。
この映画、ラストを含めて非常に後味が悪いのですが、唯一救いがあるといえば、ジョージとマーガレットの夫婦愛が感動的に描かれている点でしょう。当年66歳のケヴィン・コスナーは腹も出て、トシも取っていましたが、やはり渋かったです。ダイアン・レインは当年56歳で、おばあちゃん役をやるには早いぐらいの年齢ですが、若い頃の可憐なイメージは消えておらず、まだまだ美しかったです。ケヴィン・コスナーとダイアン・レインは、スーパーマンの物語である「マン・オブ・スティール」、一条真也の映画館「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」で紹介した映画に続いて夫婦役で共演しましたが、ともに相手のことを役者としてリスペクトしていることがわかりますね。
この映画にはピーター(ブーブー・スチュワート)という先住民の青年も登場し、ジョージとマーガレット夫妻と心の交流をするのですが、わたしはケヴィン・コスナーが監督・主演・製作した「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年)を思い出しました。第63回アカデミー賞の作品賞および監督賞を受賞した名作です。1863年、南北戦争の激戦地。その自殺的行為から英雄となり、殊勲者として勤務地を選ぶ権利を与えられたジョン・ダンバーは、かねてより興味を持っていたダコダにあるセッジウィック砦を望みます。彼は、愛馬シスコと野性の狼と共に、不思議に満ち足りた日々を送り始めます。そんなある日、ふとした事から先住民たちと交流を深めるようなったダンバーは、先住民に育てられた白人女性と恋に落ちます。
じつは、「すべてが変わった日」は1963年(わたしが生まれた年でもあります)から物語が始まるのですが、1863年から物語が始まる「ダンス・ウィズ・ウルブズ」のちょうど100年後というのも何かの意味を感じます。ケヴィン・コスナー自身は、そのことを意識していたのでしょうか? 「すべてが変わった日」に登場する先住民の青年ピーターは、ひたすらマーガレットに利用されたのではないかという疑念もあるのですが、差別に苦しんできた彼の目には孤独と恐怖が宿っていたのが痛々しく感じました。いま、このブログを書きながらテレビで東京パラリンピックの開会式を観ていますが、IPC(国際パラリンピック委員会)のパーソンズ会長が「この世から差別をなくしたい!」と訴えた挨拶には心を打たれました。東京オリンピック開会式でのIOC(国際オリンピック協会)のバッハ会長の挨拶より格段に素晴らしかったです。〝WE HAVE WINGS"というスローガンにも感動。わたしも、共生社会が訪れることを心から願っています。