No.548
8月27日から公開されたホラー映画「オールド」をシネプレックス小倉のレイトショーで観ました。M・ナイト・シャマラン監督の最新作ですが、彼の映画は当たり外れが大きいことで知られています。彼自身は、「ホラーは作っていない。ダークな映画だ。ホラーには物語の行き着く先がある。だが私の映画は観客を日常の向こう側へと誘う」と語っています。正直言って、この映画はこれまでのシャマラン作品のように展開が速くてハラハラドキドキするのですが、これまたいつものようにオチがビミョーでしたね。
ヤフー映画の「解説」には、「『シックス・センス』『スプリット』などのM・ナイト・シャマラン監督によるサバイバルスリラー。バカンスで秘境のビーチを訪れた一家が、異常な速さで時間が進む奇妙な現象に見舞われる。謎めいたビーチから脱出すべく奮闘する一家の父を『モーターサイクル・ダイアリーズ』などのガエル・ガルシア・ベルナルが演じ、『ファントム・スレッド』などのヴィッキー・クリープス、『ライ麦畑で出会ったら』などのアレックス・ウルフのほか、トーマシン・マッケンジー、エリザ・スカンレンらが共演する」と書かれています。
ヤフー映画の「解説」は、以下の通りです。
「バカンスを過ごすため美しいビーチを訪れ、それぞれに楽しいひと時を過ごすキャパ一家。そのうち息子のトレントの姿が見えなくなり、捜してみると彼は6歳の子供から青年(アレックス・ウルフ)へと成長した姿で現れ、11歳の娘マドックスも大人の女性(トーマシン・マッケンジー)に変貌していた。不可解な事態に困惑する一家は、それぞれが急速に年老いていることに気付く。しかしビーチから逃げようとすると意識を失なってしまい、彼らは謎めいた空間から脱出できなくなる」
夫婦と2人の子どもたちの4人家族がバカンスで訪れたリゾート地。ホテルに到着すると、支配人が笑顔で「ようこそ、楽園へ!」と迎え、特製のウェルカムドリンクが差し出される......極上の時間の始まりです。現在は世界的なコロナ禍でリゾート地でのバカンスを過ごせる人も少ないでしょうが、この映画のオープニングを観て、わたしは、かつて家族でハワイや沖縄のリゾートホテルを訪れたときのことを思い出しました。そのときはビーチでも遊びました。今から振り返っても、最高に幸せな思い出の1つと言えるでしょう。
リゾート地のプライベート・ビーチとは、まさに「この世の楽園」です。でも、じつは死と隣り合った空間でもあります。なぜなら、ビーチの眼前に広がる海はいつでも人間の生命を絶つことができる力を持っているからです。断崖もまた死に近い場所です。頂上から、あるいは登っている途中に落ちれば、いとも簡単に生を終えることができるからです。海と断崖という2つの「死に近い場所」に挟まれたビーチで、映画「オールド」の登場人物たちは狂った時間の中に放り込まれます。そこでは信じられない出来事が次から次に起こるのでした。
「オールド」は不条理なホラー映画でありながら、スリリングなサバイバル・サスペンス映画でもあります。ビーチつながりということで、わたしはアレックス・ガーランドの小説の映画化である「ザ・ビーチ」(2000年)を連想しました。映画史に燦然と輝く「タイタニック」(1997年)で一世を風靡したレオナルド・ディカプリオが、100本以上のオファーを蹴ってまで、次回の主演作に決めた異色作です。バンコクを旅するリチャード(ディカプリオ)は、安宿でダフィと名乗る奇妙な男から"伝説のビーチ"の話を耳にします。そこは美しすぎるほどに美しく、全ての日常から解放される夢の楽園といいます。その翌日、1枚の地図を残しつつダフィは変死。リチャードは地図のコピーを手にし"伝説のビーチ"を目指しますが、それは狂気に満ちた世界のはじまりでした。
「オールド」はM・ナイト・シャマラン監督の最新作です。もともと、わたしはシャマランの「シックス・センス」(1999年)が大好きで、映画館での鑑賞のみならず、DVDでも何度も観ました。ブルース・ウィリス演じる精神科医のマルコムは、かつて担当していた患者の凶弾に倒れます。リハビリを果たした彼は、複雑な症状を抱えたコールという少年の治療に取り掛かるのですが、コールには死者を見る能力としての「シックス・センス(第六感)が備わっているのでした。マルコムはコールを治療しながら、自身の心も癒されていくのを感じますが、最後には予想もつかない真実が待ち受けていました。サスペンス・スリラー映画の最高傑作であるのみならず、コールの死者への接し方にはオカルトを超えた仏教的な世界観さえ感じました。この映画を観たとき、わたしは「シャマランは天才だ!」と思いました。
シャマランが脚本・監督を務めた「シックス・センス」が商業的にも大成功で、アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞にノミネートされました。その後、「アンブレイカブル」(2000年)、「サイン」(2002年)も興行的には成功し、「シックス・センス」ほどではないにしろ、それなりに面白かったです。しかし、「ヴィレッジ」(2004年)あたりから様子がおかしくなってきて、「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006年)では最悪の事態が待っていました。この映画は興行的にも大失敗で、製作費も回収できませんでした。また評論家にも酷評され、さらにシャマランは第27回ゴールデンラズベリー賞で最低監督賞と最低助演男優賞を受賞したのです。
「ハプニング」(2008年)は興行的に成功しましたが、批評家には不評。続く「エアベンダー」(2010年)では、シャマランはこれまでのオリジナル脚本ではなく脚色を担当しました。その結果、興行収入は全世界で3億ドルを超えましたが、批評家支持率は過去最低の6%を記録し、第31回ゴールデンラズベリー賞では最低作品賞、最低監督賞、最低脚本賞を含む5部門を受賞しています。そして、ジェイデン・スミスとウィル・スミス主演の「アフター・アース」(2013年)では初めてデジタルでの映画撮影を行いました。人類が放棄して1000年が経過した地球を舞台に、屈強な兵士とその息子が決死のサバイバルを展開する物語です。さらに「ヴィジット」(2016年)を発表します。休暇を利用して祖父母の待つペンシルバニア州メイソンビルへと出発した姉弟の恐怖体験を描きました。ホラー映画として、なかなか好評でした。しかし、一条真也の映画館「スプリット」で紹介した2017年の映画はどうしようもない駄作でしたね。
わたしはシャマランの映画をほとんど観ていますが、毎回、奇妙な出来事がノンストップで起きて、最後はその謎が解き明かされるのですが、「?」というオチが少なくありません。彼の作品には、必ず「どんでん返し」が用意されています。「シックス・センス」のときはそれが大成功し、映画史に残る印象的なラストシーンが生まれました。しかし、その後のシャマランは「シックス・センス」の成功体験の呪縛にかかったようで、どうも「ドンデン返しを用意しなければ!」という強迫観念にとらわれているような気がします。それがまた、スベることが多いのです。「サイン」や「ヴィレッジ」のどんでん返しも賛否両論でしたが、わたしにはギリギリ許せるレベルでした。しかし、「スプリット」のドンデン返しはいただけません。「それが、どうした?」という感じで白けきってしまい、まったく驚きもしませんでしたね。
そして、「オールド」です。この映画にもシャマラン流のドンデン返しが用意されています。正直言って、「スプリット」に比べればまだマシかもしれませんが、「なるほど、そうだったのか!」と納得できるようなラストとは言い難かったです。ネタバレにならないように注意しながら書くと、この映画でリゾートホテルの客室にチェックインしたとき、ガエル・ガルシア演じる一家の父親が、そのホテルを所有しているのが某製薬会社であることに気づくシーンがあります。その後の一連の奇妙な出来事はそのことと深く関わっていたのです。製薬会社といえば、コロナ禍の現在、ワクチンを製造しているモデルナやファイザーやアストラゼネカといった製薬会社の名前を聞かない日がありませんが、それらの会社が邪悪な陰謀に関わっていたとしたら、これほど怖いことはありませんね。
最後に、この映画を観ていて、非常に印象的だったシーンがありました。映画の舞台となった人智を超えた不思議なビーチでは、30分が1年に相当します。6歳だった少女はどんどん成長して大人の女性になっていくのですが、「私、まだプロムも経験していないのに・・・」とつぶやくのです。プロムとは、「プロムナード」の略称です。アメリカの高校生活における最大のイベントで、卒業を目前にした高校生のために開かれるダンスパーティーで、ハリウッド映画や海外ドラマではおなじみですね。少女はこのプロムに参加もしていないのに、どんどん加齢していく我が身を嘆いたのです。このシーンを観たわたしは、心に衝撃を受けました。そして、現在のコロナ禍の日本における子どもたちや若者たちのことを考えてしまいました。
『儀式論』(弘文堂)
たとえば小学生ならば、新型コロナウイルスの感染拡大による休校や緊急事態宣言によって運動会もできません。中学や高校に入学しても、入学式もない、文化祭も体育祭もない、修学旅行もない、そして卒業式もない。大学に入学しても入学式も新歓コンパもない......これは映画の中のフィクションではなく、いま現実の話です。拙著『儀式論』(弘文堂)では、社会学者エミール・デュルケムの「さまざまな時限を区分して、初めて時間なるものを考察してみることができる」という言葉にならって、わたしは「儀式を行うことによって、人間は初めて人生を認識できる」と述べました。儀式とは世界における時間の初期設定であり、時間を区切ることです。それは時間を肯定することであり、ひいては人生を肯定することなのです。さまざまな儀式がなければ、人間は時間も人生も認識することはできません。まさに「儀式なくして人生なし」です。あらゆるセレモニーが行われないまま、子どもたちが大人になること......これこそが最大の不条理であり、恐怖であり、ホラーそのものではないかと思いました。