No.525
映画「MINAMATA―ミナマター」を観ました。9月23日からの公開ですが、地元のシネプレックス小倉でも上映されました。社会派の映画は多くの観客動員が見込めないので地方では上映されないことが多いです。それで、この映画も東京で観ようかと思っていましたが、地元で観れて良かったです。もちろん感動もしましたが、企業経営者として多くのことを考えさせられました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「日本における水俣病の惨事を世界に伝えたアメリカの写真家、ユージン・スミス氏の日本での取材を描くヒューマンドラマ。1971年から1974年の3年間にわたり、水俣で暮らしながら公害に苦しむ人々の日常と、闘いの日々を撮影した写真家を描く。『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』などの製作を務めたアンドリュー・レヴィタスが監督を手掛け、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズなどのジョニー・デップが主演を務め、真田広之、國村隼、美波、加瀬亮らが共演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1971年、ニューヨークに住むフォトジャーナリストのユージン・スミス(ジョニー・デップ)は、過去の栄光にすがり酒に溺れる日々を送っていた。そんな折、日本のカメラマンとその通訳を務めるアイリーン(美波)が彼のスタジオを訪れる。アイリーンは日本の大企業チッソが工業排水を垂れ流した結果人々が病に倒れていると語り、ユージンに病気で苦しむ彼らの取材をしてほしいと訴える」
わたしと同い年であるジョニー・デップの主演映画を観たのは、一条真也の映画館「グッバイ、リチャード!」で紹介した作品以来ですので、約1年1カ月ぶりです。ハリウッドを代表するスターである彼は、この映画「MINAMATA―ミナマター」の構想を10年前から練っていたそうです。描かれるのは、戦後日本が生んだ最悪の「社会問題」とされる水俣病です。SDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれる現在ですが、かつての高度成長時代の日本を襲った公害を映画のテーマとすることは大きな意味があります。九州の熊本で発生した水俣病が公式に認定されてから今年で65年になります。患者らは今も認定や補償を求め裁判で戦っています。世界的人気俳優であるジョニー・デップをはじめ、國村隼、真田広之、浅野忠信、加瀬亮といった日本を代表する名優たちが、魂のこもった映画を生み出してくれました。本当に素晴らしい俳優たちの競演でした。
水俣病に関しては、一条真也の読書館『苦海浄土』で紹介した石牟礼道子の名著がよく知られています。2018年2月10日に90歳で亡くなった彼女は熊本生まれ、1969年に『苦海浄土』を刊行。水俣病の現実を伝え、魂の文学として描き出した作品として絶賛されました。作家の池澤夏樹氏が個人編集した『世界文学全集』(全30巻、河出書房新社)には『苦海浄土』3部作が日本人作家の長編として唯一収録されています。池澤氏は「辺境から近代化に抵抗し、水俣にとっても、人類にとっても、石牟礼さんがいたことは『幸運』だったかもしれない。翻訳されても価値が減じず、訳された先でも価値が広がっていくような普遍性のある世界文学でした」と評しました。また、2014年9月に石牟礼さんへのインタビュー経験のある宗教哲学者で京都大学名誉教授の鎌田東二氏は、『古事記』『平家物語』『苦海浄土』を「日本の三大悲嘆(グリーフ)文学」と位置づけています。
たしかに石牟礼道子著『苦海浄土』は多くの日本人の魂を揺さぶりましたが、世界中に水俣病の存在を知らしめたのはアメリカの写真家ユージン・スミスでした。彼は、1918年、カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母がアメリカインディアンのポタワトミ族の血筋も引いています。ユージンの父親は小麦商を営んでいましたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺しています。ユージンはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けたといいます。第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣。1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦で歩兵と同行中に日本軍の迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けました。約2年の療養生活を送りましたが、生涯その後遺症に悩まされることになりました。
その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐しています。戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、1947年から1954年まで、雑誌「ライフ」で「フォト・エッセイ」という形で取り組みました。1950年にイギリス労働党の党首選挙を撮りに訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱きます。しかし、ライフ誌編集部の方針と対立し、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売でした。1954年には『A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後は関係を断ち切っています。
1961年、ユージンは日立製作所のPR写真撮影のために来日。そのとき、彼は「もう一度日本を撮りたい」という願いを持っていたといいます。1970年8月、ユージンが51歳のときにニューヨークのマンハッタンにあるロフトでアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会います。富士フイルムのCMでのユージンへのインタビューで、アイリーンが通訳を務めたのです。当時20歳のアイリーンは、母親は日本人で父親はアメリカ人でした。出会って1週間後に、ユージンはアイリーンに自分のアシスタントになって同居するよう頼みます。アイリーンは承諾しそのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らし始めました。
ニューヨークで日本の美術関係者から来日して水俣病の取材をすることを提案されたユージンとアイリーンはこれに応じ、1971年8月16日に来日。同年8月28日に日本で婚姻届を出し、東京都内のホテルで披露宴を挙げて夫婦となりました。スミス夫妻は患者多発地域であった熊本県水俣市月ノ浦に家を借り、同年9月から1974年10月までの3年間、ともにチッソが引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を行いました。
1972年1月7日、千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場を訪問した際、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生。ユージンもカメラを壊された上、コンクリートに激しく打ち付けられて脊椎を折られ、片目失明の重傷を負いました。ユージンの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けたが完治することはなく、暴行の容疑者は不起訴処分となりました。この事件でユージンは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語っています。
ユージンはチッソを告訴することも勧められましたが、それを拒みました。そして、その後も水俣市と東京都内を行き来しながら、患者らの後押しを受けて撮影を続けたました。彼の写真集『水俣』は世界に衝撃を与えましたが、彼は暴力で受けたダメージが原因で1978年にこの世を去り、『水俣』は世界的写真家であったユージン・スミスの遺作となったのです。映画の冒頭には、借金まみれになって過去の栄光にすがりつくユージンの姿が描かれます。彼は自暴自棄になって酒に溺れる日々を送ります。そんな暗闇にいた彼に光を当てたのは、アイリーンの愛であり、水俣病の取材依頼を受けることを決めたユージンの写真家としての志であり、それを支えた「ライフ」誌でした。
水俣病が公式に認定されてから65年目となった2021年5月、日本人インタビュアーに「この映画を『今』伝えたい理由は?」と質問されたジョニー・デップは、「今世界に広がっているパンデミックは悲惨な状況になっていますが、水俣も同じぐらい悲惨で、長年にわたり汚染され人の命も奪われてきました。水俣の問題は一度きりの問題ではないと気付きました。今(コロナで)多くの人が被害を受けたりたくさんの命が失われる中、医療関係者の方々はギリギリの状況で命を救おうと必死です。中には他人の命を救おうと自らの命を犠牲にする人さえいます。「自分さえよければ、私が、私が」という考え方はよくあることで、今に始まったことではありません。こんな今だからこそ私たちの欲望や願望などをもう一度考え直すべき時期ではないでしょうか」と答えています。
ユージン・スミスを演じたジョニー・デップは、よく本人に似ていました。ジョニーはユージンに長年憧れていたそうです。水俣病は、熊本県水俣市のチッソ工場の廃水を原因とし、現在まで補償や救済をめぐる問題が続く日本における「四大公害病」のひとつです。その存在を世界に知らしめたのが、ユージンが1975年に発表した写真集『MINAMATA』です。彼の遺作となったこの写真集を基に、ジョニー自身の製作・主演で待望の映画化が実現しました。ユージンは今でいうインフルエンサーでしたが、ジョニーも現代におけるトップクラスのインフルエンサーです。65年前に、ユージンが「これが水俣病だ!」と世界に衝撃を与え、今またデップが「水俣病を忘れるな!」と訴えました。2人の新旧インフルエンサーによる魂のリレーに、わたしは感動しました。そして、その魂は「義を見てせざるは勇なきなり」という『論語』の言葉に通じるように思えてなりません。
豪華な男優陣の中で、紅一点といえるアイリーンを演じた美波がすごく良かったです。オーデションで選ばれたという彼女は1986年東京都出身、現在35歳で既婚。ロサンゼルス 、パリと日本を行き来しながら役者として活動中。演技も堂々としていて、ジョニー・デップとの息もバッチリ合っていました。その美波が演じたアイリーンが「自分も写真を撮影します」と言ったとき、ユージンは「写真家は写真を撮るときに自分の魂を削って撮っている。だからまっすぐ向き合って撮って欲しい」と語りますが、至言だと思いました。ユージンもそうですが、戦場カメラマンのロバート・キャパや沢田教一の写真からも「魂を削って撮っている」ということを感じます。また、ユージンは「1枚の写真は千の言葉より雄弁である」と述べ、水俣病の患者を抱える人々に「家族とのかけがえのない大切な瞬間。それを共有させてもらえませんか」と懇願しますが、そのシーンには感銘を受けました。その結果、歴史に残る写真集『MINAMATA』が生まれたのです。
残念だったのは、この映画は水俣で撮影されていないのはもちろん、日本国内でも撮影されていないことです。1970年代の熊本・水俣が舞台なのですが、現在の水俣は当時から大きく変化していたため、セルビアのベオグラード港の倉庫でのセット撮影と、モンテネグロのティヴァトという海岸沿いの街でロケ撮影が行われたそうです。そのために、風景も家屋も家具も突っ込みどころ満載で、時代考証もおかしい点が多かったです。水俣病の映画なのに水俣で撮影できなかったのは、水俣市からの協力が得られなかったからです。それは地元には地元の人間にしかわからない根深い問題があり、現在の水俣市が水俣病についての特定の立場を明確にする事は難しいようです。また、水俣市民の中には、この映画を観て古傷に塩をすり込まれたように感じる人もいるでしょう。事態は複雑なのですが、苦海の中を生きた人々の悲嘆はこの映画よりもはるかに大きかったことは間違いありません。
ジョニー・デップはユージン・スミスになり切っていましたが、被害者たちのリーダーであるヤマザキ・ミツオを熱演した真田広之も素晴らしかったです。彼はチッソの工場の前で、「水俣病は遺伝でもなければ偶然でもない。原因を作った相手ははっきりしているし、原因を作った相手は責任を取らなければならない」と訴えます。わたしは、それを聴いて胸が熱くなりました。彼の言葉はその通りですし、まったく反論の余地はありません。そして、わたしは新型コロナウイルスのことを思いました。新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった犠牲者は多いですが、コロナも遺伝でもなければ偶然でもありません。もちろん原因を作った相手があるわけですが、ブログ「千葉真一さん、逝く!」に書いたように、今年8月19日に世界的アクションスターの千葉真一さんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなりましたが、千葉さんは真田広之の師匠でした。
映画「MINAMATAーミナマター」をよく思わない人の中には、この映画の製作に多くの中国資本が入っていることを指摘します。つまり、今さら65年前の公害病の映画を作るのは日本に対する嫌がらせではないかというのです。現在の中国は日本どころではない環境汚染大国ですが、そのことを隠蔽するためにも日本を悪役にした映画を作りたかったというわけです。中国といえば、新型コロナウイルスが武漢研究所から漏洩したという説が今でも強いです。WHOのテドロス事務局長は中国よりで「武漢研究所漏洩説」に否定的であると思われてきましたが、最近になって流れは大きく変わっています。
zakzakより
「テドロス氏『反中』へ"寝返った"!? WHO『親中』から一転...コロナ『武漢研究所漏洩説』を否定せず、起源調査で米と蜜月 医師・村中璃子氏緊急寄稿」というネット記事によれば、新型コロナウイルスの起源をめぐる米国の調査報告書は、確定的な結論を導けないとした一方、バイデン米大統領は中国の「隠蔽」を批判したと指摘しています。そして、中国をじわじわと締め上げる手法の裏には、これまで親中だった世界保健機関(WHO)が米国側に「寝返った」構図が浮かぶと書かれています。新型コロナウイルスによる肺炎は遺伝でもなければ偶然でもありません。原因を作った相手があり、その相手は世界中に対して責任を取らなければならないのです!
そして、ジョニー・デップ、真田広之に負けず劣らず、素晴らしい演技を見せてくれたのが國村隼でした。彼は熊本出身ですので、この映画に出演したことは感慨無量だったと思います。彼が演じたチッソ社長は、 ユージンに対して「ppmを知っているか、ごく微量な単位で、私達はそれしか排出していない。また、苦しむ漁民も社会からしたらppmだ」と語ります。これはまさに水俣病の構図なわけですが、この「ppm」を撮ろうという熱意がユージン・スミスの志であり、本来のジャーナリズムが目指すものです。東京五輪のスポンサーになり下がってしまった日本の大新聞はジャーナリズム失格ですが、ユージンが命がけで撮った写真を掲載する「ライフ」こそはジャーナリズムの鑑です。それにしても、國村隼の社長役はあまりにもよく似合っていました。黒ブチ眼鏡にヘルメットをかぶると、トヨタ自動車の豊田章男社長にソックリで驚きましたが、同社長はわたしの最も尊敬する経済人の1人です。
当時の被害者側の弁護団長が「この映画には事実でないことも混ぜ込まれている。なぜ今、ハリウッドはこの映画を作ろうとしたのか」と疑問を呈しているという動画を観ましたが、先頭に立ってチッソと闘いながらも、この弁護士さんは「それでもチッソや社長は立派だった」と語り、この問題は映画のような善悪二元論で語れないと述べていました。映画の中の國村隼演じるチッソ社長の苦悩の姿は、観ていて辛かったです。もちろん、人として被害者に膨大な賠償金を払ってやりたいのは山々だったのでしょうが、彼にはチッソという会社とその従業員の生活も守らなければいけなかったのです。その経営者としての彼の苦悩と悲嘆を思うと、涙が出てきます。
そして、交渉の場でテーブルの上に土足で上がって胡坐をかくという非礼な行為をした被害者側のリーダーの振る舞いは許せませんでした。振る舞いといえば、ユージンが水俣の人々に日本式のお辞儀をしたり、水俣病の少年とハグしたりするシーンには胸が熱くなりました。まさに、「礼」とは「人間尊重」そのものです! しかし、いくらチッソの社長が立派だったとしても、暴力団のような輩を使ってユージン・スミスに暴行を働いたことも事実です。水俣病で見られた「事実の隠蔽」「告発者への圧力」などは、福島第一原発事故やコロナ禍でも見受けられます。映画に登場するチッソの株主総会は1971年ですから、今年で50年経っています。しかし、日本社会が半世紀の間変わっていないとしたら怖いことです。今も昔も、大企業と政府や行政は結託するのが常なのでしょうか?
「Learnig for All」ディスプレイ広告より
また、映画の中のセリフにあるように、弱いものが強いものに略取されるのがこの世の常なのでしょうか? いや、わたしはそうは思いたくありません。むしろ、本当に世直しができるのは政府でも行政でもなく、企業ではないかと考えます。SDGsやCSR(企業の社会的責任)は当然ですが、人も資本も志本(想い)も集中した企業こそは、社会を良くできると信じています。最近、わたしのPCには「小学3年生みずきちゃんは、お風呂に入る習慣を知らない」とか「歯磨きも入浴もせず、毎日同じ服を着ている小学生がいます」といったディスプレイ広告がよく出てきますが、そのたびに泣けて仕方がありません。「なんとかしてあげなければ!」と心から思います。映画「MINAMATAーミナマター」は環境問題に焦点を当てていますが、人権問題も貧困問題も児童虐待......すべての問題は根が繋がっています。そういう考え方に立つのがSDGsであるわけですが、その意味で入浴ができなかったり、1日に1回しか食事ができないようなお子さんに対して、見て見ぬふりはできません。
子どもたちをお風呂に入れてあげたい!
ブログ「日王の湯で湯縁社会を!」で紹介したように、福岡県田川郡福智町にある「ふるさと交流館 日王の湯」をわが社が運営することになりました。コロナが落ち着いたら、日王の湯を解放して、子どもたちに風呂に入ってもらい、その後、食堂でカレーライスをお腹いっぱい食べてもらうイベントを開催したいと考えています。それは、新しい互助会の在り方だとも思います。七五三のような通過儀礼を挙げてもらえない子どもたちには、合同七五三なども考えてみたいと思います。いずれはイベントでなく持続性のある活動も視野に入れています。この考えに賛同して下さる方々には、ぜひ、わがサンレーの互助会に入会していただきたいと思います。つまり、その事業の志と継続性を支援するクラウド・ファンディング的な意味での互助会募集です。わが社は、他者の幸せを願う志を持ったアンビショナリー・カンパニーでありたい......この映画を観て、わたしは、その想いをさらに強くしました。