No.526
日本映画「空白」を観ました。一条真也の映画館「MINAMATA-ミナマター」で紹介した映画も非常に重い内容でしたが、この作品も重かったです。水俣病患者以外にも、この世で生き地獄にある人々がいることを描いていました。それにしても、これほど不快感のある、やりきれない、登場人物が全員不幸で、ひたすら辛い映画もなかなかないと思います。しかし、これほど感動する映画もなかなかありません。多大なストレスを観客に与え続け、最後には少しだけカタルシスを与えるグリーフケア映画の大傑作でした。ずばり言って、今年の「一条賞」の最有力候補です!
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「古田新太と松坂桃李が共演を果たしたヒューマンドラマ。万引きを目撃され逃走中に車と衝突した女子中学生の死をめぐり錯綜する、被害者の父親と事故に関わる人々の姿を描写する。『新聞記者』『宮本から君へ』などを手がけてきたプロデューサーの河村光庸が企画し、河村が携った『愛しのアイリーン』などの吉田恵輔が監督と脚本を担当する。関係者全員が被害者にも加害者にもなり得る物語が映し出される」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「スーパーの化粧品売り場で万引きしようとした女子中学生は、現場を店長の青柳直人(松坂桃李)に見られたため思わず逃げ出し、そのまま国道に飛び出してトラックと乗用車にひかれて死亡してしまう。しかし、娘の父親(古田新太)はわが子の無実を信じて疑わなかった。娘の死に納得できず不信感を募らせた父親は、事故の関係者たちを次第に追い詰めていく」
人が死ぬ映画は無数にあります。また、遺された者の悲嘆や怒りを描いた作品も無数にあります。さらには、わたしが最近観る映画はどれもグリーフケア映画としての要素を発見してしまうものばかりです。しかし、この「空白」は特別です。これほど、すさまじいグリーフケア映画はありません。「空白」が大傑作になったのは、ひとえに主演の古田新太の熱演です。熱演というよりも怪演といった方がいいかもしれませんが、交通事故死した娘の遺体と対面したときの号泣と咆哮は日本映画史に残るほどの凄まじいものでした。このシーンだけで、彼がただの上手な役者を超えたモンスター俳優(劇中ではモンスター・ペアレントですが)であることがよくわかります。
古田新太は1965年生まれの55歳なので、わたしの2学年下です。でも、とても年下には見えません。えらく老けているというか、変な貫禄があります。最初に彼の存在を知ったのは、彼が所属している「劇団☆新感線」の公演DVDや「ゲキ×シネ」と呼ばれる映画においてでした。つねに彼は異形のキャラクターを演じていましたが、その存在感は圧倒的でした。その後、NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」(2013年)の荒巻太一役で全国区の知名度を得ますが、「いつか、ものすごい映画で、とんでもない演技をするかもしれない」と思っていました。結果、わたしの予感は見事に当たりました。そのものすごい映画こそ、この「空白」だったのです。
古田新太が気性の荒い漁師を演じれば、彼の娘を結果的に死なせてしまうスーパーの店長(松坂桃李)は気弱で優柔不断です。父親が急死したせいで、家業のスーパーを継いだものの、近くのイオンに脅かされ、日常的な万引きにも悩まされていました。そんな彼が負担に感じるほどのお節介を焼き続ける寺島しのぶ演じるスーパーの女店員、「おとなしい娘が万引きをしたのは学校でいじめに遭っていたからではないか」と疑うモンスター・ペアレントの怒りの矛先を巧妙に変えて、店長をロリコン痴漢野郎に仕立て上げた中学校の校長、取材で真摯に心中を語る店長の謝罪コメントを切り取って悪印象で視聴率を稼ぐマスコミ......とにかくイライラする連中ばかり登場してきますが、彼らに次第に追い詰められて、店長は自ら命を絶とうとさえします。そんな彼の閉ざされた心にも、最後には「店長が作った弁当美味かったよ」って言ってくれる人が現れ、一筋の救いの光が差し込むのでした。
それにしても、この映画の重さはただごとではありません。ここ最近観た日本映画では、一条真也の映画館「怒り」、「凪待ち」、「楽園」、「望み」で紹介した映画の重さにもちょっと似ています。しかし、それらには最後まで救いが感じられませんでした。最後の最後で、ささやかな希望(のようなもの)を与えてくれるという意味では、この「空白」は一条真也の映画館「朝が来る」で紹介した映画に似ているかもしれません。2020年に公開された「朝が来る」は、ドラマ化もされた直木賞作家・辻村深月の小説を映画化し、河瀨直美が監督した作品です。特別養子縁組で男児を迎えた夫婦と、子供を手放す幼い母親の葛藤と人生を描いています。無縁社会と呼ばれる現代社会の中で「血縁」の意味を問うという点でも、「朝が来る」と「空白」のメッセージには通じるものがあります。
「空白」予告編より
「空白」は、開始から数分後に物語の大きな発端となる女子中学生の交通事故死が描かれます。最近、映画の中で人が車に撥ねられるシーンがどんどんリアルになっていますが、この映画のそれはハンパではありません。最初の乗用車に撥ね飛ばされた後、トラックの車輪に巻き込まれて何十メートルも引きずられるのですが、アスファルトの道路にずっと血の跡がついていて、目を覆いたくなりました。水俣病に冒されるのは想定外の災難ですが、交通事故に遭うというのは想定内の災難です。現代人なら誰にでも起こりうるアクシデントです。あなたやあなたの家族が明日、水俣病に冒される危険性は限りなくゼロに近いですが、交通事故死する危険性は限りなく高いと終えます。
「空白」予告編より
そして、交通事故というものは、被害者だけでなく加害者にとっても災難です。乗用車とトラックの運転手にしてみれば、急に人が目の前に飛び出してきたわけで不慮の出来事です。それでも、交通事故の場合は100%車の方が悪いというのが現状です。乗用車を運転していたのは若い女性でした。彼女は警察の取調べでも錯乱し、母親に付き添われて亡くなった女の子の父親に会いに行って号泣しながら謝罪します。それでも、古田新太演じる父親は彼女を無視し、謝罪を受け付けませんでした。その後も何度か彼女は謝罪に来ますが、それでも追い返し続けます。
「空白」予告編より
精神的に追い詰められた彼女は、ついに自死します。その葬儀の場で、片岡礼子演じる彼女の母親が、さすがにショックを受けて弔問に訪れた古田演じる父親に対して深々と一礼し、「最後まで責任を果たさずに、申し訳ありません。娘は心の弱い子でした。そんな弱い子に育てたのは、親であるわたしの責任です。これからは、わたしが責任を負わせていただきます。娘は心は弱かったですが、とても優しい子でした。どうか、娘を許してあげて下さいませんか」と懇願するシーンは泣けて仕方がありませんでした。そして、被害者の父親と加害者の母親の2人の間には子を失った者同士のシンパシーがありました。悲嘆の縁としての「悲縁」が生まれた瞬間でした。
「空白」予告編より
それにしても、この映画は交通事故の怖さを思い知らせてくれます。まったく平凡な人間がある日、突然、殺人者になってしまう......それが交通事故の怖さです。わたしは、数日前に読み終えたばかりの『昨日までの世界~文明の源流と人類の未来』という本の内容を思い起こしました。進化生物学や人類生態学の分野で世界的に有名なジャレド・ダイヤモンドの著書で、人生の大半をニューギニアなどの伝統的社会の研究に捧げてきた彼が、現代社会に住む人々が学ぶべき人類の叡智を紹介する本です。その日本版の下巻の冒頭の大4部「危険とそれに対する反応」として、「有益な妄想」という考え方が出てきます。
彼がニューギニアに野外視察に行き始めた頃、1週間を過ごすキャンプのために、見事な巨木を見つけた彼はニューギニア人の助手たちに「あの巨木の苔むした幹の脇のところにテントを張るので、準備にとりかかって下さい」と言いました。しかし、彼らはひどく動揺し、「あの巨木の幹の脇で寝るのは嫌だ」と言ったのです。「あの巨木はすでに枯れて、死んでいる。だから、我々がテントで夜、眠り込んでいるあいだにわれわれの上に倒れ込んできて、われわれを殺すかもしれない」というものでした。実際に巨木はすでに枯れていましたが、この1週間の間に倒壊する可能性は限りなく低いです。それでも、少しでもリスクがあれば冒さないというのが伝統的社会の知恵なのでした。
この「有益な妄想」を学んだ著者は、その後は、濡れると滑る浴室でのシャワー、電球の交換で脚立に上がるとき、階段の上り下り、つるつると滑る歩道を歩いたりするときに気をつけているそうです。著者いわく「1回あたりのリスクは低いが、生活のなかで頻度の高い行為であり、用心深く対応することに越したことはない(倉骨彰訳)」というわけですが、そんな彼が最も用心深く対応する機会こそ、車の運転なのでした。「有益な妄想」は「建設的なパラノイア」とも言い換えられていますが、想定外の出来事の連続である人生においては素晴らしい知恵であると思います。過度の心配性もストレスを溜め込みますが、つねに最悪の事態を想定して生きることは、最悪の事態を回避する最大の方策ではないでしょうか? それは車の運転においても、新型コロナウイルスの感染対策においても、すべてのリスクに対応しうる人類の叡智なのです。