No.433


 日本映画「楽園」を観ました。ラグビーW杯だ、プロ野球日本シリーズだと、日本中が浮かれているので、天邪鬼なわたしは「ひとつ、重い映画でも観るか」という気になったのです。たしかに重くて暗い映画でした。しかし、終始それだけで、まったく救いがなく、正直言って「こんな希望のない映画、果たして作る必要があるのか」とさえ思いました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『悪人』『怒り』などの原作者・吉田修一の短編集『犯罪小説集』の一部を、『64―ロクヨンー』シリーズなどの瀬々敬久監督が映画化。ある村で起こった幼女誘拐事件、少女行方不明事件、養蜂家にまつわる事件を通して、人々の喪失と再生の物語が描かれる。少女行方不明事件の犯人だと疑われる主人公を演じる綾野剛をはじめ、NHKの連続テレビ小説『とと姉ちゃん』などの杉咲花や『64―ロクヨンー』シリーズで主人公を演じた佐藤浩市らが共演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「12年前、青田に囲まれたY字路で幼女の誘拐事件が発生した。事件が起こる直前までその幼女といたことで心に傷を負った紡(杉咲花)は、祭りの準備中に孤独な豪士(綾野剛)と出会う。そして祭りの日、あのY字路で再び少女が行方不明になり、豪士は犯人として疑われる。1年後、Y字路へ続く集落で暮らす養蜂家の善次郎(佐藤浩市)は、ある出来事をきっかけに、村八分にされてしまう」

 一条真也の映画館「悪人」一条真也の映画館「怒り」で紹介した映画も、WOWOWで観た「64―ロクヨンー」も、それなりに見応えのある映画でした。いずれも、「人間とは何か」を観客に問うような深みがありましたが、この「楽園」はちょっと期待外れでしたね。まず、原作の『犯罪小説集』の中の2つの小説を基にしているそうですが、ストーリーがぎこちなく、継ぎはぎ感が強いです。おそらくシナリオの完成度が低いと思われるので、ここは欲張らずに1つの作品のみを原作としたほうが良かったと思います。

 この物語は、ある「村」が舞台となっています。松本へ買い出しに行くという場面があるので、おそらくは長野県にある集落なのでしょう。その場所は限界集落として、さまざまな問題を抱えています。映画では、この村に住む人々の心の闇を描いているのですが、ただでさえ日本という国家から疎外されている「村」をここまで悪く描く必要があるかなと思いました。描くなら、田舎よりも都会に住む人々の心の闇を描いてほしいです。

 どうも、この原作者にしろ、監督にしろ、田舎に対する偏見があるような気がしました。わたしの住む北九州市は政令指定都市なので、いわゆる「田舎」とは呼ばれませんが、かつて暴力団が注目を浴びたこととか馬鹿げた成人式の影響などもあって、「修羅の国」などと呼ばれています。最近、『修羅ノ国 北九州怪談行』(竹書房文庫)という本があるのをアマゾンで知り、「馬鹿にするのもいいかげんにしろ!」と腹が立ちました。
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ハートフル・ソサエティ』(三五館)



映画「楽園」には、人間の恐ろしさとともに社会の恐ろしさが描かれています。特に異質な人間を排除する社会の負の面が描かれています。人の心の美しさは「ホスピタリティ」として表現されます。「楽園」の舞台となる村には、ホスピタリティというものがありません。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「ホスピタリティが世界を動かす」にも書きましたが、ホスピタリティを人類の普遍的な文化としてとらえると、その起源は古いです。実に、人類がこの地球上に誕生し、夫婦、家族、そして原始村落共同体を形成する過程で、共同体の外からの来訪者を歓待し、宿舎や食事・衣類を提供する異人歓待という風習にさかのぼります。

「ホスピタリティ」とまったく反対のものを「ネオフォビア」といいます。異邦人を嫌う感覚ですが、「楽園」に横溢しているのはこの「ネオフォビア」でした。インドネシアからの難民母子にUターンした養蜂家......村の人々は彼らを敵視します。インドネシア難民の息子を殺人犯扱いし、養蜂家を村八分にします。このあたりは、映画を観ていても非常に不愉快になる場面でした。

 インドネシア難民の息子を演じた綾野剛は素晴らしい演技でした。「怒り」でも、殺人犯ではないかと疑われるゲイの青年を演じましたが、スクリーンに映った彼は本当に挙動不審で、容疑者扱いされても仕方ないような雰囲気を持っています。ネタバレにならないように注意しながら書くと、この映画にはある人物の焼身自殺のシーンがあるのですが、わたしはブログ「グリーフケア・ソングス ベスト」で紹介したDVDで「フランシーヌの場合」という歌を最近歌ったばかりだったので、その歌のモデルになったフランシーヌ・ルコントというパリで焼身自殺を図った女性を連想しました。

 世界的な「政治の年」となった1969年(昭和44年)3月30日、日曜日の朝。パリの路上で30歳の女性が、シンナーを被って焼身自殺しました。フランシーヌ・ルコントという名前のこの女性はベトナム戦争、ナイジェリアに心を痛め、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜きを持っていたそうです。ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙も書いたこともあるといわれますが、家族の話では精神科にかかっていたこともあるとか。いずれにせよ、この事件に心を動かされた日本人によって、「フランシーヌの場合」というフォークソング(反戦歌)が作られました。いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲ですが、悲嘆の名曲として広く愛されました。わたしは子どもの頃に、この事件を知ったのですが、「燃えながら死ぬなんて、こわい!」と思った記憶があります。

 同級生が誘拐された女の子の役を演じた杉咲花も名演技でした。「なぜ、自分だけが助かったのか」「自分だけが幸せになってはいけないのではないか」という想いは、事件や事故や災害などで親しい人を亡くした人に共通する感情で、グリーフケアにとっても重要な問題です。小学生の誘拐事件といえば、どうしても今年9月21日に山梨県道志村の椿荘オートキャンプ場で行方不明となった小倉美咲ちゃんのことを連想してしまいます。美咲ちゃんが1日も早く無事に発見されることを心よりお祈りいたします。一条真也の読書館『神隠しと日本人』で紹介したように、子どもが忽然と姿を消すということは誘拐がその原因であることが多いでしょうが、日本には「神隠し」という物語で悲嘆に寄り添う文化がありました。映画の最後に、杉咲花演じる紡が誘拐事件の犯人を幻視しますが、その人物が罪を犯すにはあまりにも動機が弱いように思いました。

 この映画にはヘイト、差別、疑心暗鬼の心が嫌というほど登場します。そして、誰かを孤立させることで結束を保つ集団社会の嫌らしさが描かれます。佐藤浩市が演じた養蚕家の善次郎は、村の未来を考えてハチミツによる村起こしを考えますが、彼を異端視する村人によって「村八分」の目に遭います。さまざまな嫌がらせをされた結果、追い詰められた彼は、一条真也の映画館「ジョーカー」で紹介した映画の主人公のように一線を越えます。このとき、ホアキン・フェニックスと佐藤浩市の2人が重なって見えました。しかし、「八つ墓村」のモデルにもなった「津山事件」じゃあるまいし、善次郎が至った行動にはリアリティを感じることはできませんでした。まあ、いまどき「村八分」などを堂々と行う村など、滅ぶのも仕方ないかもしれませんね。

 タイトルの「楽園」ですが、映画の内容からはまったくイメージできません。インドネシア母子が亡命するとき、母親が息子に「日本は楽園だよ」と言ったというのですが、それだけでは弱い感じがします。わたしは、「楽園」というのは善次郎に最もふさわしい言葉であると思いました。なぜなら、彼は都会から故郷に帰って自然の中で暮らします。養蚕を営んで犬を飼う生活は、彼にとって楽園のようなものだったかもしれません。

 また、彼は亡き妻の樹木葬として、その遺骨を山に埋めます。それは、彼の生きる場と死者の世界をそのまま繋げることであり、「霊園」ならぬ「楽園」という印象を受けました。もっとも、その楽園も終わる日が来るのですが......。そういえば、善次郎はマネキンに亡き妻の服を着せて屋外に飾っていました。これは故人の供養というよりも、生き残った者のグリーフケアの営みでした。善次郎の深い悲しみが胸に沁みました。