No.535
東京に来ています。29日は西新橋の全互協でグリーフケアPT会議にリアル参加してから、銀座で出版関係の打ち合わせし、それからTOHOシネマズ日比谷でこの日から公開の「モーリタニアン 黒塗りの記録」を観ました。小さめの8番劇場でしたが、ほぼ満員で驚きました。内容は社会派の大作で、知らなかった事実の波状攻撃に圧倒され、いろんなことを考えさせられました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「モハメドゥ・ウルド・スラヒの著書を原作に描く社会派ドラマ。弁護士たちが、アメリカ軍のグアンタナモ基地で何年も投獄生活を送るモーリタニア人青年の弁護を引き受ける。『ブラック・シー』などのケヴィン・マクドナルドが監督を手掛け、『フライトプラン』などのジョディ・フォスター、『ダイバージェント』シリーズなどのシェイリーン・ウッドリー、『エジソンズ・ゲーム』などのベネディクト・カンバーバッチらが弁護士を演じている」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「モーリタニア人のモハメドゥ(タハール・ラヒム)は、アメリカ同時多発テロの容疑者として、キューバにあるアメリカ軍のグアンタナモ基地に収容されていた。彼の弁護を引き受けた弁護士のナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)とテリー・ダンカン(シェイリーン・ウッドリー)は、真相解明のため調査を開始する。彼らに相対するのは、軍の弁護士であるステュアート中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)だった」
まず、主人公モハメドゥが無実の罪で14年間も拘留されていた事実に驚くばかりです。ブッシュ政権下で8年間拘留されていたのは理解できるとしても、裁判で無実が証明されてからもオバマ政権が7年間も拘留したというのが信じられません。ノーベル平和賞を受賞したバラク・オバマの印象が変わってしまいます。それぐらい、9・11というアメリカ社会の最大のトラウマの首謀者とされたモハメドゥの存在はスケープゴートとして大きかったと言えるでしょう。同時多発テロ発生の描写を一切見せずに、9・11の後日談を映画化したのは良かったと思います。
尋問を受け続けたモハメドゥがアメリカ政府の尋問機関に引き渡され、70日間にわたって拷問を受けるシーンは凄惨でした。寒さ、痛み、不眠の苦しみ......あらゆる責め苦が彼を襲います。中でも、猫のマスクを被った女性が彼にファックを強要する場面は常軌を逸し過ぎていて、ほとんど「ホラー」だなと思いました。もちろん、そのような拷問を行った事実をアメリカ政府は一切認めません。それにしても、その70日間の拷問の真実を女性弁護士のナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)に伝えることができたことが意外です。それまでの告発文書は黒く塗り潰されていたのに、どうして拷問の真実だけ黒塗りされずに報告することができたのでしょうか?
長い不当な拘留や拷問シーンを見ると、多くの日本人は「アメリカはとんでもない国だ!」と思うでしょう。わたしも、「これでは、とても法治国家とは言えない」と思いました。しかし、モハメドゥは結局のところ解放され、(最愛の母の死に目には会えませんでしたが)無事に母国に帰り、なんとアメリカ人女性弁護士と結婚し、子どもまで授かっています。これが中国や北朝鮮なら、たとえ無実であっても生きては帰れなかったのではないでしょうか。その意味で、やはりアメリカは法治国家であり、自由の国であることがわかります。この映画も単なる反米映画ではなく、その根底には「アメリカも捨てたものじゃない」ということが言いたかったのだと思います。
そう、最後の最後で、アメリカは法治国家でした。実際、モハメドゥの弁護を担当するジョディ・フォスター演じるナンシー・ホランダー、シェイリーン・ウッドリー演じるテリー・ダンカン、軍の弁護士であるベネディクト・カンバーバッチ演じるステュアート中佐など、この映画には心ある法律人たちが登場します。彼らによって、モハメドゥは救われました。そして、裁判の席でモハメドゥが「無実のわたしを苦しめた人々を恨んではいない。赦すことはアッラーの教えだからだ」と発言したことに対して、そこにいた人々は一様に感動を覚えます。この場面では、「政治」や「法律」をテーマとしているこの映画が「宗教」をテーマとする映画に一変したように思いました。
『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』
9・11米国同時多発テロに衝撃を受けたわたしは、2006年に『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)を書きました。あの人類史に残る悲惨なテロ事件の背景には、キリスト教とイスラム教の宗教対立があると見られました。しかし同書では、2つの世界宗教はともに「一神教」であり、しかも、同じ神をあがめていると訴えました。ユダヤ教の神はヤハウェ(エホバ)と呼ばれますが、その同じ神が、イエス・キリストに語りかけたのです。その神が「父」とか「主」とか「God」とか呼ばれているわけです。ちなみに、イスラム教のアッラーも同一の神です。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三姉妹宗教は同じ神を崇拝しているのであり、違うのは「神に対する、人びとの対し方」だと言えるでしょう。そして、神の下には「人の道」があります。嘘をつかないこと、人を殺さないことなどです。これはキリスト教やイスラム教を超えた普遍的な倫理であり、だからこそ、「赦すことはアッラーの教えだ」というモハメドゥの言葉に、キリスト教徒であるアメリカ人たちの魂が揺り動かされたのです。その意味で、この映画は宗教映画でもありました。
それにしても、この映画が事実に基づく話であるとは驚きです。裁判も行われずに長期間の拘留を受けたモハメドゥはよく生き延びたものだと思います。特に70日間の過酷な拷問を受けている最中は、いつ発狂したり、死亡したりしてもおかしくありませんでした。まさに「絶体絶命」の場所に追い込まれたモハメドゥは仲間の囚人のように自死の道を選びませんでした。彼は歯を食い縛って拷問に耐え抜き、生き抜いたのです。そして、裁判に勝訴し、7年後ではありますが母国に帰り、結婚をして幸せな家庭を築いたのです。前日に観た一条真也の映画館「テーラー 人生の仕立て屋」もそうでしたが、この映画を観て、「人生に絶望なし」ということを痛感し、決して自ら命を絶ってはいけないと思いました。わたしは、この世に生み出された多くの名作映画のメッセージは2つに集約されると考えています。それは、1つは「人に優しくあれ!」であり、もう1つは「生きろ!」です。終始、重苦しい雰囲気に包まれていた「モーリタニアン 黒塗りの記録」を観終わったとき、わたしはその2つのメッセージを心に刻みました。