No.551


 映画「クライ・マッチョ」を観ました。大ファンであるクリント・イーストウッド監督のデビュー50周年記念の主演作ですが、内容はグリーフケア映画でした。年齢を超越して強い男を演じたイーストウッドは、なんと91歳!

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『運び屋』などのクリント・イーストウッドが監督と主演などを務め、N・リチャード・ナッシュの小説を原作に描くヒューマンドラマ。落ちぶれた主人公が、少年と二人でメキシコを横断しながら心を通わせていく。原作者のナッシュと『グラン・トリノ』などのニック・シェンクが脚本を担当し、『ミリオンダラー・ベイビー』などのアルバート・S・ラディらが製作を手掛ける。エドゥアルド・ミネットやナタリア・トラヴェンをはじめ、カントリー歌手としても活動するドワイト・ヨーカムらが出演する。」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ロデオ界の元スターのマイク・ミロ(クリント・イーストウッド)は、落馬事故をきっかけに家族とも別れ、今は競走馬の種付けの仕事をしながら一人で暮らしている。ある日、彼は元雇用主にメキシコにいる息子のラフォ(エドゥアルド・ミネット)を誘拐するよう頼まれ、単身メキシコに向かう。マイクは少年ラフォと出会い、二人でテキサスを目指すが、その道のりは困難なものだった」

 わたしは、クリント・イーストウッドという映画人を心からリスペクトしています。彼は、俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演してきました。自身最大の当たり役であるハリー・キャラハン役を演じた「ダーティハリー」シリーズで、映画界のスーパースターの地位を不動のものとしました。監督としても「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を2度受賞するなど、ハリウッドで長年活躍してきた俳優、映画監督です。カリフォルニア州カーメル市市長を1期(2年間)務めましたが、彼の人生は映画と共にあったと言えます。その彼の監督デビュー50周年デビュー記念作品が「クライ・マッチョ」です。

「マッチョ」とは「強い男」という意味ですが、映画「クライ・マッチョ」での「マッチョ」は「カウボーイ」の代名詞ともなっています。実際、クリント・イーストウッドは多くの西部劇映画でカウボーイを演じてきました。元々「カウボーイ」と言う単語は"牛泥棒"を意味しましたが、19世紀後半に入ると、メキシコやテキサスなどを中心に大陸南部から、西部、中西部にかけての原野で野生化していた"牛を駆り集め"、それを市場である東部やゴールドラッシュに沸く西部に届けるために大陸横断鉄道の中継地である中西部や北部の町へ "馬と幌馬車を連ね何日もかけて移送する業務(ロングドライブ)"に従事していた労働者を指す言葉に変化していきました。西部開拓の完全な終焉を迎えた20世紀に入ると、西部劇や小説などにおいてノスタルジックなロマンをかきたてる対象として美化され始め、現在ではアメリカの象徴的存在となっています。

 映画「クライ・マッチョ」では、一羽の雄鶏が登場します。鶏は英語で「チキン」ですが、この言葉には「臆病者」という意味もあります。しかし、「クライ・マッチョ」の雄鶏は闘鶏のチャンピオンであり、名前も「マッチョ」なのでした。実際、このマッチョはマイクとラフォの危機を何度も救う勇敢な雄鶏でした。この映画はロードムービーの性格がありますが、途中で車泥棒に車を盗まれてしまったマイクとラフォが雄鶏のマッチョを間に挟んでメキシコの道路を歩くシーンはユーモラスでありながら、なんともいえない味わい深いさがありました。また、メキシコのパトカーに追いかけられて、警官から車に麻薬がないかを調べられたとき、マイクが「俺は、運び屋じゃないぞ」と言い放ったのには笑いましたね。

 この映画の主人公マイクは、かつてはロデオのスターでしたが、今では落ちぶれて、老いぼれて、人生の行き止まりにぶち当たった感じです。その悲哀感はハンパなく、孤独な老人がこの映画を観たら身につまされるのではないかと思うのですが、それはアメリカの観客に限らず、日本の観客でも同じことだと思います。普通、老いるにつれて、人は孤独になっていくものです。老いるということは健康を失い、仕事を失い、家族や仲間を失うことも多いです。若い頃には当たり前のように持っていたものがどんどん失われていってしまう。その孤独感は老人にならないと理解できないものでしょう。その国籍や民族を超えて人類に普遍の「老い」の悲しみを、この映画はよく表現しています。

 イーストウッド演じるマイクは、交通事故で妻と息子を亡くしました。その深い悲嘆から、彼の人生は狂い始めます。しかし、元の雇用主に頼まれて、その息子ラフォを連れ戻しに行ったメキシコで、彼は食堂を経営するマルタという女性と出会います。マルタも、夫と娘夫婦を亡くして、孫たちと一緒に生活していました。マイクとマルタは同じような悲嘆(グリーフ)を抱えた者同士であり、彼らには「悲縁」とでも呼ぶべき縁がありました。まるで運命のように彼らは心惹かれ合いますが、実際に連れ合いを亡くした者同士が悲縁によって結ばれることは素敵なことだと思います。なぜなら、彼らの愛は最高のグリーフケアとなるはずだからです。ネタバレ覚悟で書くと、ラストでマイクがマルタの元へ帰ったシーンは「ああ、良かったなあ!」と心から思いました。

 マルタの孫娘は聾唖で、耳が聞こえませんでしたが、マイクは彼女と手話で話します。「どうして、手話ができるの?」と不思議がるラフォに対して、マイクは「長く生きているうちに覚えたのさ」と言うのですが、わたしはこのセリフに感動しました。そう、長く生きていれば、手話も覚えるでしょうし、他にもいろんなことを覚えるでしょう。拙著『老福論』(成甲書房)で述べたように、「人は老いるほど豊かになる」のです。手話以外にも、マイクには年の功というか、特技がありました。動物の心がわかるのです。長年、カウボーイとして生きてきた彼は、馬はもちろん、ヤギや豚や犬など、なんでも動物の心がわかるようになっていました。最後にマルタの元へ向かった彼は、真の強さとは「愛する者を最後まで愛すること」だと教えてくれました。人生の終わり近くで、心安らぐ自分の居場所を見つけたマイクは果報者です。「クライ・マッチョ」は素晴らしき老福映画でした!
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老福論』(成甲書房)