No.555


 1月25日の夜、アカデミー賞最有力の映画「コーダ あいのうた」をシネプレックス小倉で観ました。新型コロナウイルスの感染拡大が収まりませんが、映画館は換気設備が整っているのと上映中は会話しないため飛沫感染も防げるので、じつは最も安全な場所の1つです。この映画はずばり「ケア」をテーマにしており、どうしても観なければならない作品だったのです。静かな感動をおぼえ、人間の尊厳を考えさせられました。ただ「泣ける」だけではなく、「幸せになれる」素敵な映画でした。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる少女が歌の才能を認められたことをきっかけに、夢と現実のはざまで葛藤するドラマ。『エール!』のリメイクで、『タルーラ ~彼女たちの事情~』などのシアン・ヘダーが監督・脚本を務めた。主人公を『ゴーストランドの惨劇』などのエミリア・ジョーンズが演じ、『シング・ストリート 未来へのうた』などのフェルディア・ウォルシュ=ピーロ、『愛は静けさの中に』などのマーリー・マトリンらが共演。サンダンス映画祭で観客賞など4冠に輝いた」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、「とある海辺の町。耳の不自由な家族の中で唯一耳が聞こえる女子高生のルビー(エミリア・ジョーンズ)は、幼少期からさまざまな場面で家族のコミュニケーションを手助けし、家業の漁業も毎日手伝っていた。新学期、彼女はひそかに憧れる同級生のマイルズと同じ合唱クラブに入り、顧問の教師から歌の才能を見いだされる。名門音楽大学の受験を勧められるルビーだったが、彼女の歌声が聞こえない両親から反対されてしまう。ルビーは夢を追うよりも家族を支えることを決めるが、あるとき父が思いがけず娘の才能に気付く」です。

 この映画の原題は「CODA」です。1983年のアメリカで誕生した言葉だそうですが、「両親のひとり以上が聴覚障害を持つ、聴こえる人」とされています。この聴覚障害については、「実証できる」「証明できる」という条件がついています。つまり、障害者手帳のようなもので聴覚の障がいを証明できる親のもとで育った、耳の聴こえる子どものことです。さらに言うと、18歳以上はCODA(Children of Deaf Adults)ですが、それ未満はKODA(Kids of Deaf Adults)と表記します。わたしが小学生のとき、仲の良かった友達の家に遊びに行ったら、両親がともに聴覚障害者だったことがありました。子どもだったので驚いて、どうしていいかわからなくなりましたが、彼の両親はずっとニコニコ笑っていたことを記憶しています。子ども心に、「どうして親が2人も耳も聴こえず、話もできないのに、彼だけは普通なんだろう?」と不思議に思いました。

 この映画の主人公のルビーは、耳の不自由な家族の世話をしています。主に通訳が彼女の仕事ですが、彼女なしでは他の家族は仕事も生活もままなりません。つまり、高校生の彼女はヤングケアラーなのです。ヤングケアラーとは、家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子どもを指します。ケアが必要な人は、主に、障害や病気のある親や高齢の祖父母、きょうだい、他の親族です。手伝いの域を超える過度なケアが長期間続くと、心身に不調をきたしたり遅刻や欠席が多くなったりして、学校生活への影響も大きくなります。進学・就職を断念するなど子どもの将来を左右してしまう事例もあるとされます。この映画でも、ルビーが歌のレッスンに何度も遅刻したり、音楽大学への進学をあきらめるというシーンがありました。

 ヤングケアラーを描いている「コーダ あいのうた」という映画は「ケア」についての映画です。わが社では、愛する人を亡くした人の悲しみに寄り添う「グリーフケア」のお手伝いに取り組んでいますが、ここにも「ケア(care)」という言葉が出てきます。最近、『ケアとは何か――看護・福祉で大事なこと』村上靖彦著(中公新著)という素晴らしい本を読みました。同書によれば、人間なら誰でも病やケガ、衰弱や死は避けて通れません。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、わたしたちは「独りでは生きていけない」ことを痛感します。そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みがケアなのです。同書では、看護の現象学の第一人者が、当事者やケアワーカーへの聞き取りをもとに、医療行為を超えたところで求められるケアの本質について論じています。

 英語の熟語「take care of」は、「・・・を世話する」「大事にする」という意味です。ここから、「世話」「配慮」「関心」「気遣い」などの意味が出てきます。「ケア」という日本語がよく使われるようになったのは、最近のことです。倫理学者の川本隆史氏によれば、1978年に刊行された柏木哲夫氏の『死にゆく人々のケア』(医学書院)が先駆的な例であるそうです。もともと、「ケア」は、「health care(医療)」「nursing care(看護)」といった、もっと限定された、専門的な術語として使われてきました。しかし今では、ケアは「幸福」「倫理」「愛」「善」などの概念と密接に関わる言葉となっています。どうやら、人間存在の根源的なものが、「ケア」に通じていると言えそうです。

 アメリカの哲学者であるミルトン・メイヤロフも、一条真也の映画館『ケアの本質』で紹介した本において、「ケア」を非常に広い概念で捉えています『ケアの本質』は大変な名著で、わたしも何度か読み返しています。メイヤロフは、「ケア」とは、「そのもの(人)がそのもの(人)になることを手助けすること」だと定義しています。そして、「他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の真の意味を生きているのである」との名言を残しています。看護、介護、グリーフワーク......それらすべての核となるものこそ「ケア」なのです。拙著『アンビショナリー・カンパニー』(現代書林)の帯にもあるように、わが社は「サービス業からケア業へ」を標榜しています。これまでサービス業の範疇であった仕事の本質がどんどん「ケア」に変貌していきます。
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アンビショナリー・カンパニー』(現代書林)



 わたしは、「ケア」とは「相互扶助」という言葉と深く関わっていると考えています。人間は誰もが1人では生きていません。必ず他人の存在を必要とします。それはそのまま「相互扶助」が不可欠であるということであり、誰もがケアを必要としているということです。約7万年前のネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのでしょう。これはネアンデルタール人のみならず、わたしたち現生人類の場合も同じです。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。そして、相互扶助とはまず何よりも家族の間で行われるものです。

 一条真也の読書館『サピエンス全史』で紹介したユヴァル・ノア・ハラリの世界的ベストセラーで、著者は「家族とコミュニティの崩壊」として、「産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は、古来の3つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれていた。人々はたいてい、家族で営む農場や工房といった家業に就いていた。さもなければ、近隣の人の家業を手伝っていた。また、家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった(柴田裕之訳)」と述べます。

 続くハラリの言葉は、わたしの心に突き刺さりました。
「誰かが病気になると、家族が看病に当たった。誰かが歳を取れば家族が世話をし、子供たちが年金の役割を果たした。誰かが亡くなると、家族が残された子供の面倒を見た。誰かが家を建てたいと思えば、家族が手伝った。誰かが新たな仕事を始めたいと思えば、家族が必要な資金を用立てた。誰かが身を固めたいと思えば、家族がその相手候補を選んだり、少なくとも厳しく審査したりした。誰かが隣人と揉め事を起こせば、家族が加勢に入った。だが、病状が重すぎて家族の手には負えなくなったとき、あるいは、新たな商売を起こすために大きな投資が必要なとき、さらには、近隣の揉め事が暴力沙汰にまで発展したときには、地域コミュニティが助け舟を出した(同訳)」
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ハートフル・ソサエティ』(三五館)



 拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)には「相互扶助というコンセプト」「ホスピタリティが世界を動かす」という章がありますが、この「相互扶助」や「ホスピタリティ」をそのまま「ケア」に置き換えても意味は通ります。真の奉仕とは、サービスではなく、ケアの中から生まれてくるものだと言えます。ここでいう奉仕とは、自分自身を大切にし、その上で他人のことも大切にしてあげたくなるといったものです。自分が愛や幸福感にあふれていたら、自然にそれを他人にも注ぎかけたくなります。「情けは人の為ならず」と日本でもいいますが、他人のためになることが自分のためにもなっているというのは、世界最大の公然の秘密の1つなのです。アメリカの思想家エマーソンによれば「心から他人を助けようとすれば、自分自身を助けることにもなっているというのは、この人生における見事な補償作用である」というわけです。
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心ゆたかな社会』(現代書林)



ハートフル・ソサエティ』のアップデート版『心ゆたかな社会』(現代書林)でも述べましたが、与えるのが嬉しくて他人を助ける人にとって、その真の報酬とは喜びにほかなりません。他人に何かを与えて、自分が損をしたような気がする人は、まず自分自身に愛を与えていない人でしょう。常に自分に与えて、なおあり余るものを他人に与える。そして無条件に自分に与えていれば、いつだってそれはあり余るものなのです。真の奉仕とは、助ける人、助けられる人が1つになるといいます。どちらも対等です。相手に助けさせてあげることで、自分も助けています。相手を助けることで、自分自身を助けることになっています。

 相手に助けさせてあげることで自分を助け、相手を助けることで自分自身を助けるというのは、まさに与えること、受けることの最も理想的な円環構造と言えるでしょう。その輪の中で、どちらが与え、どちらが受け取っているのかわからなくなります。それはもう、1つの流れなのです。「コーダ あいのうた」のヤングケアラーであるルビーもこの流れの中にいます。観客は、健聴者であるルビーが耳の不自由な家族の犠牲のように思うかもしれません。実際、ルビーも映画の中でそのようなことを訴えています。しかし、それは間違いです。ルビーも、家族によって助けられているのです。というのは、「自分を必要としてくれる」というのは最高のケアだからです。ケアとは相互扶助だと述べましたが、この映画では漁業協同組合の設立というリアルな相互扶助の組織作りも描かれていて興味深かったです。まさに「相互扶助」の映画です!

 劇中でルビーが歌った"You're All I Need To Get By"は「あなたは私が生きるのに必要なすべてです」といった意味でしょうが、まさにケアの歌であり、相互扶助の歌です。そして、この映画は「歌」の映画でもあります。「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生は、著書『歌と宗教』(ポプラ新書)で「「心の状態をきりかえ整えていくために。歌や音楽には、心のチャンネルを切り替える力とワザがある。人類はそういう技法を編み出してきた。チンパンジーから人に変化していく時に歌うコミュニケーション体系を発達させることによって人類は生存活力を編み出し、言語を発達させることで生存戦略と生存手段を多様かつ有効に展開することができた」と述べておられます。相互扶助なくして人類は存続できなかったように、歌がなくても人類は存続できませんでした。つまり、相互扶助と歌こそが人類を持続可能な状態に保ってきたと言えるのではないでしょうか?

 鎌田先生は同書で「歌は宗教を超える」と喝破します。そして、歌の本質について、「歌が万国共通であるゆえんは、『宇宙が歌』であるということに由来する。それは、キリスト教であろうが仏教であろうが、関係ない。そういう、宇宙が歌、音楽である、ということの精神性、霊性を伝えたかったのだ。これは、異教徒であろうが、通じるはずだ。キリスト教徒でないわたしたちでも、バッハやモーツァルトやグレゴリア聖歌を聴いて、心が洗われたり、慰められたり、感動したりするからだ。アメリカ先住民(アメリカ・インディアン)の歌声を聞いても、深いところで心が震えるような気持ちになる。アフリカの歌もそうである。歌は、宗教や人種や民族を超えているのだ」と述べています。まったく同感です。ちなみに歌は人間の心だけでなく魂にも届くと思います。だから、耳の不自由なルビーの家族たちも彼女の歌声に感動したのでしょう。

 それにしても、ルビーを演じたエミリア・ジョーンズが素晴らしかったです。現在19歳の彼女はイングランド・ロンドンのウェストミンスターで生まれました。父はウェールズ出身の歌手でテレビ・タレントのアレッド・ジョーンズ。ルーカス・ジョーンズという弟が1人います。エミリアは8歳から子役として活動し、2011年の映画「ワン・デイ 23年のラブストーリー」や「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」に出演し、それ以降は「グランドフィナーレ」、「海賊じいちゃんの贈りもの」、「ハイ・ライズ」、「ブリムストーン」、「ゴーストランドの惨劇」といった映画作に出演を重ねます。テレビドラマでは「ウルフ・ホール」や「Utopia」に出演し、「ドクター・フー」の第7シリーズ第7話「時の女王」では メリー・ゲレル役を演じました。2020年のテレビドラマ「ロック&キー」にもレギュラー陣の1人として出演しており、大活躍です。このエミリアがアカデミー賞の主演女優賞の最有力候補になっているそうです。この若さで受賞したら凄いことですが、受賞しそうな気がします。