No.560
第94回アカデミー賞のノミネーションが発表されましたが、一条真也の映画館「ドライブ・マイ・カー」で紹介した作品が日本映画初の作品賞を含む4部門でのノミネートとなり、驚きました。そんな中、最多11部門12ノミネートを果たしたネットフリックス作品「パワー・オブ・ザ・ドッグ」を観ました。じつに興味深いヒューマンドラマでした。
ヤフー映画の「解説」には、「[Netflix作品]『ブライト・スター 一番~美しい恋の詩~』などのジェーン・カンピオンが監督を務めたドラマ。冷酷な牧場主が、ある女性をめぐって弟に激しい憎しみを抱く。『クーリエ:最高機密の運び屋』などのNetflix、『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』などのキルステン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィーらが出演する」と書かれています。
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1920年代のアメリカ・モンタナ州。周囲の人々に畏怖されている大牧場主のフィル(ベネディクト・カンバーバッチ)は、夫を亡くしたローズ(キルステン・ダンスト)とその息子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)と出会う。ローズに心を奪われるフィルだったが、弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)が彼女と心を通わせるようになって結婚してしまう。二人の結婚に納得できないフィルは弟夫婦に対して残忍な仕打ちを執拗に続けるが、ある事件を機に彼の胸中に変化が訪れる」
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のメガホンを取ったジェーン・カンピオンは、ニュージーランド出身の映画監督、脚本家。世界的に映画界で成功した女性映画監督の1人として知られます。キャリアの長さに比べてけっして作品数が多いわけではありませんが、代表作の「ピアノ・レッスン」(1993年)で女性監督として初のカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞しました。同作の主演はホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル。19世紀のニュージーランドを舞台に、ピアノの音色を言葉代わりにする女性と、原住民マオリ族に同化した1人の男性との激しい愛を描いた恋愛映画です。イギリスの作曲家、マイケル・ナイマンによるサウンドトラックは注目を集め、全世界で300万枚以上の売り上げを誇った。第66回アカデミー賞において作品賞を初めとした8部門にノミネートされ脚本賞、主演女優賞、助演女優賞の3部門で受賞を果たしました。
「ピアノ・レッスン」は女性の強さを強烈に感じる映画でしたが、その28年後に作られた「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は男性の弱さを強烈に感じる映画でした。この映画で、カンピオンはベネディクト・カンバーバッチを主演に迎えました。カンバーバッチといえば、「ドクター・ストレンジ」の主演が有名ですが、今回演じた。大牧場主のフィル・バーバンクはアメリカン・ヒーローとは程遠い冷酷な男です。クールでかっこいい儀式マスターのドクター・ストレンジとは似ても似つかぬ約でした。しかし、このカンバーバッチが粗暴な男をじつに見事に演じています。
冷酷な牧場主フィル(映画com.より)
イギリス人俳優のカンバーバッチは1976年7月19日生まれですから、現在は45歳ですね。イングランド・ロンドン・ハマースミス出身で、15世紀のイングランド王・リチャード3世の血縁に当たるといいます。ドラマ「ホロウ・クラウン/嘆きの王冠」では祖先のリチャード3世役を演じました。レスターの駐車場で発見されたリチャード3世の遺骨が2015年3月に同市の大聖堂に埋葬された際、カンバーバッチはリチャード王に捧げる詩を朗読しています。こんなリアル・ノーブルな英国人がよくアメリカの田舎の牧場主を演じたものですね。その演技の幅に感心してしまいます。ニューヨーク批評家協会賞では、この「パワー・オブ・ザ・ドッグ」でカンバーバッチが主演男優賞を受賞しました。
フィルとジョージの兄弟(映画com.より)
カンバーバッチ演じるフィルとジェシー・プレモンス演じるジョージの兄弟は、地元の未亡人ローズと出会います。ジョージはローズの心を慰め、やがて彼女と結婚して家に迎え入れます。そのことをよく思わないフィルは、2人やローズの連れ子のピーターに対して冷酷な仕打ちをするのでした。フィルは徹底的に冷酷な男として描かれていますが、弟の妻になったローズのことを「財産目当ての女」と見て、嫌います。ひどい話ではありますが、フィルは長男であり、大きな牧場を経営しなければならないことを考えると、その責任感から生じた警戒心ともとらえることができるようにも思えます。また、結婚した弟に比べてフィルは独身であり、彼の心の中には孤独感や、新しい家族を持った弟に対するジェラシーもあったかもしれません。
気弱な弟のジョージ(映画com.より)
弟のジョージは優しい人柄の好人物ではありますが、強いリーダーシップとカリスマ性のある兄に比べて大人しく、頼りない印象が否めません。ジョージは、とにかく兄貴であるフィルに頭が上がらず、フィルはそんな弟のことを常に上から目線で「太っちょ」と呼びます。その上、ジョージが娶ったローズとその連れ子のピーターに対して冷たい態度を取るわけですから、フィルの存在がいかにジョージにとってストレスの発生源だったかが想像がつきますね。この「パワー・オブ・ザ・ドッグ」という映画は『旧約聖書』の「詩編」の言葉をモチーフとしていますが、『旧約聖書』にはカインとアベル、エサウとヤコブなどの兄弟の物語が登場します。そこでは兄弟という人間関係の難しさが描かれています。
一般に、兄弟が一緒に働くのは難しいものだとされています。しかし、兄弟がともに働く同族企業でも経営が順調な会社は多く存在します。その場合、兄のほうが弟を気遣っているケースが多いように思います。ここで『聖書』と並ぶ人類最高の古典である『論語』を持ち出すと、孔子が開いた儒教では兄弟愛としての「悌」を打ち出しました。これは兄に対して弟が敬意を抱くことの大切さを謳っているようですが、わたしは「実際は少し違うのではないか」と考えています。というのも、『論語』の「子罕」篇には、「後生畏るべし」という有名な言葉が出てくるからです。「後生」というのは「後から生まれた者」という意味です。ちなみに、「先に生まれた者」は先生といいます。「後生」とは若者とか後輩の意味もありますが、その字のとおりに弟や妹の意味もあります。
わたしが思うに、孔子は兄は弟に、姉は妹に、そして先輩は後輩に敬意を表し、思いやりを忘れないことを説いているのではないでしょうか。なぜならば、そのほうが人間関係がうまく行くからです。弟が兄に、妹が姉に、後輩が先輩に気を遣うのは、いわば当たり前の話です。もともと先に生まれているのですから、知識も経験もかなうはずがありません。最初から年少者は年長者のことを立てざるを得ないのです。しかし、いつもそれでは窮屈で、息がつまります。たまには、上の者が下りてきてフランクにつきあうことが必要。また、年少者はいつも気を遣ってくれていることを意識して、そのことに感謝し、思いやりをかけることを忘れないことが大切です。それでこそ、本当の意味での兄弟愛は成立するように思います。
もともと同じ親から生まれて、同じ環境で育ってきたのだから、兄弟は考え方に共通するものがあります。一緒に力を合わせれば、これほど心強い味方はいないでしょう。互いに力を合わせて世に出た兄弟といえば、わたしは「日本一有名な兄弟」と呼ばれた石原慎太郎・石原裕次郎を連想してしまいます。ブログ「石原慎太郎、逝く!!」で紹介したように、今月1日に亡くなられた石原慎太郎氏はミリオンセラーとなった著書『弟』(幻冬舎文庫)で、たった1人の弟であり、昭和のスーパースターであった石原裕次郎の光と影を秘められたエピソードで描きました。
また、石原慎太郎氏のエッセイ集『男の業の物語』(幻冬舎)の「男の兄弟」には、「弟が肝臓癌の長患いの末とうとう亡くなった時は、親が亡くなった時より身にこたえた。特に男の兄弟の関りはえも言えず濃いものがある。やくざの兄弟仁義なるものが何かはよく知らぬが、どんなに親しくとも女相手ではあり得ぬ心の行き来なるものがやはり男と男の間には歴然として在って、それが女の立ち入れぬ男の世界を構成しているのだ」と書かれています。フィルとジョージの間にも「男の世界」はあったと思います。そこに介入してきたのが、未亡人ローズでした。
酒に溺れていくローズ(映画com.より)
ローズはアルコール依存症だった夫を亡くした後、食堂を切り盛りします。酒を忌み嫌った彼女でしたが、ジョージと再婚してからは彼女自身が酒に溺れていきます。このへんはグリーフケアの要素も強いのですが、そんな彼女を冷静に観察していたのがフィルです。フィルは、ピアノを弾いているローズを挑発するようなバンジョーの演奏を見せつけたり、隠れて酒を飲む彼女を口笛で嘲笑したりします。「いつも、お前を見ているぞ」というメッセージでしょうが、フィルの彼女への嫌悪感、猜疑心が膨らむ一方でした。あるとき、フィルが大切にしていた牛の生皮をローズは先住民に勝手に渡してしまいます。そこで、フィルとローズの関係はもう修復不可能なほど亀裂するのでした。ローズを演じたのはキルステン・ダンストで、ジョージ役のジェシー・プレモンスと実際の夫婦です。
母を守ろうとするピーター(映画com.より)
フィル、ジョージ、ローズと並んで、物語の主要な役割を果たすのが、ローズの連れ子のピーターです。映画の冒頭で、「父が死んだとき、ぼくは母を守ろうと誓った」というピーターの語りが流れます。しかし、未亡人となった母を守るのはピーターはあまりにも優しく、女性的でした。美しいイラストを描いたり、花飾りを作ったりするピーターに対して、フィルは敵意を剥き出しにしますが、物語が進むに従って変化が起きます。ネタバレにならないように気をつけて書くと、フィルには同性愛の性向があり、ピーターに対して恋愛感情を抱いてしまうのです。そのピーターは外科医を目指す秀才でもありました。最後に、彼は医学の知識によって、炭疽菌で汚染された牛皮を用いてフィルを殺害します。愛する母をフィルから守るためです。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」の原作はトーマス・サヴェージの自伝的な小説で、1967年に刊行されました。原題の‟The Power of the dog"は、『旧約聖書』の「詩編」22篇にある「私の魂を剣から、私の命を犬の力から救い出して下さい」から採られています。受難に際して救世主が「神は自分を見捨ててしまったのではないか」と嘆く様が描かれているわけです。この言葉の主語ですが、映画ではピーターのように思われます。彼は何とかして母親のために「犬=フィル」を遠ざけたいと願ったのでしょうか。この見方が最も説得力があります。
「犬」はフィルだったのか?(映画com.より)
もう1つ、主語がフィルである可能性もあります。フィルは恋心を抱いたフィルのためにアル中の母親を排除しようとした見方もできます。しかし、やはりフィル=犬と考えたほうが自然でしょう。映画のラストシーンでは、ジョージとローズの幸せそうな姿が登場しますが、これはピーターが神に救いを求めるのではなく、医学的知識などの自身の力で不吉な「犬」を取り除き、母を幸せにしてあげたわけです。じつに興味深いヒューマンドラマですが、こんな傑作が見放題とは、ネットフリックスすごすぎる!