No.576
TOHOシネマズシャンテでアニメ映画「アンネ・フランクと旅する日記」を観ました。ベルギー・フランス・ルクセンブルク・オランダ・イスラエル合作です。第三次世界大戦の危機も叫ばれる昨今、戦争の悲惨さを思い起こす感動の名作でした。アンネをはじめとしたユダヤ人の少女たちの姿が現在のウクライナの少女たちに重なりました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「第2次世界大戦下のオランダで、アンネ・フランクが記したアンネの日記を原案に描くアニメ。アンネの空想の友人であるキティーが、過去から現代のオランダにタイムスリップし、アンネの生涯をたどっていく。監督と脚本を手掛けるのは、『戦場でワルツを』が第81回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたアリ・フォルマン。『ウーナ』などのルビー・ストークス、『アナスタシア・イン・アメリカ』などのエミリー・キャリーらがボイスキャストとして参加する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「オランダ・アムステルダムにある博物館アンネ・フランクの家には、オリジナル版のアンネの日記が保管されている。ある嵐の晩、その日記の文字が突然動き始め、アンネの架空の友人キティーが現代のオランダに現れる。時空を飛び越えたことがわからず、自分は1944年にいると思っている彼女は、親友のアンネを捜してアムステルダムの街をめぐる」
1926年、ドイツで裕福なドイツ系ユダヤ人家庭の二女として生まれたアンネはナチスの迫害を逃れ、一家でオランダのアムステルダムに移住。1944年、姉マルゴーの召喚を機に一家で隠れ家生活に入ります。ついに1944年、アンネはナチにより連行され、最後はベルゲン=ベルゼン強制収容所でチフスのため15歳で亡くなりました。ナチスに捕らわれる前まで書き続けていた日記には、自分用に書いた日記と、公表を期して清書した日記の2種類があります。『アンネの日記 増補新訂版 』(文春文庫)は本書はその2つを編集した「完全版」に、さらに新たに発見された日記を加えた「増補新訂版」です。ナチ占領下の異常な環境の中で、13歳から15歳という多感な思春期を過ごした少女の夢と悩みが瑞々しく甦ってきます。
ユネスコ世界記憶遺産にもなった『アンネの日記』は、2020年で出版75周年を迎えました。わたしが生まれた1963年、アンネの父オットーが「アンネ・フランク基金」を設立しました。同基金は、「『アンネの日記』を現在、未来の世代に伝えていくための新しい言語」としてアニメ映画を製作するというプロジェクトを2009年にスタートします。そして、そのミッションはアリ・フォルマン監督に託されたのでした。オファーが来たときはフォルマンは「これは自分向けのプロジェクトじゃないな」と感じたそうですが、再び原作を読んでみました。前回は14歳のときに学校で読んだそうですが、今回大人になって、3人の10代の子どもの父親として読み返してみると、改めて傑作だなと驚きました。彼は、「少女が観察力をもって、これだけの良い文章を書くということが、本当に新鮮に感じられたんです。さらにホロコーストの生存者である母親に相談したところ、『是非やるべきだ』と言ってくれたので、引き受けることにしました」と語っています。
フォルマン監督が自身の従軍経験を描いた2009年のイスラエル映画「戦場でワルツを」は、アニメ映画として初めて第81回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、第66回ゴールデングローブ賞最優秀外国語映画賞を受賞しました。彼の両親は、アンネと同じ週にアウシュビッツに到着し、生還したそうです。「戦場でワルツを」の物語ですが、2006年のある夜、旧友に呼び出された映画監督のアリは、26匹のどう猛な犬に追われる悪夢に悩む話を聞き、それは自分たちが従軍した82年のレバノン侵攻の後遺症ではないかと疑います。しかし自分に当時の記憶が全くないことに気付いたアリは、その謎を解こうとかつての戦友たちを訪ねるのでした。
「アンネ・フランクと旅する日記」には、アンネの淡い初恋も描かれています。ファルマン監督は、「アンネは、ユダヤ人のアイコンとして見られていますが、世界中の少女のアイコンとして考えるべきだと思います。優れた作家として知られる彼女が日記を書かなくなったのは、収容所に送られたから。書かなくなった瞬間に亡くなったのではなく、その後の7カ月間、彼女は、収容所で苦しみながら生き続けていたんです。ベルゲン=ベルゼンの収容所で亡くなるまで彼女は存在したので、その7カ月間を、映画を見る人々に知ってもらうことが大切だと思いました。その最期の日々をどのように見せていくか、ということが一番難しかったです」と語っています。また、アンネを10代の普通の少女として描くことが大切だとして、「本当に彼女は特別な存在で、作家としての能力があるからというだけではなく、ユーモアのセンスもあったし、周囲の大人の弱点を見つけて攻撃する意地悪な側面もあったし、複雑な少女だったんです。そういう全ての側面を描きたかったという思いがあります」とも述べます。
思春期で多感な時期に窮屈な隠れ家での生活を強いられたアンネは、外出することができません。この隠遁生活のシーンを見て、わたしを含めた世界中の観客は新型コロナウイルスによる自粛生活を連想したのではないでしょうか。死神の集団のようなSS装甲軍団(ヒトラーの武装親衛隊)であろうが、COVID-19であろうが、生命を脅かす恐ろしい存在であることに変わりはありません。隠れ家で生きるフランク一家の姿が、世界中のコロナ陽性患者、濃厚接触者、そして自粛生活者たちに「絶望するな。あななたちは、生きられるのだから」とエールを送っているような気がして、わたしの胸は熱くなりました。不自由なアンネの代わりに、日記から抜け出したキティーは自由です。スケート靴を履いてアムステルダムの街を疾走します。今年の2月に開催された北京五輪では各種のスケート競技が行われたばかりですが、この映画では、スケートそのものが「自由」のメタファーとなっています。
アンネは、想像力をもって恐怖と闘いました。隠れ家での生活という閉ざされた日々の中で、どんな小さなことでも想像力でそれを最大限に楽しもうとしたアンネ。そんなアンネに対して父オットーは「お前の空想や美しい想像力は、どんな薬より効くはずだ」と優しく語りかけます。映画では、広大な世界で独りぼっちのアンネにナチスの巨兵軍が立ちはだかる中、クラーク・ゲーブルにそっくりなハンサムな男性が馬に乗ってアンネを救出します。実際、ハリウッド映画に強くあこがれていたアンネはゲーブルの大ファンでした。彼女の部屋には、ゲーブルをはじめ、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、リタ・ヘイワ―スら大女優たちのブロマイドが貼られていました。アンネは、総天然色映画「オズの魔法使」を観た感動を語りますが、きっとゲーブルの代表作である「風と共に去りぬ」も観ていたのではないでしょうか。ブログ「小倉紫雲閣で『風と共に去りぬ』を観る」にも書いたように、「オズの魔法使」も「風と共に去りぬ」もともに1939年のハリウッド映画であり、映画史上に燦然と輝く名作です。
この映画を観て、わたしは「アンネは作家になりたいと言っていたけど、本当は女優になりたかったのではないか?」と思いました。そこで、アンネが果たせなかった夢を果たした1人の女優の名前が浮かんできます。オードリー・ヘプバーンです。この日、「アンネ・フランクと旅する日記」の上映前、TOHOシネマズシャンテのスクリーン1には伝記映画「オードリー・ヘプバーン」(5月6日公開予定)の予告編が流れました。じつは、オードリーもアンネも同じ1929年生まれで、オードリーは5月4日ベルギーのブリュッセルで生まれ、アンネは6月12日ドイツのフランクフルトアムマインで生まれ、2人の誕生日はわずか半月の差なのです。オードリーの母親はオランダ貴族出身で、一家は休みにはオランダで過ごしていました。一方のアンネの一家はドイツの迫害から逃れるため、1933年にオランダへ移住します。そして1939年、2人が10歳の時に第2次世界大戦が勃発します。男爵の称号を持つオードリーの母は、彼女を連れて中立国であるオランダ、アルンヘムに連れ帰りました。
1942年、2人が13歳のとき、オードリーの祖父の領地と財産がナチスに没収され、オードリーの2人の兄はレジスタンスと強制労働に参加しました。このときオードリーは母とアルンヘムの駅で、家畜を運ぶ貨車にドイツ兵たちがユダヤ人たちを男女別に分けて乗せているところを目撃。その後、オードリーは地下活動、レジスタンスを支援する母エラの言いつけで連絡係をしたり、バレエで資金集めをし、栄養失調になります。1944年、14歳のときアルンヘムが戦場となり、街を歩いていたオードリーは、いきなりトラックに乗せられドイツ軍司令部へ連行されそうになりました。しかし、彼女は必死で地下に逃げ込み、持っていたチューリップの球根やチーズで1ヶ月を耐え抜き黄疸になりながら母親のもとへ帰ります。一方アンネは、この年の8月に隠れ家の住人全員と共にアムステルダム警察署へ連行され、9月に家畜運搬車でアウシュビッツへと移送。10月、アンネとマルゴットはドイツのベルゲン=ベルゼン強制収容所に送られます。 そして、2人とも、1945年に亡くなったのでした。
1945年5月4日、オードリーの15歳の誕生日にオランダは開放されます。オードリーはユニセフの前身である国連救済復興機関からの救援物資のチョコレートを口にし、泣きました。その時の思い出が後の後年のユニセフの活動に繋がったといいます。その後、オードリーは女優となり、1953年の24歳のとき、映画史上に燦然と輝く名作「ローマの休日」で主演し、世界的スターとなります。その4年後の1957年、彼女が28歳のとき、 映画「アンネの日記」の出演オファーを受けます。しかし、オードリーは「私はアンネと似過ぎている」としてアンネ役を辞退しています。時は流れ1990年、オードリーが61歳のとき、多くの子どもたちに慰めを与え、ユニセフの活動の役に立つためと『アンネ・フランクの日記』のチャリティコンサートでアンネの日記を朗読し、収益金をユニセフを通じて恵まれない子供たちに寄付しました。
同じ年に生まれながら、まったく違った生涯を送ったオードリー・ヘプバーンとアンネ・フランク。オードリーの映像は、多くの名作映画とともに大量に残っていますが、アンネの映像はたった1点だけ残っています。1941年7月22日にアムステルダムのメリウェーデ広場で行われた結婚式の際にアンネが窓から顔を出した姿が偶然に撮影されたフィルムです。アンネが2階から身を乗り出している様子が撮影されていますが、これが彼女の生前の唯一の映像とされています。ハリウッド映画に憧れていた彼女は、結婚式の幸せそうな様子を見ながら、将来はクラーク・ゲーブルのような素敵な男性と結ばれたいと夢を描いていたのかもしれません。それを思うと、たまらない気分になります。最後に、「アンネ・フランクと旅する日記」では、現代の難民問題が描かれます。他でもない『アンネの日記』が問題解決のカギとなるのですが、これはあまりにも楽観的というか、チープなアイデアのように思えました。しかし、「アンネ・フランク基金」の要望であったにせよ、フォルマン監督の「現在と過去をつなぐ」志は感じることができました。