No.575


 3月13日の日曜日、映画「THE BATMAN―ザ・バットマン―」を観ました。公開前はネットの評価が異常に低かった作品ですが、11日に公開されてからは評価が上がっています。わたしはバットマンにあまり詳しくないのですが、過去の「バットマン」シリーズとは関係のない独立した作品で、面白かったです。約3時間の長い映画ですが、物語のテンポが良くて、最後まで飽きずに観れました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『トワイライト』シリーズなどのロバート・パティンソンが、DCコミックスが原作のキャラクター『バットマン』ことブルース・ウェインを演じるサスペンスアクション。ゴッサム・シティで探偵をしているブルースが、知能犯リドラーの挑発的な攻撃に苦悩しながらも戦いを繰り広げる。監督を務めるのは『猿の惑星』シリーズなどのマット・リーヴス。コリン・ファレル、ポール・ダノ、ゾーイ・クラヴィッツなどが共演者として脇を固める」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「両親を殺害されたブルース・ウェイン(ロバート・パティンソン)は探偵となり、夜は黒いマスク姿でゴッサム・シティの犯罪者を懲らしめていた。しかし、権力者を標的にした連続殺人事件の犯人として名乗り出たリドラーが、警察やブルースを挑発。そして、政府の陰謀やブルースに関する過去の悪事などが暴かれていく」

 この映画、とにかく暗かったです。画面も暗ければ、物語も暗い。バットマンの正体であるブルース・ウェインの性格も暗い。それもそのはず、彼は両親を殺害されたことは自分に責任があると考えているのです。探偵として、ブルース・ウェインが殺害の真犯人を探すことは彼の深い悲嘆から回復する行為でもあり、その意味で「THE BATMAN―ザ・バットマン―」にはグリーフケア映画の要素があります。この映画でバットマンの相棒となるキャットウーマンも親友を殺された悲嘆を抱えており、キャットウーマンにとってのグリーフケアも描かれています。

 そもそも、バットマンとは何者か? バットマン(Batman)は、DCコミックスの出版するアメリカン・コミックスに登場する架空のスーパーヒーローです。およびコミック、映画、ドラマ、アニメ作品のタイトルでもあります。Wikipedia「バットマン」の「概要」には、「アーティストのボブ・ケインと作家のビル・フィンガーによって創造され、1939年にナショナル・アライド(のちのDCコミックス)が出版した1939年5月の"Detective Comics#27"で初登場しました。現在、コミックブックには「ビルフィンガーとボブ・ケインによって作成されたバットマン」と表記されています。「バットマン」シリーズは過去に多くの作品が生まれていますが、わたしが最初に観たのは一条真也の映画館「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」で紹介した2016年の映画です。

 Wikipedia「バットマン(架空の人物)」の「人物」には、「本名はブルース・ウェイン(Bruce Wayne)。ゴッサム・シティの億万長者、慈善家、プレイボーイ、および『ウェイン・エンタープライズ』のオーナー。幼いころに眼前で両親のトーマスとマーサを強盗に殺害され、以来執事のアルフレッド・ペニーワースに育てられる。表舞台では著名な慈善家として福祉や雇用拡大のために活動する一方で、裏では両親の命を奪った犯人への復讐と恐怖からバットマンとして戦う。自虐的・自嘲的かつストイックで、やや悲観的な現実主義者。トラウマの原因は幼少期の事件による。幼少期に洞窟で大量のコウモリに襲われた彼は、その後両親と観覧した演劇に登場したコウモリを怖がり、両親にせがんで劇場を途中退場した。その直後に強盗に両親を目の前で射殺され、『自分があと少し恐怖に耐えてさえいれば両親は死ななかった』という悔恨の念を今も抱える」と書かれています。

 続いて、「人物」には以下のように書かれています。
「ほとんどのスーパーヒーローと違って、バットマンはスーパーパワーを持っていない。彼は知恵と努力、武術、科学技術、莫大な富、脅迫、そして不屈の意志を駆使する。14歳から複数の大学で犯罪学・化学・法医学の知識を得るも、より実用的な技術を欲し世界各地を巡る。ヘンリー・ドゥカードからは犯人捕捉法、キリギ率いる忍びたちから忍術、アフリカの部族から狩猟技術、世界有数の暗殺者デビッド・カイン、ボクシング世界チャンピオンのテッド・グラントらから格闘技、オリバー・クイーンことグリーンアローからアーチェリー、ネパールの僧侶から地域伝来の治癒法、開業医から腹話術を教わる。20歳でFBIに入ろうとするも法律に沿った活動に限界を感じ、ゴッサム・シティに帰還する。犯罪者に恐怖を与える『恐怖の象徴』が必要であると考え、彼自身の恐怖心の象徴でもあるコウモリを元にするバットマンというアイデンティティーを作り、活動を始める。自宅である大邸宅『ウェインマナー』の地下には洞窟があり、そこを秘密基地のバットケイブにしている」

 さらに、「人物」には以下のように書かれています。
「事件が起こるとゴッサム市警本部に設置されたサーチライトのバットシグナルが雲に向けて照射される。バットマンは執事のアルフレッド、警察本部長のジェームズ・ゴードン、相棒のロビンというような様々な人間の支援を受けてゴッサム・シティで活躍している。バットマンはさまざまな女性と恋愛関係を持つが、そのどれもが任務の一環や一時的なもので終わる。しかし、キャットウーマンとは長年にわたり仕事のパートナーとして、また男女の関係としての付き合いが続く。"Batman#24"(2017年8月)でバットマンはキャットウーマンにプロポーズをする。"Batman#32"(2017年12月)でふたたびバットマンが尋ねるとキャットウーマンは『イエス』と答える。2人は"Batman/Catwoman The Wedding Album(2018年9月)で改めて結ばれる」 Wikipedia「バットマン(架空の人物)」の「能力と技術」には、「バットマンは固有の超人的な力を持っていない。彼は自身の科学的知識、探偵のスキル、および競技的な腕前に依存している。バットマンは世界で最も偉大な探偵の1人、もしくは世界最大の犯罪解決者とみなされている。DCユニバースにおける最大の武術家の1人であり、天才レベルの知性を持ち人間の限界まで鍛えたフィジカルコンディショニングを有する者として記載されている。博学であり、バットマンの知識は数え切れないほどの分野にわたり、DCユニバースの他のキャラクターでは並ぶ者はいないとされる。バットマンは犯罪との闘いに必要なスキルを取得するため、世界を旅してきた。"Superman:Doomed"ではスーパーマン、バットマンは地球上で最も華麗な心を持つ者であると考えられている。バットマンは無尽蔵の富を使い高度な技術を探求でき、そして熟練した科学者としてそれらを修正して使用することができる」と書かれています。

 また、「能力と技術」には以下のように書かれています。
「バットマンはDCユニバースのなかで最高の白兵戦を行える者として、127種類以上のさまざまな武道の訓練を受けている。テレパシーとマインドコントロールを物理的な苦痛で耐えることができる。変装、多言語、スパイ活動、悪名高いギャングであるマチス・マローンのアイデンティティーのもとで情報収集する。エクスポロジーを駆使することで、現れたり消えたり不可避の脱却をすることもできる。バットマンの尋問は、建物の端で人を切るなど容疑者から情報を聞き出すために極端な方法を使用する。彼の威圧的で恐ろしい外見は、多くの場合に容疑者から情報を取得する際に必要なものである。バットマンの最も決定的な特徴にかかわらず、みずからの敵が彼を害する可能性を持つ者でも、自身の強い正義感から命を奪わない。犯罪と戦うための修行のなかで、バットマンはさまざまなスキルを身に付けた。これにより多くの機械を操作することができる。いくつかの出版物では、魔術師の訓練を受ける」

 映画「THE BATMAN―ザ・バットマン―」には、リドラーとペンギンというヴィランが登場します。ペンギンの存在感は薄いのですが、リドラーは準主役といっていいほどの存在感を示します。リドラーは謎、パズル、ワードゲームに取りつかれています。彼は「知的な優位性」を誇張するために、バットマンと警察に複雑な手掛かりを送って、予め犯行を警告することをしばしば楽しみます。この自己顕示欲の強い性格からリドラーの犯罪は派手で仰々しいのです。また、彼はIQは高いものの強烈な人格障害者であり、自己愛性人格障害、演技性人格障害、その基礎をなす自己中心性、強迫性障害を発症しています。じつは彼は孤児でした。現在は「児童養護施設」と呼ばれる孤児院で過酷な幼少時代を送っており、それが裕福な孤児であったブルース・ウェインへの憎悪の源となっています。

 一条真也の映画館「ジョーカー」で紹介した2019年の映画は「バットマン」のスピンオフ的な作品でありながら、社会派の要素が強かったです。リドラーを主演にした映画が作られたとしたら、「ジョーカー」とはまた違った社会派の問題作となるような気がします。孤児院といえば、ブログ「クイーンズ・ギャンビット」で紹介したネットフリックスのドラマでも子どもたちに精神安定剤を飲ませるというショッキングなシーンがあったことを思い出しました。わが社は、「サンレーズ・アンビション・プロジェクト」の一環として児童養護施設へのさまざまな支援活動を展開していますが、リドラーの切ない告白を聞いて、もっと子どもたちの福祉に寄与したいと思いました。また、「THE BATMAN―ザ・バットマン―」はゴッサムシティが洪水に襲われるシーンが登場しますが、この映画の日本公開日が3月11日、つまり東日本大震災発生の11年目の当日であったことを考えると複雑な思いがします。
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心ゆたかな社会』(現代書林)



「THE BATMAN―ザ・バットマン―」もそうですが、アメコミを原作としたヒーロー映画を観るたびに、わたしは「アメリカン・ヒーローはアメリカの神そのものだな」「やはり、アメリカは神話のない国なんだな」と思います。『心ゆたかな社会』(現代書林)の最終章「共感から心の共同体へ」にも書きましたが、神話とは宇宙の中における人間の位置づけを行うことであり、世界中の民族や国家は自らのアイデンティティーを確立するために神話を持っています。日本も、中国も、インドも、アフリカやアラブやヨーロッパの諸国も、みんな民族の記憶として、または国家のレゾン・デトール存在理由として、神話を大事にしているのです。ところが、神話というものを持っていない国が存在し、それはアメリカ合衆国という現在の地球上で唯一の超大国なのです。

 建国200年あまりで巨大化した神話なき国・アメリカは、さまざまな人種からなる他民族国家であり、統一国家としてのアイデンティー獲得のためにも、どうしても神話の代用品が必要でした。それが、映画です。映画はもともと19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が発明しましたが、他のどこよりもアメリカにおいて映画はメディアとして、また産業として飛躍的に発展しました。映画とは、神話なき国の神話の代用品だったのです。それは、グリフィスの「國民の創生」や「イントレランス」といった映画創生期の大作に露骨に現れていますが、「風と共に去りぬ」にしろ「駅馬車」にしろ「ゴッドファーザー」にしろ、すべてはアメリカ神話の断片であると言えます。それは過去のみならず、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「マトリックス」のように未来の神話までをも描き出します。そして、スーパーマン、バットマン、スパイダーマンなどのアメコミ出身のヒーローたちも、映画によって神話的存在、すなわち「神」になったと言えます。

 さらに、スーパーマンとバットマンを比較すると、スーパーマンは孟子的で、バットマンは荀子的であると思います。「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」の中で両雄が議論をする場面があるのですが、それを観て「これは孟子と荀子の議論ではないか」と思いました。孟子によれば、かわいそうだと思う心、悪を恥じ憎む心、譲りあいの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているものです。それらの心は「仁」「義」「礼」「智」の芽生えであるといいます。人間は生まれながら手足を四本持っているように、この「仁」「義」「礼」「智」の四つの芽生えを備えているというのです。孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていました。これが、スーパーマンの楽観性というか、人間を無邪気に信じる姿に重なりました。

 また、映画ではスーパーマンが正義の味方として活躍した結果、街などを破壊し、周囲の人間に迷惑をかけることが批判されています。自分の恋人を守るために、悪者を殺すというのもいかがなものか的な問題も取り上げられています。この「万人を幸福にしなければならない」といった絵に描いた餅のような発想は、「兼愛説」を唱えた墨子の説そのものです。これに対して孟子は、自分の親しいものの幸福を願うことが何よりも大切であると説いたわけです。まさに、スーパーマンは孟子的であると言えるでしょう。

 孟子の「性善説」に対して、荀子は「性悪説」を唱えました。荀子によれば、人間は放任しておくと、必ず悪に向かいます。この悪に向かう人間を善へと進路変更するには、「偽」というものが必要になります。「偽」とは字のごとく「人」と「為」のこと、すなわち人間の行為である「人為」を意味します。具体的には「礼」であり、学問による教化です。両親を殺されたトラウマから、悪人の教化をめざすバットマンの姿は荀子に重なります。また映画の中でのバットマンの発言にもありますが、スーパーマンは両親から「この星に来たことには意味がある」と言われたのに対して、バットマンは親から「裏通りで理由もなく死ぬのが人間だ」ということを学びました。このあたりも、非常に孟子と荀子の香りがしてきます。

 孟子も荀子も、孔子の思想的後継者であることに変わりはありません。孔子の言行録が『論語』ですが、この講談社学術文庫版を訳されたのが、現代日本における儒教研究の第一人者である加地伸行先生(大阪大学名誉教授)です。昨年7月7日、わたしは加地先生と対談させていただく機会に恵まれ、孔子や孟子や荀子の思想についても大いに語り合いました。また、現代日本の家族葬に代表される「薄葬」を話題に葬儀の意義についても意見交換させていただき、最後は「家族」の本質というものを考察しながら、無縁社会を乗り越える方策などを求めました。加地先生との会話の中から、「儒教と日本人」の全貌を知ることができ、「冠婚葬祭はなぜ必要か」という問いの答えも見つかりました。加地先生との対談本『儒教と日本人』(現代書林)は今月末に発売されます。どうぞ、お楽しみに!