No.577


 一条真也の映画館「アンネ・フランクと旅する日記」を観終えた後、別の観たかった映画がレイトショー上映されていたので、これも観ることにしました。「ゴヤの名画と優しい泥棒」です。次回作『心ゆたかな映画』を執筆する上で参考になる気がしたからですが、いつもながらイギリスの裁判制度に違和感はおぼえたものの(なんで、裁判官は変なカツラをつけるのか?)、心温まる佳作でした。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「1961年にイギリス・ロンドンのナショナル・ギャラリーで起きた絵画盗難事件に基づくコメディー。60歳のタクシー運転手が、盗んだ絵画を人質にイギリス政府に身代金を要求した事件の真相を描く。監督は『ノッティングヒルの恋人』などのロジャー・ミッシェル。主人公を『アイリス』などのジム・ブロードベント、彼の妻を『クィーン』などのヘレン・ミレン、彼らの息子を『ダンケルク』などのフィオン・ホワイトヘッドが演じるほか、アンナ・マックスウェル・マーティン、マシュー・グードらが出演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1961年、イギリス・ロンドンにある美術館ナショナル・ギャラリーで、スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤの絵画『ウェリントン公爵』の盗難事件が起きる。犯人である60歳のタクシー運転手ケンプトン・バントン(ジム・ブロードベント)は、絵画を人質に政府に対して身代金を要求する。テレビが娯楽の大半を占めていた当時、彼は絵画の身代金を寄付して公共放送BBCの受信料を無料にし、孤独な高齢者たちの生活を救おうと犯行に及んだのだった」

 わたしは、TOHOシネマズシャンテで「アンネ・フランクと旅する日記」と「ゴヤの名画と優しい泥棒」を連続鑑賞したわけですが、両作品には大きな共通点がありました。それは共に義賊の物語であるという点です。「アンネ・フランクと旅する日記」では、アンネ・フランクの想像上の友人であるキティーが博物館から『アンネの日記』を盗みます。「ゴヤの名画と優しい泥棒」では、ケンプトン・バントン(実際は息子)がゴヤの名画「ウェリントン公爵」を盗みます。しかし、どちらも金銭目的ではなく、キティーは日記の返還条件として難民の救済を要求しますし、バントンは高齢者の公共放送受信料を無料化しようとしました。バントンは「第1次世界大戦に従軍して心身ともに傷つき、孤独な老後を送っている高齢者たちに、テレビ放送ぐらいは無料で楽しんでほしい」と考え、そのための費用を絵画の保険金で捻出したかったのでした。まさに、日本なら「鼠小僧」、イギリスなら「ロビン・フット」というところです。

 わたしは、ジム・ブロードベント演じる主人公ケンプトン・キャノン・バントン(1904年~1976年)の人生に興味を持ちました。彼は1946年に幼い娘を亡くしています。理由はバントンが娘に買い与えた自転車で事故に遭ったからでした。悲しみに暮れたバントンは亡くなった娘のために墓を作ります。また、彼は娘の死をモチーフにした戯曲を作り、BBCに送りますが、不採用でした。出版社にも原稿を送りますが、不採用。その理由は「悲しみを扱った作品は読者を限定する」というものでした。いま、死別の「悲しみ」と無縁な演劇や映画を見つけるのが難しいくらい、グリーフケアの時代となっています。

 しかしながら、ヘレン・ミレン演じる彼の妻は娘の死を受け容れることができず、墓参りにも行きません。愛娘の死が夫婦の間に亀裂を生んだわけですが、バントンは「娘を失った悲しみ」と「妻の心が離れた悲しみ」の2つの悲嘆を抱えながら生きています。そんな彼にとって、一連の「ウェリントン公爵」盗難事件は彼自身のグリーフケアに深く関わってきます。盗難事件でバントンが逮捕された後、夫の真意を知った妻は、その深い悲しみにも想いを馳せます。そして、彼女はこれまで避けていた自身の悲しみと向き合う行為によって、新たな一歩を踏み出します。彼女は初めて娘の墓参りをし、娘の死について夫が書いた戯曲を読むのでした。この映画は、いったんは心が離れてしまった夫婦の絆を取り戻す物語ともなっています。

 バントン夫妻が愛情と信頼を回復するサポートをしたのは、息子であるジョンでした。彼の存在は、ベントン家にとって、また映画そのものにとって大きな存在となっています。1961年にロンドンのナショナルギャラリーからフランシスコ・ゴヤの絵画「ウェリントン公爵の肖像」を盗みました。彼は同ギャラリーに絵画を返却しに行って逮捕されますが、その後、バントンの息子であるジョンが1969に自分が盗難したことを自白しています。ジョンを演じたフィン・ホワイトヘッドは、この映画について「言うならば、イギリスの絵画盗難コメディーだよ」とインタビューで語っています。

 この映画で重要な役割を果たす「ウェリントン公爵」は、半島戦争でのウェリントン公爵の初代公爵のゴヤによる絵です。ゴヤがウェリントンを描いた3つの肖像画の1つで、ウェリントンがマドリードに侵入した後、1812年8月にゴヤが描き始め、最初は赤い制服を着た伯爵として半島のメダルを身に着けていました。その後、芸術家は1814年にそれを修正して、金のブレードが付いた正装の黒い制服を着て見せ、金羊毛騎士団と軍の金の十字架を追加しました。3つの留め金が付いています(どちらも暫定的にウェリントンが授与されていました)。そのウェリントンは「ワーテルローの戦い」においてイギリス軍を統率し、当時世界最強とされたナポレオン軍を打ち破ったことで知られ、「ナポレオンキラー」などとも呼ばれています。
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ライオン像をいただく「ワーテルローの丘」



「ワーテルローの戦い」といえば、ブログ「ワーテルローの思い出」に書いたように、わたしは2012年9月にワーテルローを訪れました。ワーテルローは、ベルギーのブラバン・ワロン州の基礎自治体です。1815年6月18日にナポレオン・ボナパルト率いるフランス帝国軍は、同盟軍(イギリス・プロイセンなど)に大敗しました。その戦いが「ワーテルローの戦い」と呼ばれます。ただし、ワーテルローは戦場ではなく、イギリス軍の司令部の所在地でした。そのイギリス軍の司令官ウェリントン公こそが、「ワーテルローの戦い」の命名者でした。
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「ワーテルロー・ライオン」の下で



 わたしたちが訪れたのは、ワーテルロー南南東5kmのモン・サン・ジャンです。ここには、記念碑、通称「ワーテルロー・ライオン」があり、ライオン像がフランスを向いています。記念碑のある人工の丘は「ライオンの丘」と呼ばれます。観光名所の丘には階段で登ることができ、わたしたちも登りましたが、昼食後でワインをかなり飲んでいたこともあり、正直きつかったです。丘の上の眺めは最高で、ナポレオンの時代を偲ばせます。「人間界の奇跡」と呼ばれ、あれほど強かったナポレオンも、この地で敗れ去りました。わたしは、丘の上からの眺めを見ながら、「滅びないものなどない」と改めて思いました。そして、「正しければ滅びてもよいのだ」と思い至りました。それにしても、「ゴヤの名画と優しい泥棒」を観なければ、「ウェリントン侯爵盗難事件」なんて絶対に知りませんでした。最近では一条真也の映画館「オペレーション・ミンスミート―ナチを欺いた死体―」で紹介した映画の歴史的事実なども、映画を観て初めて知りました。そう、映画館のスクリーンとは、未知の世界を知るための大きな「窓」なのです!