No.589
「みどりの日」の4日、映画「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を観ました。ネットでの前評判は異常に低かった作品ですが、強い光やレーザーや光線が出る映画のため目や健康に悪く、注意喚起が促されていたことも一因でした。実際に観てみると、たしかに刺激的な映像でしたが、まあ許容範囲です。内容は面白く、GW映画にふさわしい、いわゆる痛快娯楽大作でした。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『パワー・オブ・ザ・ドッグ』などのベネディクト・カンバーバッチが、元天才外科医の魔術師を演じた『ドクター・ストレンジ』の続編。マルチバースと呼ばれる狂気の扉が開いた世界を映し出す。メガホンを取るのは『スパイダーマン』シリーズなどのサム・ライミ。前作同様ベネディクト・ウォン、レイチェル・マクアダムス、キウェテル・イジョフォーが続投するほか、『アベンジャーズ』シリーズなどでスカーレット・ウィッチを演じたエリザベス・オルセンらが出演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)は、禁断の呪文によって時空をゆがませ、マルチバースの扉を開いてしまう。世界を元通りにするため、彼はスカーレット・ウィッチことワンダ(エリザベス・オルセン)に助けを求めるが、時すでに遅く、恐るべき脅威が人類に迫っていた。そしてその脅威こそがドクター・ストレンジと同じ姿をしたもう一人の自分だった」
ドクター・ストレンジの本名はスティーヴン・ヴィンセント・ストレンジです。天才的な脳外科医として全米に名声を轟かせていたストレンジは、自動車事故で両腕に大怪我を負ってしまい精密な腕の動きができなくなってしまいます。脳外科医を辞めましたが、キャリアが原因でプライドが高くなりすぎて普通の勤務医になれず、失業し貧困に苦しめられていました。そんな時、どんな傷をも治せる魔術師がチベットに居ることを聞きつけ、藁にもすがる思いでチベットに赴きます。チベットの魔術師エンシェント・ワンは、紛れも無く本物の魔法・魔術を扱う魔術師でした。ストレンジの中に何かを感じ取ったエンシェント・ワンは、治療の代償として弟子入りを持ちかけます。最初はそれを断ったストレンジでしたが、やがて彼の弟子として魔術を学ぶことを決意。7年間の修行の末に魔術を会得したストレンジは、魔術を正しきことに使うため「ドクター・ストレンジ」と名乗ってヒーロー活動を開始します。
じつは、彼の雄姿を見たのは、一条真也の映画館「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」で紹介した2021年の映画が初めてでした。その後、「ドクター・ストレンジ」第1作をDVDで鑑賞しました。わたしは、このドクター・ストレンジというキャラクターが大好きです。知的なナイスミドルといった印象で、とにかくカッコいい。銀座のクラブなどで絶対モテるタイプだと思います。(笑)そのカッコ良さは、彼が魔術師であることに秘密があります。すなわちドクター・ストレンジには、神官、僧侶、神父、牧師といった聖職者たちと同じ「儀式マスター」としての威厳があるのです。わたしは、ドクター・ストレンジのようなカッコ良いオジサンになりたい!
「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」は、スパイダーマン・シリーズ第8作ですが、この作品を観て、わたしは感銘を受けました。というのも、主人公ピーター・パーカーをトム・ホランドが演じるだけでなく、過去2シリーズの主人公を演じたトビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドも、それぞれピーター・パーカーとして出演していたからです。つまり、この映画には3人のピーター・パーカー=スパイダーマンが登場するのです。そのカラクリは、彼らは別の宇宙からやって来た存在、つまりマルチバースの住人という設定なのです。しかも、ドクター・ストレンジによる「世界中の人々がピーター・パーカーを忘れる」という魔法が失敗したために、逆に「ピーター・パーカーをよく知っている人々」を全宇宙から呼び集めたという理屈で、これには大いに納得しました。3つのシリーズの物語を、3つの違うユニバースが同時に存在することで統合するというアイデアには感服しました。
『ハートフル・ソサエティ』(三五館)
「マルチバース」については、拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「神化するサイエンス」で詳しく紹介しましたが、ユニバース(世界、宇宙)の「ユニ」を「マルチ」に置き換えたものです。つまり、宇宙というのは、1つ(ユニ)でなくてもいい、たくさん(マルチ)存在していい、宇宙はいくらでも無限に生まれるという考え方です。ビッグバン宇宙国際研究センター長を務めた宇宙物理学者の佐藤勝彦氏は、自身が提唱者の1人である有名な「インフレーション理論」を発展させる中で、インフレーション中の宇宙には、子どもの宇宙がいくつも生まれ、さらに孫の宇宙、曾孫の宇宙も生まれるという理論を考えました。この佐藤氏によるマルチバース理論は、「人間原理の宇宙論」の解釈として強力な説得力を持っています。
佐藤氏は、「宇宙について考えていくと、結局、人間の存在の意味や意義についても、何かが示されることになる」と述べていますが、マルチバース理論は、量子論の「多世界解釈」にも通じます。現代物理学を支える量子論によると、あらゆるものはすべて「波」としての性質を持っています。ただしこの波は、わたしたちが知っている波とは違う、特殊な波、見えない波です。それで、この波をどう理解するかという点で解釈の仕方がいくつかありますが、その1つが多世界解釈というものです。SFでは「パラレルワールド」とか「もう一人の自分」といったアイディアはおなじみですが、わたしたちが何らかの行動をとったり、この世界で何かが起こるたびに、世界は可能性のある確率を持った宇宙に分離していくわけです。
量子論においては、いわゆる「コペンハーゲン解釈」が主流ですが、この多世界解釈こそが量子論という最も基本的な物理法則を真に理解する上で、最も明快な解釈でしょう。そして、世界が複数に分かれていくという、一見すると非現実的に思えるこの多世界解釈という考え方が、実は物質世界が本当にどういうものであるかを認識するうえで、非常に本質的なものを抱えているのかもしれません。その「マルチバース」をテーマとした映画が、まさに「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」。「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」と同様に、とかく難解な「マルチバース」という概念を見事にエンターテインメントの要素に昇華させています。
この物語には、アメリカ・チャベスという謎の少女が登場しますが、彼女は家族を失うというグリーフを抱えています。以前から思っているのですが、「マルチバース」とか「パラレルワールド」といった考え方は、グリーフケアにおいて大きな力を発揮するのではないかと思います。というのも、愛する人を亡くした人が「別の宇宙、別の世界では、故人は生きているかもしれない」という希望を持つことができるからです。ブログ「26の大事件」で言及した知床遊覧船事故の場合も、別の宇宙では遊覧船は事故に遭遇せず、青年は彼女に感動のプロポーズを果たし、3歳の女の子は両親と一緒に自宅に帰り、佐賀県に住む70代の男性も奥さんの待つ家に無事に帰り着いたかもしれません。考えてみれば、天国や極楽といった宗教が説く死後の楽園というものも、ある意味でマルチバースのようなものかもしれませんね。
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)はグリーフケアの書ですが、全部で15通の手紙が掲載されています。その第1信「愛する人を亡くすということ」の冒頭に、わたしは「あなたは、いま、この宇宙の中で1人ぼっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じているかもしれません。誰にもあなたの姿は見えず、あなたの声は聞こえない。亡くなった人と同じように、あなたの存在もこの世から消えてなくなったのでしょうか」と書きました。でも、もしもマルチバースが存在するならば、「この宇宙」で1人ぼっちになったとしても、「別の宇宙」では1人ぼっちではないのです。しかし、「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」に登場するワンダ(エリザベス・オルセン)はそのようには考えませんでした。スカーレット・ウィッチという最強の魔女であるワンダには2人の病気の息子がいるのですが、彼らを救うために、別の宇宙を乗っ取ろうとするのです。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
『愛する人を亡くした人へ』で、わたしは「死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。あなたは、また愛する人に会えるのです風や光や雨や雪や星として会える。夢で会える。あの世で会える。生まれ変わって会える。そして、月で会える。いずれにしても、必ず再会できるのです。ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。先に行く人は『では、お先に』と言い、後から行く人は『後から行くから、待っててね』と声をかけるのです。それだけのことなのです」と書きました。
考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。わたしは、同書の最後に「『また会えるから』の言葉を合言葉に、再会の日を心から楽しみに、今日からまた生きてゆきませんか」と書きました。
「隣人@イマココちゃん」のツイートより
じつは、「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」にも「また会える」という言葉が登場しました。家族との死別を悲しむアメリカ・チャベスにドクター・ストレンジがかけた言葉ですが、チャベスは「その言葉、悪くないね」と言って少し元気になります。そう、言葉には人の心を変える力があるのです。この映画を観た日、あるツイートに気づきました。「隣人@イマココちゃん」という方が、「おとちゃんが亡くなった後に買って読んだ本。『死を乗り越える名言ガイド』『死を乗り越える映画ガイド』 一条真也著。この中の『思い出せば死者と会える』byメーテルリンク(詩人)が、一番お気に入りの言葉です」と書かれています。わたしは、これを読んで胸がいっぱいになりました。このツイートを知ったわが社の上級グリーフケア士の大谷賢博さんが、「これは凄いです! こうやって言葉が届いた人は発信しているのは凄いです。自分の事のように嬉しいです! やはりこうやって多くの人達が社長のブログや本で癒され励まされてるのだと思いました。これは嬉しいです!」とのLINEを送ってくれました。わたしも嬉しかったです。
「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」に話を戻すと、最強の魔女であるワンダが救いようのない孤独の海に沈んだとき、別の宇宙の自分から「あなたを愛す」と言われたシーンが心に残りました。「結局、自分を赦す者は自分であり、自分を愛する者は自分であり、自分を救う者は自分しかいない」というメッセージを感じました。ラスト近くで、ドクター・ストレンジが"至高の魔術師"と呼ばれるウォンに対して丁重にお辞儀をする場面も印象的でした。お辞儀や挨拶といった「礼」は、人の心に多大なエネルギーを与えるものであり、現実を変容するパワーさえ持っています。すなわち、人間界における最高の魔術とは「礼」であるというメッセージを感じました。最後に、この映画は、ゾンビ映画史上に残る名作(怪作)として名高い「死霊のはらわた」(1981年)を世に出したサム・ライミ監督らしい作品だったと思います。というか、どこから見てもゾンビ映画でした!(笑)