No.597
ようやく長女の結婚式および結婚披露宴が無事に終わりました。まだ放心状態ですが、何か映画でも観たいなと思い、日本映画「大河への道」をレイトショーで観ました。ストーリーはまあまあでしたが、主演女優の北川景子が良かったです。特に江戸時代の女性役が美しかった!
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「立川志の輔の落語『大河への道』を映画化。現代と200年前の江戸時代を舞台に、日本で最初の実測地図を作った伊能忠敬を主役にした大河ドラマ制作プロジェクトの行方と、日本地図完成に隠された秘密を描く。監督は『花のあと』などの中西健二、脚本は『花戦さ』などの森下佳子が担当。『記憶にございません!』などの中井貴一が主演、『の・ようなもの のようなもの』などの松山ケンイチと北川景子が共演し、現代と江戸時代の登場人物をそれぞれ一人二役で演じる」
ヤフー映画の「あらすじ」は、「千葉県香取市役所では町おこしのため、日本初の実測地図を作った郷土の偉人・伊能忠敬を主役にした大河ドラマの制作プロジェクトを発足させる。ところが脚本作りの途中、忠敬は地図完成前に亡くなっていたという新事実が発覚し、プロジェクトチームはパニックに陥ってしまう。一方、江戸時代の1818年。忠敬は日本地図の完成を見ることなく世を去り、弟子たちは悲しみに暮れる中、師匠の志を継いで地図を完成させるため、壮大な作戦を開始する」です。
この映画の主人公とも言えるはずの伊能忠敬は、江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人です。1745年に現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。その後、家督を譲って隠居し、勘解由と名乗ります。50歳で江戸に出て、55歳(1800年)から71歳(1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いものでした。忠敬の地図はヨーロッパにおいても高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。
この映画は、財政難の危機に瀕しているこの地方都市が、教科書にも載っている地元の偉人・伊能忠敬を題材にした大河ドラマを誘致するという物語ですが、タイトルに入っているわりには大河ドラマはどうでもいいというか、あまり重要ではない感じでした。実際、日本各地では観光振興策として大河ドラマに目をつけていますし、そのへんの背景はもっと泥臭いと思います。しかし、この映画で描かれている江戸時代と現代の物語は爽やかです。
わたしは、伊能忠敬の地図をリバーウォーク北九州の中にある「ゼンリン・ミュージアム」で見たことがあります。しかも、新たに見つかった忠敬の「新しい地図」でした。それは、伊能隊が1821年に幕府に提出した最終版の小図で、3枚揃いでした。3枚揃った「伊能小図」が国内で見つかるのは2例目だそうで、保存状態も良く、学術的価値も高いといいます。日本地図学会の太田弘常任理事は、「地図の分野にいる人間からとって、今世紀の大発見だと思っている」と述べています。2021年は、伊能忠敬が地図を完成させてから、ちょうど200年目にあたることから、大きな注目を浴びました。
伊能忠敬が死去して3年後に、「大日本沿海輿地全図」、いわゆる伊能図が完成したのは事実です。忠敬の死亡を隠すというストーリーに、わたしは最初、「人の死を隠すなど不届き千万」と不愉快でした。しかしながら、実測による日本地図を完成させるという忠敬の志を弟子である伊能隊の人々が受け継いだことが次第にわかり、彼らの姿を美しいと思いました。歴史書とか地図を作るというのは、その国に計り知れない恵みを与え、国民に誇りを抱かせるものです。かの『大日本史』も徳川光圀の志を受け継いだ人々が光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成しました。「大日本沿海輿地全図」も先人の志を名もなき人々が完成させました。映画「大河への道」の最後に、橋爪功演じる脚本家が「名もなき人々に光を当てたい」と言いましたが、まさにこの映画はそれを実現したものであり、彼らへの供養になったと思います。
伊能忠敬が亡くなったのは1818年ですが、そのちょうど50年後の1868年に明治維新となりました。その明治維新を呼び起こした1人とされる吉田松陰は、29歳の若さで刑死しましたが、彼の志は松下村塾の熟生であった久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義らに受け継がれました。わたしは、すべての人間は自分だけの特別な使命や目的をもってこの世に生まれてきていると思います。そして、その使命を一代で果たせないときは後進の人々がそれを果たすのです。映画「大河への道」を観ながら、わたしの中で忠敬の志と松陰の志がオーバーラップしました。
松陰は29歳でこの世を去りましたが、忠敬は74歳まで生きました。彼は、江戸時代に地球一周に相当する、およそ3万5000km、4000万歩を歩き、全国を実測して、日本地図を初めて作成したことで有名です。でも、彼が実際に測量に出かけるようになったのは55歳の時のことで、そこから71歳になるまで、足かけ16年かけて、全国測量を行いました。忠敬が前人未踏の大仕事を手がけていたのは高齢者になってからなのです。婿としての仕事を勤め上げ、家督を長男に譲った50歳を過ぎて、やっと念願の天文学を学ぶことができたのですが、56歳のときに37歳の高橋至時に弟子入りします。19歳も下の師匠でしたが、4年後、この至時は41歳の若さで病死してしまいます。後を継いで天文方となったのは至時の子の景保(映画では、中井貴一が演じました)で、忠敬は40歳も年下の景保に師事しながら、測量の仕事を続けます。
敬老を重んじた江戸時代にあって、40歳も年下の師を持ったということは驚くべきことです。しかしながら逆に考えれば、うんと年下の者と良い関係を保つことができた忠敬は謙虚であり、人を年齢で判断せずに学ぶことができた偉大な人物であったと思います。『伊能忠敬――正確な日本地図をつくった測量家』大石学監修・西本鶏介著・青山邦彦イラスト(ミネルヴァ書房)によれば、1818年4月、日本地図を作製し、幼い頃からの望みを達成した忠敬は、74歳でこの世を去ります。その際、生前からの希望通りに、自分よりも早く亡くなった恩師・高橋至時の墓のそばに葬られました。そして高橋至時の子・景保が忠敬の後を継いで地図作りの指揮を執り、3年後の1821年、ついに「大日本沿海輿地全図」が完成。これを見たオランダ商館付医師のシーボルトは、「日本にもこんな正確な地図があったのか」と驚いたと言います。この歴史的事実に、わたしは非常に感動しました。
「読売新聞オンライン」より
伊能忠敬の人生を知ると、「人は老いるほど豊かになる」と思いますが、昨年、拙著『老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)が旅行誌の名門である「旅行読売」最新号(2021年10月号)で紹介されました。同誌に掲載された三沢明彦氏の「【コラム/旅へ。】日本地図を作った伊能忠敬」の中に以下のように書かれています。
「帰りの車中、老いの指南書をめくると、歴史に名を遺した賢人たちも揺れていた。哲学者プラトンは『経験知を生かせ』と温かいが、アリストテレスは『自己中心的になり、早く引退せよ』と厳しい。迷いが深まる中で、こんな言葉に目が留まった。『老人は孤独なのではなく、毅然としている。無力なのではなく、穏やか。頭の回転が鈍いのではなく、思慮深いのだ』(一条真也『老福論』より)。そう置き換えてもらえば、少しは前向きになれる。老いと向き合い、つまらないプライドから自由になれば、険しい山は無理でも、なだらかな丘ぐらいは、とも思えてくる」
『老福論』(成甲書房)
「老い」というものを陽にとらえた拙著『老福論』の言葉を紹介していただき嬉しい限りですが、何よりもプラトンとアリストテレスの言葉と一緒に紹介されたことに驚きました。なんだか世界三大哲学者の一人になったような気分で、まことに愉快であります。ともあれ、70歳を過ぎても現役で活躍した伊能忠敬の老福人生は、超高齢社会を生きるわたしたち現代日本人への豊かなヒントに溢れています。映画の中で、「当時の70代といえば、現代の90代に相当する」というセリフが出てきますが、本当に伊能忠敬の生涯は偉大です。来年で60歳の大台に乗るわたしも大いに見習いたいものです!