No.615


 7月21日の午前中に一条真也の「哭悲/THE SADNESS」で紹介した映画を観た後、16時半から開催される財団の経営会議 まで時間があったので、ヒューマントラストシネマ有楽町で映画「ボイリング・ポイント/沸騰」を鑑賞。レストランを舞台にしたワンショット撮影のヒューマンドラマで、大傑作でした。今年の一条賞候補作品です!

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「イギリス・ロンドンの人気レストランを舞台に、オーナーシェフの波乱に満ちた一夜を描く人間ドラマ。クリスマス前の多忙な店内でさまざまなトラブルが巻き起こる様子を、ワンショットで映し出す。監督・脚本などは俳優としても活動するフィリップ・バランティーニ。主人公を『THIS IS ENGLND』などのスティーヴン・グレアムが演じ、『ポルトガル、夏の終わり』などのヴィネット・ロビンソン、『エイリアンVSヴァネッサ・パラディ』などのジェイソン・フレミングらが共演する」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「一年で最も多忙なクリスマス前の金曜日、イギリス・ロンドンの人気レストラン。妻子と別居し疲れ果てていたオーナーシェフのアンディ(スティーヴン・グレアム)は、多くの予約によってスタッフたちが多忙を極める中、衛生管理検査で店の評価を下げられてしまうなど、次々にトラブルに見舞われる。そこへ、ライバルシェフが著名なグルメ評論家を連れて予告なしに来店し、彼に脅迫同然の取引を持ち掛けてくる」

 この映画、まず何よりも、崖っぷちのオーナーシェフの波乱に満ちたスリリングな一夜を捉えた全編90分のワンショット映像が素晴らしい! 1時間半の間に、じつにさまざまなドラマが起き、トラブルが発生し、心に波紋が生じ、人間関係が揺らぎます。ただでさえ次々に入るオーダーへの対応に追われ、多忙を極めるスタッフたちですが、そこへ、オーナーシェフであるアンディの元上司のライバルシェフが、高名なグルメ評論家を連れて、事前の予告なしに突然来店する場面には緊張が走ります。大物グルメ評論家には、レストランの信用と評判を一夜で一変させる力があるからです。また、スタッフに多大なストレスを与えるインスタのインフルエンサーの姿も描かれます。さらには、1人の女性客が食品アレルギーの発作を起こして病院に搬送されるのですが、起こりえないはずの事件はなぜ起こったかを探るミステリーの要素もありました。

 一条真也の映画館「1917 命をかけた伝令」で紹介したで紹介した第一次世界大戦の映画をはじめ、これまでもワンショットを売り物にした映画はありましたが、いずれも正真正銘のワンショットではなく、編集の手が入っていました。しかし、この「ボイリング・ポイント/沸騰」だけは本物のワンショット映画、しかもノーCGです。ロンドンのイースト・エンド(東部)、流行の震源地であり、レストラン激戦区でもあるダルストン地区に実際にあるレストラン「ジョーンズ&サンズ」で撮影されたそうですが、まるで魔法のような映像は「どうやって撮ったの?」と思ってしまいます。きっと、厨房や客席の限られた空間でカメラマンがさまざまな障害物をギリギリすり抜けたのでしょう。その結果、各キャストの表情や演技、料理の手さばきを見事にカメラに収めています。

 この映画、マネジメントを考える上でも興味深かったです。海外のレストランは役割分担が明確で、スタッフは縦割りになっています。欧米の店では人種の問題もあって、人間関係は複雑。セクショナリズムも強いし、部下は言うことを聞きません。そんな彼らを管理するシェフやホール・マネージャーは苦労が絶えませんが、そのシェフやホール・マネージャーにしても個人的に悩みを抱えていて、ちょっとしたことで心が破裂しそうになります。特に、この映画では、クレイマーあるいは人種差別主義者のお客が、スタッフの黒人女性に心ない言葉を吐く場面があります。彼女の人間的尊厳は損なわれますが、それでも彼女は微笑んでいなければなりません。「接客業の人間相手にいばる奴は、本物の馬鹿」と言ったのは北野武ですが、レストランの接客係はいわゆる「感情労働者」であると言えるでしょう。現代は、モノを生産したり加工したりする仕事よりも、人間を相手にする仕事をする人、すなわち「感情労働者」が多くなってきました。感情労働とは、肉体労働、知識労働に続く「第三の労働形態」とも呼ばれます。

 一条真也の読書館『管理される心』で紹介した名著を書いたアメリカの社会学者アーリー・ホックシールドは、「感情社会学」という新しい分野を切り開きました。ホックシールドは、乗客に微笑む旅客機のキャビンアテンダントや債務者の恐怖を煽る集金人などに丹念なインタビューを行い、彼らを感情労働者としてとらえました。彼は、「マルクスが『資本論』の中に書いたような19世紀の工場労働者は『肉体』を酷使されたが、対人サービス労働に従事する今日の労働者は『心』を酷使されている、と」と述べます。現代とは感情が商品化された時代であり、労働者、特に対人サービスの労働者は、客に何ほどか「心」を売らなければならず、したがって感情管理はより深いレベル、つまり感情自体の管理、深層演技に踏み込まざるをえません。それは人の自我を蝕み、傷つけるというのです。

心ゆたかな社会』(現代書林)



 拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)にも書きましたが、わが社の事業である冠婚葬祭業にしろホテル業にしろ、気を遣い、感情を駆使する仕事です。お客様は、わたしたちを完全な善意のサービスマンとして見ておられます。もちろん、わたしたちもそのように在るべきですが、なかなか善意の人であり続けるのは疲れることです。わが社の社員たちは、感情労働のプロとして、ホスピタリティを提供しているのです。そして、コロナ時代を経て「ケア」がキーコンセプトとなります。わたしは、コロナ後のサービス業はケア業へと進化すべきであるとして、「サービスからケアへ」を訴えているのですが、まさにこの映画のメインテーマは「ケア」だと思いました。レストランを訪れるお客は空腹なだけでなく、心も満たされていません。お客だけでなく、シェフもマネージャーもスタッフも、みんな心のケアを求めているのです。わたしは今、「サービスからケアへ」をテーマにした本を書く準備をしていますが、コロナ禍で苦しんだ多くの飲食店のオーナーを含めた接客サービス業の方々にぜひ読んでいただきたいです!