No.630
 

「秋分の日」となる9月23日、この日から公開の映画を2本続けて、シネプレックス小倉で観ました。すると2本ともグリーフケアの映画で、まさに「グリーフケアの時代」を実感しました。1本目は、フランス映画「秘密の森の、その向こう」です。時空を超えるという映画の本質を見事に体現した「喪失」と「癒し」のドラマでした。

 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「娘、母、祖母の3世代をつなぐヒューマンドラマ。祖母が他界し、そのことに動揺した母が行方をくらませた日、残された娘は時空を超えて自分と同い年の母と出会う。監督などを手掛けるのは『燃ゆる女の肖像』などのセリーヌ・シアマ。ジョゼフィーヌ・サンスとガブリエル・サンス姉妹が主人公の少女を演じ、『カミーユ』などのニナ・ミュリス、『サガン ―悲しみよ こんにちはー』などのマルゴ・アバスカルらが出演している」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「8歳のネリー(ジョゼフィーヌ・サンス)は、森の中に立つ祖母の家を両親と共に訪れる。亡くなった祖母の家を整理することになったものの、母は少女時代の思い出が詰まった家にいることに耐えかねて出て行ってしまう。残されたネリーは、母が昔遊んだ森を探索するうちに、マリオン(ガブリエル・サンス)という母と同じ名前を名乗る8歳の少女と出会う」
 
 この物語の主人公であるネリー(ジョゼフィーヌ・サンス)は、愛する祖母を亡くしたばかりか、愛する母まで行方をくらませてしまうという二重のグリーフの中にあります。亡くなった祖母の家の近くの森を探索していたネリーは、母と同じ名前「マリオン」と名乗る同じ8歳の少女に出会います。この2人、本当に良く似ていて、最初は1人2役かと思ったのですが、演じている少女が実際の姉妹なのですね。ネリーとマリオンは2人だけで小屋を完成させますが、1つのことを共に成し遂げ肩を組んだ背中に、強い結びつきを感じさせます。この森は、セリーヌ・シアマ監督自身が育った町にある、幼い頃によく遊んでいた馴染みの森だそうです。森も女性も「自然」のメタファーなので、「赤ずきんちゃん」ではないですが、森の中の少女というのは相性が良いと思いました。
 
 ネリーと両親は、亡くなった祖母の家を処分するために母の実家を訪れますが、ネリーは母が子ども時代に遊んだ玩具を発見します。1つの家族、1人の人が暮らした家にはたくさんの思い出の品があります。最近、遺品の回収業を始められた方とお話ししたのですが、「1人暮らしの女性が亡くなられた家には、手作りのぬいぐるみとか、ビーズのアクセサリーとか、キルトの刺繍などがたくさんあって、それらをゴミとして処分しなければならないことに心が痛みました」と言われていたことを思い出しました。わたしは、故人の遺品がゴミではなくアンティークのように再利用されるビジネスモデルについて考えています。祖母の家でネリーと母マリオンが、母が幼い頃に使っていたノートを見ている様子には、過ぎ去った時間への郷愁がよく表現されていました。
 
 ネリーが少女時代の母マリオンと時空を超えて会うことは、映画の予告編でも知らされています。だからネタバレにはならないと思いますが、ネリーが「わたしは、あなたの娘なの」と告白したとき、マリオンは驚きながらも「あなたは未来から来たの?」と質問します。そう、普通はこんなシチュエーションの場合は、ネリーが未来からタイムトラベルしてきたのだと思うでしょう。「ドラえもん」の第1回で、のび太の子孫であるセワシ君が未来からのび太に会いに来るみたいなものです。それ以外では、パラレルワールドとかマルチバースとか、今どきのSF的設定も考えられないことはないですが、この映画は、孤独なネルの魂と孤独なマリオンの魂が時空を超越して共感、共振し合ったというスピリチュアル・ファンタジーだと思います。
 
 少女が主役のフランス映画で、「グリーフケア」がテーマといえば、名作「ポネット」(1996年)を思い出します。母の死を受け入れられない幼い少女が、傷つきながらも悲しみを乗り越えていく姿を描いた感動作です。「秘密の森の、その向こう」のネリーは8歳でしたが、ポネットはわずか4歳です。交通事故で最愛の母を亡くした彼女は、「死」というものを理解できませんでした。そんな彼女を見た周囲の大人たちは、彼女に死の意味を教えますが、ポネットは逆に自分の世界に閉じこもってしまいます。そんなとき、ポネットの前にある奇跡が起きるのでした。とにかくポネットを演じたヴィクトワール・ティヴィソルの演技が素晴らしく、1996年のヴェネチア映画祭で女優賞を史上最年少で受賞しています。

また会えるから』(現代書林)



 さて、「秘密の森の、その向こう」の冒頭は、祖母の死後、ネリーが病院の患者たちの病室を訪れ、「オルボワール(さよなら)」挨拶をするシーンから始まります。その後も、「オルボワール」という言葉は何度も映画の中で登場します。わたしは、2010年4月25日に刊行された、愛する人を亡くした人のためのグリーフケア・フォト・ブックである『また会えるから』(現代書林)のメッセージを連想しました。本書の帯には、「美しい写真と詩で悲しみが溶けてゆく」「じゃあね。日本語」「再見。中国語」「See you again.英語」「Au revoir pour le moment.フランス語」「Freilos fur jetzt.ドイツ語」「Ciao per ora.イタリア語」「世界中の別れの挨拶には、『また会いましょう』という意味が込められている」と書かれています。
 
 考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。そして、フランス語の「「Au revoir pour le moment.」もそうです。これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるということを人類は無意識のうちに知っているのだと。その無意識の底にある真理が、別れの挨拶に再会の約束を重ねさせているのだと。わたしたちは、別れても、必ずまた、愛する人に再会できるのです。「秘密の森の、その向こう」という美しいファンタジー映画を観て、わたしはその考えを再認識しました。