No637


 映画「ダウントン・アビー」を観ました。
 故エリザベス女王も愛したというイギリスの人気ドラマの劇場版です。わたしは、ネットであまりにも高評価だったので、現在公開中の「ダウントン・アビー/新たなる時代へ」がシリーズ第2弾とは知らずにチケットを購入してしまいました。それで、鑑賞の前日にU―NEXTで前作を観た次第です。2019年製作、2020年に日本公開された作品ですが、非常に面白かったです!
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「英国貴族と使用人たちが織り成す人間模様を描きヒットしたドラマシリーズ『ダウントン・アビー』の劇場版。ドラマの最終回の数年後を舞台に、大邸宅でのロマンスや陰謀を映し出す。ヒュー・ボネヴィル、マギー・スミス、ジム・カーターらおなじみの面々が集結し、新たに『ヴェラ・ドレイク』などのイメルダ・スタウントンが出演。ドラマ版に続いて、脚本をジュリアン・フェロウズ、監督をマイケル・エングラーが務める」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「国王夫妻が訪れることになった大邸宅ダウントン・アビー。グランサム伯爵家の長女メアリー(ミシェル・ドッカリー)は、パレードや晩さん会の準備のために引退していた元執事のカーソン(ジム・カーター)を呼び戻すが、国王夫妻の従者たちは、自分たちが夫妻の世話や給仕をやると告げる。一方、先代伯爵夫人バイオレット(マギー・スミス)の従妹モード・バッグショー(イメルダ・スタウントン)は、自分の遺産をメイドに譲ろうと考えていた」「ダウントン・アビー」は、大邸宅に暮らす貴族・クローリー家と使用人たちの生活を描き、ゴールデングローブ賞やエミー賞に輝いたイギリスの人気ドラマです。イギリスのイングランド北東部、ヨークシャーのダウントン村にある大邸宅「ダウントン・アビー」。その所有主のロバート・クローリーは、グランサム伯爵でありクローリー家の当主です。彼には先代グランサム伯爵夫人である母バイオレット、アメリカ人富豪の娘である妻コーラ、妻との間に誕生した長女のメアリー、次女のイーディス、三女のシビルの3人の娘がいます。当時の法律(イングランド法)では、最近縁の男系(父系)男子1人のみに爵位と財産の全てを相続させる「限嗣相続制」が定められていたため、ロバートの後継者はいとこのジェームズであり、娘たちは爵位も財産も継ぐことはできなかったのです。そこで長女のメアリーはジェームズの一人息子パトリックと婚約し、財産と爵位は子孫が継承する予定でした。
 
 ドラマ「ダウントン・アビー」では、エドワード朝時代以降の貴族、グランサム伯爵クローリー家とそこで働く使用人たちの生活を描いており、歴史上の出来事が彼らの生活やイギリス社会階層に影響を与える様子がよくわかります。シーズン1の冒頭では、タイタニック号沈没事故が起きます。それを知ったクローリー家は動揺します。なぜなら、クローリー家の家督を相続するはずだった長女メアリーの婚約者パトリックがタイタニック号に乗船しており、死亡したからです。そこから、奇々怪々な人間模様が展開されていくのでした。わたしは「タイタニック号沈没事件」に多大な関心を抱いているので、この事件が物語の発端というのはたまりませんね。いつか時間を作って、ドラマ版も鑑賞してみたいです。
 
 シーズン2では、第一次世界大戦や汚職スキャンダルであるマルコーニ事件が起こります。マルコーニ事件とは、1910年代に無線電信を開発したグリエルモ・マルコーニを中心に汚職疑惑が発覚し、自由党の政治家を中心に多数の政治家に収賄の嫌疑がかかった、そのなかには後の首相のデビッド・ロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルもいた。もし、彼らが起訴され有罪となっていたら、チャーチルが第二次世界大戦を指導することはなかっただろうし、第一次世界大戦の趨勢もどうなっていたかわからず、世界史はかなり違っていたであろうと指摘されています。また、20世紀を代表するパンデミックであるスペイン風邪の流行についても描かれています。
 
 シーズン3では、アイルランド独立戦争などが描かれます。戦争の発端はグレートブリテンおよびアイルランド連合王国(現在のイギリス)本国政府がアイルランド自治法によって自治領成立を認めたものの、第一次世界大戦によって全計画が延期されたことでした。イースター蜂起を経て、戦争終結後もイギリス領であることに不満を持ったアイルランド民族主義者らは、1919年に武装蜂起しアイルランド共和国を宣言、アイルランド独立戦争が勃発しました。1921年12月、休戦協定が結ばれ、英愛条約が締結されました。アイルランド共和国はイギリス連邦の下にアイルランド自由国として成立し、形式的には独立戦争は終結しましたが、イギリス連邦下にあることにも不満を抱く民族主義者はアイルランド内戦を起こしました。独立した南アイルランド地域と異なり、北アイルランドはイギリス統治下にとどまりました。この第3シーズンでは、「ダウントン・アビー」は世界で最も広く視聴されているテレビドラマ番組の1つになりました。
 
 シーズン4では、アメリカ政治のスキャンダルであるティーポット・ドーム事件などが描かれます。ティーポット・ドーム事件は1921年から1924年にかけて、ウォレン・ハーディング大統領政権下のアメリカ合衆国で起きた汚職事件です。内務長官アルバート・B・フォールは、ワイオミング州のティーポット・ロック付近と、カリフォルニア州に2か所にあった海軍保有の油田を、入札なしかつ安い使用料で民間企業に賃貸しました。1922年および1923年には、この賃貸の問題がアメリカ合衆国上院議員トマス・J・ウォルシュによる調査の対象となりました。後に、フォールは収賄罪で逮捕され、大統領顧問団の一員として初めて刑務所に服役することとなったのです。 ウォーターゲート事件以前、ティーポット・ドーム事件は、アメリカ政治史上最大かつもっともスキャンダラスな事件であると見なされていたといいます。
 
 シーズン5では、英国史上初の労働党政権となるマクドナルド政権の発足が描かれます。1924年にラムゼイ・マクドナルド党首がジョージ5世からの組閣要請で自由党の閣外協力で史上初の労働党政権の首相兼外相に就任しますが、ジノヴィエフ書簡などの影響で同年の総選挙で敗北し、9ヵ月で退陣。1929年、マクドナルドは第2次の労働党単独内閣を組閣。1931年から1935年までは、ジョージ5世からの大命で労働党を除く挙国一致内閣の首相を彼が務めました。彼は、ウェストミンスター憲章を制定してイギリス連邦を発足させています。外交面ではロンドン会議でロンドン海軍軍縮条約を成立させました。その他、シーズン5には、1919年4月13日にインドのパンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)で非武装のインド人市民に対して、グルカ族およびイスラム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃した「アムリットサル事件」や、1923年11月、ミュンヘンで起こったナチスのクーデター「ミュンヘン一揆」も描かれます。
 
 ドラマのファイナル・シーズンとなるシーズン6では、戦間期の労働者階級の台頭を取り上げています。労働者階級はとは、資本主義社会において、資本家に自己の労働力を提供して賃金を得るほかに生活の方法のない賃金労働者によって構成される社会階級です。プロレタリアートとも呼ばれますね。一方、貴族階級は衰退の一途にありました。シーズン6では、経済的に逼迫した貴族たちが領地やカントリー・ハウスを手放し、使用人を解雇し削減せざるをえない状態に追い込まれる情勢が描かれています。映画「ダウントン・アビー」でも、クローリー家の長女であるメアリーが「貴族の生活はギリギリ」「大邸宅の修理代もかかるし、人出もかかる」「本当は屋敷を手放して、学校か老人施設にでもしてほしい」などと苦しい本音を口にする場面がありました。
「映画.com」より
 
 
 
 映画「ダウントン・アビー」は、2019年製作のイギリス・アメリカ合作映画です。ストーリーも悪くはありませんが、わたしは、この映画に登場する人々のファッションや調度品や食器などに興味を抱きました。ファッションは、男性用の帽子やシャツ、ジャケット、モーニング、タキシードなどが当時の時代風俗をしっかり考証していて、勉強になりました。また、松柏園ホテルというホテルを経営していますので、豪華な調度品や食器にも目を奪われました。松柏園ホテルといえば、2000年11月に、開業50周年を記念してリニューアルしましたが、当時の総支配人であったわたしは、新しくリニューアルするバンケットのコンセプトを「ブリティッシュ・スタイル」とし、イギリス貴族の邸宅をイメージした「ザ・ブリティッシュクラブ」というバンケットをオープンしました。絵画、バーカウンター、マントルピースなど、ヴィクトリア朝イギリスのアンティークを直輸入し、本格的な英国流ウェディングが実現できる会場としたことを思い出します。
「映画.com」より

 
 
 
 ホテルというのはヨーロッパが発祥ですが、もともとは貴族の大邸宅(アビー)で客人をもてなしていた習慣が大衆化したという見方ができます。生まれつき身分の高い貴族だけが質の高いもてなしを受けるのではなく、身分にかかわらず誰でも料金さえ払えば高品質のサービスを受けられるというのが近代ホテルです。いま、「サービス」といいましたが、サービスというのは対価が発生します。それはダウントン・アビーの使用人たちの仕事も同じで、彼らはクローリー家の人々の命令を忠実に受けて、賃金を貰っているわけです。ダウントン・アビーには、「階上の貴族」と「階下の使用人」という二種類の人間が住んでいます。ドラマのシーズン1には、メイドの1人が「わたしたちは、クローリー家の人たちの友達じゃない。ただ命令に従って、お金を貰うだけ」と言い放つシーンがありました。 
「映画.com」より
 
 
 
 ドラマのシーズン1には、客人としてダウントン・アビーを訪れた法律家の青年から従者が「こんな仕事、大の男がする仕事じゃないだろう」と言われるシーンがあります。従者の顔色が変わったことに気づいた青年はすぐに謝罪するのですが、従者のプライドはズタズタにされてしまいました。わたしは、このシーンを観て、「サービス」について考えました。サービスというのは商品と同様に販売すべきものであって、一般に「商品」には製品とともにサービスも含まれる。「財貨」という経済学用語では、商品とサービスをあえて区分していません。もし区分するとすれば、商品が有形でサービスが無形であるというだけです。

心ゆたかな社会』(現代書林)
 
 
 
 拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)の「ホスピタリティが世界を動かす」にも書きましたが、「service(サービス)」の語源は、ラテン語のservus(奴隷)という言葉から生まれ、英語のslave(奴隷)、servant(召し使い)、servitude(苦役)などに発展しています。サービスにおいては、顧客が主人であって、サービスの提供者は従者というわけですね。ここでは上下関係がはっきりしており、従者は主人に服従し、主人のみが充足感を得ることになります。サービスの提供者は下男のように扱われるため、ほとんど満足を得ることはありません。サービスにおいては、奉仕する者と奉仕される者が常に上下関係、つまり「タテの関係」の中に存在するのです。一方、「サービス」に対して「ケア」という言葉があります。
「映画.com」より
 
 
 
 サービスの語源には「苦しみを与える」という意味がありますが、ケアの語源は「苦しみを分かち合う」という意味です。サービスは奉仕する者と奉仕される者が常に上下の垂直関係、つまり「タテの関係」です。しかし、ケアの場合は、奉仕する者と奉仕される者が水平関係、つまり「ヨコの関係」です。そこでは、奉仕する者と奉仕される者は平等です。そして、相手を支えることで、自分も相手から支えられることを「ケア」というのです。「ありがとう」と言ってくれた相手に対して、こちらも「ありがとう」と言うことが「ケア」なのです。そう、「サービス」は一方向ですが、「ケア」は双方向です。

雨に降られた「隣人祭り・秋の観月会」
 
 
 
 わが社は、サービス業からケア業への進化を計画しています。映画「ダウントン・アビー」の中では、国王のパレード用に大雨の中を椅子を並べる人々の姿が描かれていました。わたしは、それを見て、ブログ「隣人祭り・秋の観月会」で紹介した10月7日のサンレーグランドホールでのイベントで思わぬ大雨が降ったことを思い出しました。そのとき、わが社のスタッフのみなさんはズブ濡れになって椅子を片づけたりしていましたが、その様子がキビキビしていて、仕事だから嫌々やっているのではなく、お客様のために自発的にやっているように見えました。間違いなく、その行為は「サービス」ではなく「ケア」でした。
「映画.com」より
 
 
 
「相互扶助」や「ホスピタリティ」という言葉をそのまま「ケア」に置き換えても意味は通ります。真の奉仕とは、サービスではなく、ケアの中から生まれてくるものだと言えます。ここでいう奉仕とは、自分自身を大切にし、その上で他人のことも大切にしてあげたくなるといったものです。自分が愛や幸福感にあふれていたら、自然にそれを他人にも注ぎかけたくなります。「情けは人の為ならず」と日本でもいいますが、他人のためになることが自分のためにもなっているというのは、世界最大の公然の秘密の1つなのです。アメリカの思想家エマーソンによれば「心から他人を助けようとすれば、自分自身を助けることにもなっているというのは、この人生における見事な補償作用である」というわけです。

「映画.com」より
 
 
 
 与えるのが嬉しくて他人を助ける人にとって、その真の報酬とは喜びにほかなりません。他人に何かを与えて、自分が損をしたような気がする人は、まず自分自身に愛を与えていない人でしょう。真の奉仕とは、助ける人、助けられる人が1つになるといいます。どちらも対等です。相手に助けさせてあげることで、自分も助けています。相手を助けることで、自分自身を助けることになっています。相手に助けさせてあげることで自分を助け、相手を助けることで自分自身を助けるというのは、まさに与えること、受けることの最も理想的な円環構造と言えるでしょう。その輪の中で、どちらが与え、どちらが受け取っているのかわからなくなります。それはもう、1つの流れなのです。

「映画.com」より
 
 
 
 映画「ダウントン・アビー」を観ながら、わたしは「サービス業の時代は終わりつつある。これからは、ケア業の時代だ」と確信しました。わが社はケア業への進化をめざしたいと改めて思いました。それにしても、映画に登場する国王一家は階下の人々に対してもけっして威張っておらず、人間味に溢れていたので、ほっこりしました。このドラマを故エリザベス女王が愛していたというのも何となくわかる気がします。日本でも旧華族のドラマを作ったら面白いかもしれませんが、イギリスの貴族ほどスリリングな物語にはならないでしょうね。