No.648
11月18日、ブログ「サンレー創立56周年記念式典」で紹介したセレモニーが行われた夜、この日公開の映画「ザリガニの鳴くところ」をシネプレックス小倉で観ました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ディーリア・オーエンズの小説『ザリガニの鳴くところ』を実写化したミステリー。湿地帯でたった一人で育った少女が殺人事件の容疑者となって法廷に立ち、壮絶な半生と事件の真相が明らかになる。メガホンを取るのは『ファースト・マッチ』などのオリヴィア・ニューマン。『フレッシュ』などのデイジー・エドガー=ジョーンズ、『シャドウ・イン・クラウド』などのテイラー・ジョン・スミスのほか、ハリス・ディキンソン、デヴィッド・ストラザーンらが出演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「6歳のときに両親に捨てられた少女カイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)。ザリガニが鳴くといわれるアメリカ・ノースカロライナ州の湿地帯でたった一人で育ち、自然から生きる術を学んだのだった。ある日、その湿地帯で青年の変死体が発見され、カイアに殺人の容疑がかけられる。そして、法廷に立った彼女の口から語られたのは、想像を絶する半生だった」
ディーリア・オーエンズによる原作小説は、2021年本屋大賞翻訳小説部門第1位に輝きました。全世界1500万部突破、2019年・2020年アメリカで最も売れた本だそうそうです。アマゾンの内容紹介には、「ノースカロライナ州の湿地で男の死体が発見された。人々は『湿地の少女』に疑いの目を向ける。6歳で家族に見捨てられたときから、カイアはたったひとりで生きなければならなかった。読み書きを教えてくれた少年テイトに恋心を抱くが、彼は大学進学のため彼女を置いて去ってゆく。以来、村の人々に『湿地の少女』と呼ばれ蔑まれながらも、彼女は生き物が自然のままに生きる『ザリガニの鳴くところ』へと思いをはせて静かに暮らしていた。しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に近づく......」と書かれています。みずみずしい自然に抱かれた少女の人生が不審死事件と交錯するとき、物語は予想を超える結末へと向かうのでした。
原作者のディーリア・オーエンズは、動物学者です。『ザリガニの鳴くところ』は、彼女が70歳を超えて生まれた処女作というから凄いですね。そのような作品が多くの読者に愛されたことは本当に素晴らしいと思います。アメリカをはじめ世界各国でベストセラーとなり、リース・ウィザースプーンが映画化権を獲得、テイラー・スウィフトが楽曲参加を懇願するなど、いかに原作小説がアメリカで高い評価を得ていたかがわかるエピソードです。実際のディーリア・オーエンズは、映画の中の晩年のカイアによく似ていますね。この映画、過酷な運命に翻弄された主人公が出版によって人生の活路を拓いていくのですが、出版ドリームを描いているのは愉快でした。
タイトルの「ザリガニの鳴くところ」の意味ですが、原作の中で、カイアはティトに対して、「どういう意味なの?"ザリガニの鳴くところ"って。母さんもよく言ってたけど」と質問します。カイアは、家出した母親がいつも「できるだけ遠くまでいってごらんなさいーーずっと向こうのザリガニの鳴くところまで"」と口にして湿地を探検するよう勧めていたことを思い出したのです。映画では、カイアのすぐ上の兄が口にしていました。そのカイアの問いに対して、ティトは「そんなに難しい意味はないよ、茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きてる場所ってことさ」と答えるのでした。
その「ザリガニの鳴くところ」は、厳しい自然の掟を象徴しています。雄カマキリは交尾した後で雌に食べられ、蛍は異種の雄を食い殺され、七面鳥も哀れに死んでいきます。原作者のディーリア・オーエンズが動物学者であるだけに、こうした自然界のエピソードが多く盛り込まれています。「ザリガニの鳴くところ」とは「生き物たちが自然のままの姿で生きてる場所」であり、そこは熾烈な生存競争の場でもあります。幼くして家族から見捨てられ、自分の力だけで生きていかなくてはならなかったカイアにとって、「ザリガニの鳴くところ」こそは自分の生きる世界でした。彼女の「そこに悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ」「生物学では善と悪は基本的に同じ」といった言葉が彼女の人生観を見事に示しています。
それにしても、カイアの境遇は悲惨過ぎます。父の暴力に耐えきれず、母が去り、年長の兄姉も去って、仲良しのすぐ上の兄ジョディまでもが去ってしまいます。わたしには、「どうして、みんな、幼いカイアを置いていったのか?」という素朴な疑問が残りました。普通は連れて行くでしょう。父の暴力のせいで心神喪失状態にあったと思われる母はまだしも、仲が良かったカイアのすぐ上の兄などは幼いカイアを置き去りにするのは、あまりにも無情です。ついには、父までがカイアを置いて家を出たというのが信じられませんが、いくらフィクションでもちょっと「やりすぎ」感がありましたね。そもそも、あのような湿地で少女が1人で生きていくのは不可能でしょう。いくら1960年代のアメリカだからって、無謀な設定のように思うのは、わたしだけではありますまい。
心が痛んだのは、カイアが学校に行ったとき、みんなから馬鹿にされます。それで彼女は1日だけしか登校しなかったのですが、そのせいで文字が読めませんでした。わたしは、その悲しい場面を観て、現代日本でも毒親のせいで学校に行かない有名な子どものことを思い浮かべました。彼は不登校ゆえに13歳なのに九九もわからないなどと報道されていますが、その父親は心理カウンセラーや講演会講師などを務める実業家だそうです。暴走族の元副総長だったとかいう父親は自身のツイッターに「アホな老害は時代に取り残されていく」などと書き込んで、息子の生き方を支持しています。しかし、本人の可能性を奪っているのはアンチではなくこの子の父親です。同年代と過ごす時間は良し悪し含めて勉強になります。もちろん楽しいことばかりではなく、辛いこともありますが、それもまた勉強です。その機会を親が奪って、わが子に車中生活させているのは児童虐待の可能性があります。児童相談所は即座に出動すべきではないでしょうか?
カイアとテイト(映画.comより)
悲惨な少女時代を送ったカイアにも救いがありました。それは兄の友人だったテイトの存在です。カイアに好意を抱くテイトは学校に行かない彼女に本を貸して文字を教えます。それだけでも素晴らしい心の交流ですが、カイアの誕生日にテイトはバースデー・ケーキをプレゼントするのでした。自宅にカレンダーがないために自分の誕生日がこの日であることも知らなかったカイアは非常に驚き、そして感激します。このシーンには泣かされました。わたしは、誕生日を祝い行為には深い意味があると思っています。もともと「祝う」という営みには人類の良き秘密が隠されていますが、老若男女を問わず、誰にでも毎年訪れる誕生日を祝うことは、その人の存在そのものを肯定すること、存在価値を認めることにほかなりません。それは、まさに「人間尊重」そのものの行為なのです。
周囲から異物として見られたカイアは、観客がトラウマになるような信じられないほど悲惨な人生を送ります。それでも彼女が「村八分」にならずに生活していけたのは、雑貨店の黒人夫婦が彼女を優しくサポートしたからでした。カイアの悲嘆は深いものでしたが、それを包み込む思いやりが黒人夫婦にはありました。その意味で、この映画には「グリーフ」と「コンパッション」の両方が描かれていました。「コンパッション」を直訳すれば「思いやり」ですが、それはキリスト教の「隣人愛」、仏教の「慈悲」、儒教の「仁」などにも通じる人類の普遍思想とも呼べるものです。わが社は、コンパッション企業を目指しています。
「コンパッション」の映画でした(映画.comより)
そのコンパッションは最後に偏見に満ちた陪審員たちの心も動かすことになります。この映画は基本的に法廷劇ですが、弁護士が被告の「グリーフ」をいかに陪審員に伝え、彼らの「コンパッション」を作動させるかが裁判のポイントだということを見事に示していました。観察する人間次第で被告人カイアは、神々しい聖女にも、制御不能な怪物にも見えます。カイアの「裁かれているのはわたしではなく街の人たちのほうだ」という言葉は、そういった意味だと思いました。ラストシーンは意外でも何でもなく想定内でしたが、こういう物語が大ヒットしたこと自体が、わたしには興味深く感じられました。
シネプレックス小倉に「レッドシューズ」の告知が!
最後に、「ザリガニの鳴くところ」を観終わったわたしは、帰り際にシネプレックス小倉の通路に「レッドシューズ」の告知を発見しました。この映画は、 ブログ「二度目の映画出演」で紹介した、わたしの出演作です。雑賀俊朗監督の最新作で、朝比奈彩主演。共演に佐々木希、観月ありさ、松下由樹など。この映画にも「グリーフ」と「コンパッション」が描かれています。12月9日からオールロケをした北九州市での先行上映が始まりますが、なんと、わたしが舞台挨拶で朝比奈彩ちゃんに花束贈呈することになりました。今から、ワクワクが止まりません!