No.653
東京に来ています。
11月25日、互助会保証株式会社の監査役会が始まるまでに、朝一番で日比谷へ。TOHOシネマズ日比谷で日本映画「窓辺にて」の初回上映を鑑賞しました。わたしは、稲垣吾郎・草彅剛・香取慎吾の「新しい地図」の3人を日本を代表する俳優集団として高く評価していますが、この映画に主演した稲垣吾郎の演技は素晴らしかったです!
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『半世界』などの稲垣吾郎が主演を務め、好きという感情について描いたラブストーリー。妻の浮気を知りながら何も言い出せないフリーライターが、自身に芽生えたある感情に悩む。監督は『愛がなんだ』などの今泉力哉が務め、本作のために脚本も書き下ろした」
ヤフー映画の「あらすじ」は、「フリーライターの市川茂巳(稲垣吾郎)は、編集者の妻・紗衣が売れっ子小説家と浮気していることを知りながら、妻にそれを指摘できずにいた。それだけでなく、彼は浮気を知ったときに芽生えた自身の感情についても悩んでいた。ある日、文学賞を受賞した女子高校生作家・久保留亜の小説に心を動かされた茂巳は、留亜に小説のモデルについて尋ねる」です。
この映画の醍醐味は、なんといっても登場人物たちの会話にあります。珠玉の文学作品を朗読しているようなセリフの数々がこれ以上なく魅力的であり、ほとんど会話劇と言ってもいいほどです。タクシーの中で運転手と主人公の茂巳が交わす会話があります。パチンコハマっているという運転手が「『時は金なり』って言いますが、パチンコは時も金も同時に使ってしまうもの。こんなに贅沢なものはありませんよ」というセリフなど名言だと思いました。この映画の脚本は今泉力哉監督が自ら書いていますが、小説家の心中を見事に表現しています。もしかすると、今泉監督自身がもともと小説家志望だったのではないでしょうか。また、映画の中に「村上春樹」という固有名詞が出てきますが、この物語自体が村上春樹的だとも感じました。これも、今泉監督が春樹ワールドの影響を受けているように思えてなりません。ブログ「『村上春樹 映画の旅』展」で紹介したように、前日に春樹ワールドを堪能したばかりでしたので、余計にそのように感じたのかもしれませんね。
「窓辺にて」は上映時間が142分もあるのですが、まったく長さを感じさせず、一気に観てしまいました。一条真也の映画館「ファイブ・デビルズ」で紹介した前夜に観たフランス映画と違って、ストーリーも面白かったですし、美しい映像だけでなく、会話、生活音、環境音、そして無音が心地よかったです。タイトルにもなった「窓辺にて」を連想させるように、窓辺から陽の光が差し込むシーンが素敵でした。主人公たちは窓辺の日光を自らの手に当てて「光の指輪」を作ろうとします。それを見て、わたしは「やはり、太陽光線(SUNRAY)は幸福のメタファーなのだ」と思いました。全体を通してスタイリッシュな映画でしたが、「ファイブ・デビルズ」よりもずっとフランス映画っぽかったです。昨夜訪れたヒューマントラストシネマ有楽町では、近く「ジェラール・フィリップ映画祭」が行われますが、「窓辺にて」の稲垣吾郎はとても儚げで美しく、まるで和製ジェラール・フィリップみたいでした。
稲垣稲垣吾郎が演じる主人公の茂巳は、妻が不倫をしても少しもショックを受けず、悲しくも苦しくもなく、逆にその事実にショックを受けます。でも、彼はけっして妻を含めて他人に無関心の冷たい人間なのではなく、他人の気持ちに配慮しすぎる温かい人間なのだと思います。彼の愛情は、情愛や恋愛や夫婦愛さえも超越した隣人愛とも呼ぶべきもので、その意味では変人だと言えます。でも、「妻が不倫をしていることが悲しくない」自分に嫌悪感を抱く茂巳が、夫の不倫に苦悩する人妻を見て、「いいなあ、ちゃんと悲しめて」と言う場面があるのですが、これにはちょっとドキッとしました。グリーフケアの研究と実践を重ねていく上で、グリーフについて考える日々なのですが、悲しめない人がいるというのは意表を衝かれました。「いいなあ、悲しめて」は、ブログ「アニメ版『鬼滅の刃』」で紹介した作品の主題歌の歌詞にある「悲しみよ、ありがとう♪」以来のインパクトがありました。
悲しみの歌といえば、この映画にはブログ「Lemon」で紹介した大ヒットソングも登場します。玉城ティナ演じる女子高校生作家の久保留亜が彼氏と別れ話をした5時間の間、ずっと「Lemon」の「あの日の悲しみさえ、あの日の苦しみさえ♪」というフレーズがリピート再生され続けたというのです。それを聴いた稲垣吾郎演じる茂巳は、「それは辛かったねえ」と留亜に同情するのでした。わたしが「Lemon」を初めて聴いたのは、NHK「第69回紅白歌合戦」においてでしたが、まさに「グリーフケア・ソング」だと思ったのでした。この歌は、「愛する人を亡くした人」のための歌です。愛する人を亡くした人は誰でも、「Lemon」の冒頭の歌詞のように、「夢ならば、どれほどよかったでしょう」と思うはずです。また、「未だに、あなたのことを夢に見る」はずです。「戻らない幸せがあることを、最後にあなたが教えてくれた」とも思うでしょう。「今でも、あなたはわたしの光」という言葉も出てきますが、闇の中で光を見つける営みこそ「グリーフケア」ではないでしょうか。
玉城ティナ演じる久保留亜を見ていたら、一条真也の映画館「響―HIBIKI―」で紹介した2019年の日本映画を連想しました。マンガ大賞2017で大賞に輝いた、柳本光晴のコミック『響~小説家になる方法~』を実写化した作品で、監督は月川翔、主演は元欅坂46(現在は桜坂46)の絶対エースだった平手友梨奈です。突如として文学界に現れた、鮎喰響(平手友梨奈)という15歳の少女。彼女から作品を送られた出版社の文芸編集部の編集者・花井ふみ(北川景子)は、彼女の名を知らしめようと奔走する。やがて響の作品や言動が、有名作家を父に持ち自身も小説家を目指す高校生の祖父江凛夏(アヤカ・ウィルソン)、栄光にすがる作家、スクープ獲得に固執する記者に、自身を見つめ直すきっかけを与えていくようになるのでした。女子高生作家としてのたたずまいは、響も留亜も似ていました。というより、留亜のモデルはきっと響では?
主演の稲垣吾郎は相変わらず素晴らしい演技力でした。小説家という役柄は、やはり彼が主演した一条真也の映画館「ばるぼら」で紹介した2020年の日本映画と同じでした。「ばるぼら」は、1973年から1974年に『ビッグコミック』で連載された手塚治虫の異色作を映画化したものです。監督は手塚治虫の息子の手塚眞で、謎めいた少女と暮らす小説家の行く末を描きます。作家として活躍する美倉洋介(稲垣吾郎)は新宿駅の片隅で、ばるぼらという酩酊状態の少女(二階堂ふみ)と遭遇します。洋介は、見た目がホームレスのような彼女を自宅に連れて帰ります。だらしなく常に酒を飲んでいる彼女に呆れながらも、洋介は彼女の不思議な魅力に惹かれていきます。何より、彼女と一緒にいると新しい小説を書く意欲が湧くのでした。作家に限らず、稲垣吾郎は繊細なクリエイターやアーティストの役が似合いますね。
最後に、映画「窓辺にて」には2組の不倫カップルが登場します。わたしは、アメリカの人類学者であるヘレン・E・フィッシャーが書いた『愛はなぜ終わるのか』という本の内容を思い出しました。愛は4年で終わるのが自然であり、不倫も、離婚・再婚をくりかえすことも、生物学的には自然だと説く衝撃の書です。フィッシャーによれば、不倫は一夫一妻制につきものであり、男も女も性的に多様な相手を求め、結婚を繰り返すことは生物学的な人間性に合致しているといいます。事実、世界の多くの国々で、離婚のピークは結婚4年目にあるそうですが、この4年という数字の秘密を狩猟採集時代にまで遡って解明します。
『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)
同書の内容は拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)でも詳しく紹介しましたが、このような現状は、人類の進化の過程に合致するものだとか。もっとも、社会的・文化的な変容はあり、狩猟社会から鋤で耕す農耕社会になってからは女性が男性に従属するなど、イレギュラーなことはありましたが、工業社会になってから女性が働くようになったので、以前のような状況になっているというのです。不倫はいけないこととは思われていても、この世からなくなることはありません。なぜなら、現在の結婚相手と真の意味での「結魂」を果たしているとは限らないからです。人は誰でも運命の「ソウルメイト」がいるというのが、わが恋愛観です。「本当の理想の相手とは?」について考える上でも「窓辺にて」は興味深い映画でした。