No.666


 1月21日の夜、リバーウォーク北九州内のT‐JOYで日本映画「そして僕は途方に暮れる」を観ました。自堕落な日々を過ごすフリーターが、あらゆる人間関係を断ち切っていった結果、思わぬ結末を迎える物語です。学生時代に好きだったJ‐POPが主題歌と知って、なんとなく観たのですが、すごく面白かったです!
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「映画化もされた『愛の渦』などで知られる三浦大輔が作・演出、アイドルグループ『Kis‐My‐Ft2』の藤ヶ谷太輔主演により2018年に上演された舞台を、三浦自身が映画化。ささいなきっかけから恋人や親友、家族などあらゆる人間関係を断ち切ろうとする青年の逃避行を描く。主演の藤ヶ谷をはじめ、前田敦子と中尾明慶が舞台版から続投し、映画版新キャストとして『純平、考え直せ』などの毎熊克哉と野村周平、『深呼吸の必要』などの香里奈、『百花』などの原田美枝子、『今度は愛妻家』などの豊川悦司らが出演する」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「自堕落な生活を送るフリーターの菅原裕一(藤ヶ谷太輔)は、長年共に暮らしている恋人・鈴木里美(前田敦子)とふとしたことで口論になり、話し合うこともせず家を飛び出してしまう。それ以来親友、学生時代の先輩や後輩、姉、母のもとを渡り歩く彼は、気まずくなるとそこから逃げ出し、あらゆる人間関係から逃げ続けていく。行き場をなくして途方に暮れる裕一は、かつて家族から逃げた父・浩二(豊川悦司)と10年ぶりに再会する」
 
 この映画の主人公・菅原裕一(藤ヶ谷太輔)は、絵に描いたようなクズ男です。それはもう、観ていてイライラするのを通り越して笑ってしまうほどのクズっぷり。この男に対して、恋人が怒る理由も、親友が怒る理由もよくわかります。姉や母はそれなりにクセがあって、裕一が逃げたくなる理由も少しは理解できますが、とにかく、すべては彼自身が悪い。悪いところはたくさんありますが、何よりも迷惑をかけた相手に対して「ごめんなさい」と、お世話になった相手に対して「ありがとう」が言えないことがよくないですね。「ごめんなさい」は謝罪の言葉、「ありがとう」は感謝の言葉、ともに一字にすれば「謝」ですが、人間が生きていく上で最も大切な言葉です。
人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)
 
 
 
「ごめんなさい」や「ありがとう」だけでなく、裕一は挨拶というものが苦手です。拙著『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)にも書いたように、挨拶は人間関係の要です。人は一人では生きられません。「人間」の文字そのものに、人の・あいだ・で生きる存在と示されています。人は必ず社会の中で他人と交わらなくてはならないです。そこで「人間関係」が非常に重要になってきます。人間関係において、挨拶ほど大切なものはありません。「こんにちは」などの挨拶によって、初対面の人も心を開きます。沖縄では「めんそーれ」という古くからの挨拶言葉が今でも使われています。「めんそーれ」は「かなみ」とも言われますが、これは挨拶が人間関係の要(かなめ)であることを意味します。挨拶が上手な人を「かなみぞうじ」と言い、「かなみかきゆん」は「挨拶を欠かさない」「義理を欠かさない」という意味だそうです。まさしく挨拶は人間関係の要なのですね。
 
 裕一は困った事態になると、すぐ逃げます。逃げた先でまた困った事態になると、さらに逃げます。本当に筋金入りのクズなのですが、そんな彼が北海道・苫小牧の実家から逃げ出して雪が降る中をベンチに座っていたら、豊川悦司演じる父親の浩二に10年ぶりに再会します。この父親がまたクズ親父で、「この親にして、この子あり」といった感じです。自分が住むボロ・アパートに転がり込んだ裕一に対して、浩二は「お前に言っておく。いいか、逃げて、逃げて、逃げ続けろ。それで、どうしようもなく怖くなったら、映画の主人公にでもなったつもりで、こう思うんだ。『面白くなってきやがったぜ』って。これで、すべてが解決する」とアドバイスするのですが、これはなかなかの名言だと思いました。
 
 この映画の主題歌である「そして僕は途方に暮れる」がヒットした1984年、"ニューアカの旗手"として知られた浅田彰氏の『逃走論』(勁草書房)という本がベストセラーになりました。「逃げろよ、逃げろ!」というメッセージの理論武装をした思想書でしたが、浩二の発言を聴いていて、この本の内容を思い出しました。『逃走論』は、「パラノ人間」から「スキゾ人間」へ、「住む文明」から「逃げる文明」への大転換の中で、軽やかに「知」と戯れるためのマニュアルとして注目を集めました。「パラノ」や「スキゾ」といった用語は、フランスの思想家であるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイエディプス』のなかで用いられ、これをバブル直前の1984年に浅田氏が『逃走論』の中で紹介したことがきっかけで流行し、その年の流行語大賞の銅賞にも選ばれました。浅田氏は「パラノ型」を「住むヒト」と定義し、「スキゾ型」を「逃げる人」と定義しました。すなわち張り巡らされたリゾームの中を縦横無尽に逃走するイメージです。スキゾ型はともすれば軟弱とか軽薄とかいったイメージで捉えられがちですが、「しなやかな感性と決断力を持った人」として捉えられたのです。
 
 浅田氏の『逃走論』は映画「そして僕は途方に暮れる」の裕一のように居心地の悪い状況から実際に逃げ出すわけではなくて、あくまでも知的行為だと言えるでしょう。(『逃走論』の発表から40年後の現在から見ると、著者の浅田氏は京大アカデミズムの中にずっと定住し続けているパラノ人間のように思えて仕方ないのですが)。映画に話を戻すと、裕一がいくら逃げても解決策にはなりません。どれだけ逃げても、逃げても、その先に安住の地などはないのです。最後は裕一も逃げずに、迷惑と心配をかけ続けた恋人、親友、姉、母と向き合い、土下座して泣きながら「ごめんなさい」と言います。息子である裕一から「あんたのような人間にだけはなりたくない」とまで言われたクズ中のクズである浩二も、大晦日に家族のもとに帰ります。10年ぶりに家族4人が揃い、みんなで年越しソバを食べて(浩二と裕一はカップ麺でしたが、年が明けて、みんなで「あけまして、おめでとうございます!」と言い合う場面は感動的で、泣けました。
 
 しかし、その感動も束の間。映画はそこで「THE END」とはなりませんでした。その後に、北海道から東京に戻った裕一に対して、前田敦子演じる恋人の里美から衝撃の告白をされます。その内容については、わたしは想像はついていましたが、人生を元通りに修復したいと願っていた裕一にとっては大変なショックな出来事でした。わたしは、前田敦子という女優について「演技が上手いのか下手なのかわからない」と思っていましたが、この告白シーンは迫真の演技でした。そして、映画全編を通して藤ヶ谷太輔の演技力が光りました。鼻水を垂らしながら号泣するというアイドルらしくないシーンには、彼の役者魂を感じましたね。それにしても、ジャニーズ事務所にはどうしてこんなに名優が揃っているのでしょうか。木村拓哉、岡田准一、二宮和也、そして最近では目黒蓮......本当に、みんな素晴らしい役者です。藤ヶ谷太輔も含めて、一度、ジャニーズ名優総出演の映画を観たいですね!
 
 本作のエンディングでは、1984年に大ヒットを記録した伝説の楽曲「そして僕は途方に暮れる」を大澤誉志幸本人が映画のための新アレンジで歌唱、この物語の余韻を心に刻みます。わたしは、詩人の銀色夏生が作詞したこの歌が大好きで、学生時代はよくカラオケで歌いました。大澤の5枚目のシングルですが、彼を代表するヒット曲となりました。その後も数多くのアーティストにカバーされています。オリコンチャートの最高順位は週間6位、累計28万2000枚のセールスを記録しています。大澤によると、もともと、この曲は「凍てついたラリー」というタイトルで、他の歌手へ提供する目的で作られた曲でした。最初は鈴木ヒロミツ、その後に鈴木雅之、山下久美子にそれぞれこの曲が一旦提供されましたが、いずれもこの曲を歌う気配が一向に無く、その度に大澤の元へこの曲が戻され、最終的に銀色夏生の詞と組み合わせて、大澤自身が歌うことになったのでした。
 
 プロデューサーの木崎賢治によると、この「そして僕は途方に暮れる」は、先に作った詞にメロディを付ける、いわゆる詞先で作られた楽曲だそうです。EPICソニーのプロデューサーの小坂洋二から銀色夏生を紹介され、大澤も銀色の独特な詞の世界を気に入ったため、当時大澤の楽曲の殆どを作詞するようになっていた銀色が、「そして僕は途方に暮れる」というタイトルで一度詞を書いたものの、大澤がうまく曲を付けられないまま保留となっていたとか。しかし、木崎はこのタイトルをすごく気に入っており、ずっと気になっていた詞だったため、アルバム制作中に大澤が曲作りに行き詰まった際、「凍てついたラリー」の最後の部分に、"そして僕は途方に暮れる"というフレーズがピッタリ入ることに木崎が気づいて、この曲に合わせて銀色が詞を書き直し、さらに大澤が大サビのメロディを書き足して最終形となったそうです。大澤自身もこの曲について、とても好きな曲だと述べています。1984年発売のシングルは当時、日清カップヌードルのCMソングに起用されて話題になりました。なつかしいですね!