No.667


 4月から新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが季節型インフルエンザと同じ5類に引き下げられ、屋内でのマスクも義務化されなくなりそうです。緊急事態宣言だった時代がすっかり過去のものとなりましたが、1月22日の日曜日、シネプレックス小倉で韓国映画「非常宣言」を観ました。イ・ビョンホンとソン・ガンホの韓国二大スター共演のこのパニック大作に非常に感動しました。わたしのための映画だとも思いました。なにしろ、この映画のオープニングとラストは「隣人祭り」のシーンなのです。また、最後にはドビュッシーの「月の光」が流れるのです!
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「2人の男性が大切な人を守るために奮闘する姿を描くパニックドラマ。妻が乗った便がバイオテロの攻撃を受けたことを知った刑事と、その便に乗り合わせた乗客が、テロを何とか食い止めようとする。監督などを務めるのは『ザ・キング』などのハン・ジェリム。『ベイビー・ブローカー』などのソン・ガンホ、『KCIA 南山の部長たち』などのイ・ビョンホンのほか、チョン・ドヨン、キム・ナムギル、イム・シワンらが出演する」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「娘とハワイに向かう飛行機恐怖症のジェイ・ヒョク(イ・ビョンホン)は、空港で自分たちにつきまとっていた若い男性(イム・シワン)が、同じ便に乗っていることに不安を覚える。飛行機が離陸して間もなく乗客の男性が死亡したことをきっかけに、乗客たちが次々と命を落としていく。一方、妻とのハワイ旅行をキャンセルした刑事のク・イノ(ソン・ガンホ)は、妻が乗った飛行機がバイオテロの標的になったことを知る」
 
「非常宣言」とは、飛行機が危機に直面し、通常の飛行が困難になったとき、パイロットが不時着などを要請することです。しかし、わたしたち日本人はどうしても「緊急事態宣言」を連想してしまいますね。コロナ禍の中で企画された作品かと思いきや、以外にもコロナ前から構想はあったそうです。しかし、このタイミングでの公開はリアリティがあってベストでしたね。最近の岸田首相の外遊ではマスクをしていない首相が自由に行動する姿がテレビに映し出されましたが、いよいよ今年4月から日本でも屋内マスクの義務化がなくなりそうです。しかし、わたしは4月以降も、また完全にコロナ終息の宣言が出されても、常にマスクだけは携帯しておこうと思います。もちろん、飛行機や新幹線に乗るときは必ず携帯します。映画「非常宣言」の中で何が一番怖かったかといえば、致死率の高いウイルスが機内に蔓延しているにもかかわらず、乗務員も乗客も誰1人としてマスクを着けていないことでした。
 
 ところで、昨年の一条賞(映画篇)の第1位(大賞)作品は、一条真也の映画館「トップガン マーヴェリック」で紹介したトム・クルーズの主演映画でした。戦闘機の飛行シーンが迫力満点のヒューマンドラマでしたが、本作「非常宣言」の旅客機の飛行シーンはそれに勝るとも劣らないド迫力でした。考えてみれば、戦闘機は1人乗りですが、旅客機は多くの乗客の生命を預かっています。パイロットが抱くストレスや責任感は旅客機の方が上かもしれません。その旅客機を乗っとるハイジャックを描いた映画は無数にありますが、「非常宣言」に登場する航空機はテロリストによってバイオテロに遭います。昔ならバイオテロなどSFの世界の話でしたが、日本人は1995年の「地下鉄サリン事件」で日常の中で現実に起こり得るバイオテロの恐怖を身に沁みて知っています。ましてや、そこで使われるのが致死率の高い未知のウイルスとあれば、いまだ世界がコロナ禍の中にある現在、恐怖の度合いは高まります。
 
 YouTubeにアップされた「非常宣言」の本編映像は、操縦不能になった飛行機が墜落していくシーンを収めています。犯人によってまかれたウイルスに操縦士が感染し、操縦不能となった機体は地上に向かって、旋回しながら急降下していきます。機内では、悲鳴が響き渡る中、天井に打ちつけられる乗客たち。機体の高度は下がり続け、着々と地上へと近づいて行きます。その後、本物の飛行機を使ってセットを作り上げたという、墜落シーンの撮影の裏側を収めたメイキングが映し出されます。実際の旅客機の機体に回転台を搭載した電動装置を設置し、機体を360度回転させるという韓国映画初の試みで撮影が行われたそうです。さらに、現職のパイロットを招き、セットのディテールを強化。飛行情報を入力するモニターの色味などかなり細かい部分まで実際のモデルを再現しているとか。手持ちカメラによる撮影手法で没入感と臨場感も作り出しており、ハン・ジェリム監督は「観客にこれは映画だと思って観てもらうのではなく、本当に飛行機に乗っているような気分になって映画を観てほしかった。それが手持ちカメラを選んだ理由だ」と語っています。
 
 バイオテロで攻撃された韓国機は、最初はサンフランシスコ空港に着陸を試みますが、アメリカに拒否されます。次に成田国際空港に着陸しようとしますが、日本にも拒否されます。これを観たとき「反日映画か?」と思い、少し嫌な気分になりました。もちろん自国の国民の安全のためには受け入れの可否は賛否あるものの、日本ならダイヤモンドプリンセス号のケースのように受け入れるのではないかと思います。少なくとも、市街地上空で日本の自衛隊機が民間機に威嚇射撃したり、撃墜しようとしたりするなど有り得ないですね。しかし、韓国側は「日本の言い分も分からなくない」と責めていませんでした。それどころか、韓国でさえ着陸を拒否する人々が大半だったのです。ついには「着陸反対!」のプラカードを掲げたデモ隊が韓国中の空港に出現する始末。「デモ隊って、そんな数時間で組織できるの?」とツッコミたくなりましたが、母国の冷たい反応を知った機内の乗客たちは、「家族に感染させたくない」と思い始め、「着陸しなくていい」と言い出します。それを受けたパイロットのジェイ・ヒョク(イ・ビョンホン)は「着陸しない」と地上に宣言するのでした。
 
 死を覚悟した乗客たちは、スマホで家族にテレビ電話をかけ、最後のメッセージを伝えます。娘に連絡した母親は「愛してるよ、幸せになって」と言い、祖母に連絡した女子学生は「おばあちゃん、いつもご飯を作ってくれたのに『まずい』なんて言って、本当にごめんなさい。もう一度、おばあちゃんのご飯が食べたいよ」と泣きながら伝えます。これを見て、わたしの涙腺は崩壊しました。家族を大切にする彼らの姿を見て、わたしは韓国に今も生きている儒教の精神性を感じました。そして、1985年8月12日に日本航空123便が群馬県多野郡上野村の山中ヘ墜落した航空事故を思い出しました。520名もの人命が奪われたこの事故では、墜落する最中、多くの乗客たちが家族へのメッセージを手書きのメモに残しました。現在ならスマホでテレビ電話もできるし、LINEもできますが、当時は手書きのメモを残すしか方法がなかったのです。
 
「非常宣言」では、機内で脅える女子高生たちも登場します。数人で身を寄せ合って泣きながら死の恐怖と戦う彼女たちの姿を見ながら、わたしは、韓国のセウォル号沈没事故を思い出しました。2014年4月16日朝、修学旅行中の高校生325人を含む一般の乗客と船員、計476人を乗せたセウォル号が海に沈みました。この事故は、乗客・乗員の死者299人、行方不明者5人、捜索作業員の死者8人を出し、韓国の海難史上最悪の惨事と言われています。事故原因については船体の故障や検査制度の不備、不適切な改造、過積載などが挙げられていますが、事故発生後の救助体制についても乗員や海洋警察の過失が問われています。本来は救助可能な事故であるにもかかわらず、多くの人命を失った悲劇でしたが、ひたすら船内で死の恐怖と戦い、最後はそのまま死ななければならなかった高校生たちの絶望と無念を思うと、今でも泣けてきます。わたしは、「非常宣言」に登場する女子高生たちと彼らの姿が重なって仕方ありませんでした。
 
「非常宣言」は、韓国映画です。これまで航空機の運航をベースとしたサスペンスなどの映画はハリウッド映画の独壇場でした。思いつく映画は多々ありますが、一条真也の映画館「ハドソン川の奇跡」で紹介した映画もその1つです。今やハリウッドの至高の存在となったクリント・イーストウッド監督の名作で、2016年に公開されました。2009年に実際に起こった「USエアウェイズ1549便不時着水事故」の真相を追ったドキュメンタリータッチの映画です。故障した航空機を米ニューヨークのハドソン川に無事着水させた出来事と、操縦していたサレンバーガー元機長のその後を描いています。ただ、この映画には一部フィクションがありました。事故後、トム・ハンクス演じるサレンバーガー機長が聴聞会にかけられ、激しい追及を受けるシーンです。実際には、米国では意図的な犯罪行為でない限り、パイロットの緊急的な操縦に対して罪を問うことはありません。監督のクリント・イーストウッドが映画的な盛り上がり(善人と悪人が必要)のために、サレンバーガー元機長に許可を取って演出したといいます。
 
 映画「非常宣言」の最後には、ドビュッシーの「月の光」が静かに流れました。そのままエンドロールでも流れました。「月の光」はわたしの大好きな曲で、拙著一条本は、『慈経 自由訳』(三五館)のPVでも使いました。映画のテーマになったバイオテロの「バイオ」とは生物、つまり「いのち」ということです。『慈経』とは「いのち」のお経であり、仏教の開祖であるブッダの本心が、シンプルかつダイレクトに語られた教えです。ブッダは、人間が浄らかな高い心を得るために、すべての生命の安楽を念じる「慈しみ」の心を最重視しました。8月の満月の夜、月の光の下、『慈経』を弟子たちに説いたといわれています。数多くある仏教の諸聖典のうちでも、『慈経』は最古にして最重要なお経とされています。

慈経 自由訳』(三五館)
 
 
 
『慈経』で、ブッダは、すべての生きとし生けるものに対して「安らかであれ、幸せであれ」と言いました。「慈しみ」すなわち慈悲の心は英語で「コンパッション」と訳されます。映画「非常宣言」では、憎悪や差別や敵意をはじめ、さまざまな人間の負の感情も描かれましたが、慈悲や家族愛や友愛に代表される「コンパッション」も描かれました。そして、「コンパッション」は隣人愛にも通じます。映画の冒頭とラストシーンには、韓国の隣人祭りのシーンがあります。ラストの隣人祭りでは、ともに多くの人命を救ったイ・ビョンホン演じるジェイ・ヒョクとソン・ガンホ演じる刑事のク・イノが初対面を果たします。わたしは、深い感動をおぼえました。このような素晴らしい感動作を作れる韓国映画界は本当に凄いと思いました。迷うことなく、今年の一条賞の候補にしたいと思います。