No.681
ヒューマントラストシネマ有楽町でフランス映画「すべてうまくいきますように」をレイトショーで観ました。安楽死という重いテーマを扱いながらも、フランス映画の洒脱さや上品さを漂わせる佳作でした。
ヤフー映画の「解説」には、「『まぼろし』などのフランソワ・オゾン監督が、安楽死を巡る父と娘の葛藤を描く人間ドラマ。『スイミング・プール』などで同監督と組んだ脚本家エマニュエル・ベルネイムによる小説を原作に、人生の意味や家族の愛を問いかける。娘を『ラ・ブーム』シリーズなどのソフィー・マルソー、父を『恋するシャンソン』などのアンドレ・デュソリエが演じるほか、オゾン監督作『17歳』にも出演したジェラルディーヌ・ペラスとシャーロット・ランプリング、『マリア・ブラウンの結婚』などのハンナ・シグラらが共演する」とあります。
ヤフー映画の「あらすじ」は、「人生を謳歌していた85歳のアンドレ(アンドレ・デュソリエ)は脳卒中で倒れて体が不自由になり、娘のエマニュエル(ソフィー・マルソー)に人生を終わらせる手助けをしてほしいと頼む。戸惑う彼女は父の考えが変わることを期待しつつも、合法的な安楽死を支援するスイスの協会と連絡を取り合う。一方、リハビリによって順調に回復するアンドレは積極的に日々を楽しみ、生きる希望を取り戻したかのようだった。しかし、彼は自ら定めた最期の日を娘たちに告げ、娘たちは葛藤しながらも父の決断を尊重しようとする」です。
わたしが、この重いテーマの映画を夜遅い時間に観ようと思ったのは、なによりも主演がソフィー・マルソーだったからです。1980年、14歳だった彼女が「ラ・ブーム」で主役デビューしたとき、わたしは高校生でしたが、一発で彼女の魅力の虜になりました。それ以来、彼女の主演作はほとんど観てきました。「ブレイブハート」(1995年)や「ルーヴルの怪人」(2001年)も大好きな作品です。そんな彼女も56歳となり、高校生だったわたしは還暦を迎えるまでに年月を重ねました。「フランス国民の婚約者」と呼ばれた彼女が、親の老いに直面するヒロインを演じる年齢となったことに感慨をおぼえながらも、それでも美しい彼女に感動している自分がいました。
ソフィー・マルソー演じるエマニュエルの母親役に、イギリスの大女優であるシャーロット・ランプリングが出演していることには驚きました。モデルとしてキャリアをスタートさせた彼女は、1965年の「ナック」で映画デビュー。「ジョージー・ガール」(1966年)で脚光を浴び、ルキノ・ビスコンティ監督の「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)を経て、リリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐」(1974年)で世界中の映画ファンにその存在を広く知られました。「愛の嵐」は元ナチス親衛隊員とゲットーに収容された美少女の愛欲を見事に表現しました。全裸同然のエロティックなコスチュームも大きな話題になりましたが、そんな彼女も77歳。「すべてうまくいきますように」では、ゲイである夫アンドレと長らく別居中の彫刻家の女性を演じていました。
それにしても、主人公エマニュエルの父親は画商、母親は彫刻家、夫は映画アーカイヴの運営者と...芸術関係者ばかり登場するだけあって、この映画には知的な空気が漂っています。それでも、テーマは安楽死。アンドレ・デュソリエが演じる頑固な画商の父親は、脳卒中を患い下半身が不自由になってしまいます。誇り高い彼は延命を望まず、安楽死を娘たちに訴えますが、フランスでは認められていませんでした。長女のエマニュエルは、合法的な安楽死を支援するスイスの協会と連絡を取り合って実行を計画しますが、スイスへの移動を計画していたまさにその夜、何者かの通報で警察沙汰になってしまいます。「死ぬことなんて考えないで」という周囲の説得の声に対して、「生きるのと延命は違う」と毅然と言い放つアンドレには、彼なりの生の「美学」というものを感じました。もしかしたら「美」を追求してきた画商という彼の職業も死生観に影響を与えたのかもしれません。
さて、安楽死を望むアンドレはゲイでしたが、この映画を監督したフランソワ・オゾンもゲイであることを公表しています。彼は55歳でソフィー・マルソーと同年代です。長く一線で活躍してきたフランスを代表する監督と女優でありながら、これまで一度も仕事をしたことがなかった2人でしたが、オゾンがマルソーに原作を送り、好感触を得てから脚本の執筆に着手したそうです。一緒に仕事ができる「最後のチャンス」かもしれないと感じながら、オゾンが満を持してオファーしたのがオゾン監督の盟友でもあった作家・脚本家の故エマニュエル・ベルンエイムが「父の安楽死」に奔走した体験を綴った小説『すべてうまくいきますように』の映画化でした。
スイスの安楽死団体が登場しますが、わたしはブログ「世界一キライなあなたに」で紹介した2016年に製作されたアメリカ・イギリス合作映画を連想しました。世界中で読まれているジョジョ・モイーズの恋愛小説『ミー・ビフォア・ユー きみと選んだ明日』を映画化。バイク事故で車いすの生活となり生きる気力をなくした青年実業家と、彼の介護に雇われた女性の切ない恋の行方を描いたラブストーリーです。主人公の女性をエミリア・クラーク、実業家をサム・クラフリンが演じています。「安楽死」という重いテーマをハートフルに描いたこの作品に、わたしは大変感動しました。拙著『心ゆたかな映画』(現代書林)の中で詳しく紹介しています。
わたしは、「世界一キライなあなたに」を観て、スイスの安楽死団体に強い興味を抱きました。スイスには、安楽死団体が2つあります。「エグジット(EXIT)」と「ディグニタス(DIGNITAS)」です。ともに「自殺幇助組織」などと呼ばれていますが、両団体には大きな違いがあります。エグジットはサービスがスイス国民限定なのに対して、ディグニタスではスイス国民以外にもサービスを提供しているという点です。そのため医師の厳正な審査を受けた上で、毎年100ほどの人々がこのサービスを受けて自らの命を絶っているそうです。Wikipedia「ディグニタス」の「概論」には、「同団体の書類審査に通れば医師やカウンセラーと複数回以上の面談を行い決定する。 クールダウンの時間を十分に取るように面接の間隔があいている。スイスの法律に認められた書類に署名する。致死薬投与の直前には最終の意思確認が行われ、考え直す時間が必要かどうか尋ねられ、最後まで自由意志で撤回も選択できるようにされている 」と書かれています。
「世界一キライなあなたに」には安楽死の具体的な描写は登場しません。しかし、ディグニタスの名前は実名で登場します。同団体についての知識をネットで得たわたしは、一条真也の映画館「ハッピーエンドの選び方」で紹介したイスラエル映画を思い出しました。第71回ベネチア国際映画祭ベニス・デイズBNL観客賞などを受賞した、人生の終盤に差し掛かった老人たちの最期の選択に迫るヒューマンドラマです。監督の実体験をベースに、命尽きる瞬間まで自分らしく生きようとする人々の姿を描いています。この映画のメインテーマも、やはり「安楽死」です。「人生の最期を選ぶ」という誰もが直面するテーマを、ユーモアを交えて軽快に描き、各国の映画祭で話題を呼びました。 老人ホームで暮らす発明好きの老人が、親友の願いで、自らスイッチを押して苦しまずに最期が迎えられる装置を開発したことからトラブルに巻き込まれていく姿が描かれます。この映画は、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で紹介しています。
『唯葬論』(三五館)
わたしはどうも「死」や「葬」の専門家として見られているらしく、よく「一条さんは安楽死や尊厳死についてどう思われますか?」などと質問されることが多いです。じつは尊厳死については肯定しているのですが、安楽死については今ひとつ割り切れない思いを抱いています。というのは、そこには人間をモノとみなし、死を操作の対象ととらえる思想が見え隠れするからです。現代の医療テクノロジーの背景には、臓器移植に代表されるように人間を操作可能なモノとみなす生命観があるわけですが、そうした生命観は患者の側も共有しているといるのではないでしょうか。現代の安楽死は、自らの命や身体は自分の意志で左右できる道具であるかのような価値観に根ざしており、わたしには違和感があります。そして、わたしは「死」よりも「葬」を最重要問題としてとらえています。拙著『唯葬論』(三五館)の帯にも「問われるべきは『死』ではなく『葬』である!」と書かれています。
「葬」をテーマにした映画といえば、一条真也の映画館「サウルの息子」で紹介した映画が忘れられません。この映画も、『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で紹介しました。第68回カンヌ国際映画祭にてグランプリである「パルムドール」に輝いた名作です。強制収容所で仲間たちの死体処理を請け負うユダヤ人の主人公が、息子と思われる少年をユダヤ人として正しい儀式で弔うために収容所内を駆けずり回る2日間を描いています。わたしは、この映画を「すべてうまくいきますように」と同じヒューマントラストシネマのシアター1で観ました。しかも、両作品を鑑賞した席まで同じでした。「すべてうまくいきますように」で、アンドレが死後の葬儀や埋葬について問われるシーンがあります。彼は「儀式にはこだわらなくていい。ただ、ユダヤ教のやり方にだけは従ってほしい」と言いますが、それは「ユダヤ教の儀式の通りにやってくれ」という意味にほかなりません。また、なんとかパリを脱出してベルンに到着したアンドレがイスラム教徒である救急車の運転手から「死ぬなんてダメだ。自分はムスリムだから認められない」と言われ、閉口する場面がありました。
ユダヤ教も、イスラム教もルーツは同じです。拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)で詳しく説明したように、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三大一神教は同じ神を崇拝する三姉妹のような存在です。イスラム教もそうですが、キリスト教でも安楽死を認めません。一条真也の読書館『自死』で紹介した本では、「『自死』に冷淡な宗教」として、カトリックが取り上げられます。著者の瀬川正仁氏は、「693年のトレドの宗教会議で、『自死者はカトリック教会から破門する』という宣言がなされ、『自死』が公式に否定されたのだ。さらに名教皇といわれた聖トマス・アクィナスが、『自死は生と死を司る神の権限を侵す罪である』と規定したことで、『自死=悪』という解釈が定まったといわれている。その結果、自死者は教会の墓地に埋葬してもらえないという時代が長く続いた」と述べています。「すべてうまくいきますように」で警察まで出てくるほどフランスという国家が安楽死を認めないのは、フランスがカトリックの国だからです。
上智大学での特別講義のようす
カトリックといえば、日本における総本山が上智大学です。ブログ「上智大グリーフケア講義」で紹介したように、「世界一キライなあなたに」や「サウルの息子」を観た2016年の7月20日、わたしは上智大学グリーフケア研究所で特別講義を行いました。わたしは、そこでカトリックが自死者を否定していることを取り上げました。しかし、自死はけっして「自ら選んだ」わけではなく、魔や薬のせいという要素も強いと言えます。ただでさえ、自ら命を絶つという過酷な運命をたどった人間に対して「地獄に堕ちる」と蔑んだり、差別戒名をつけたりするのは、わたしには理解できません。それでは遺族はさらに絶望するというセカンド・レイプのような目に遭いますし、なによりも宗教とは人間を救済するものではないでしょうか。「すべてうまくいきますように」を観ながら、わたしはあのときの特別講義を思い出していました。