No.704
4月14日から公開されている映画「聖地には蜘蛛が巣を張る」を観ました。デンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランス合作映画です。4ヵ国の合作というのは珍しいですね。しかも舞台はヨーロッパではなく、イラン。サスペンス映画ですが、社会派の要素もあって面白かったです。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「2000年から2001年にかけてイラン社会を震撼させた連続殺人事件を題材にしたクライムサスペンス。不条理な圧力と身の危険を感じながらも、事件の真相を追うジャーナリストの苦悩を描く。監督・脚本はカンヌ国際映画祭ある視点部門グランプリを獲得した『ボーダー 二つの世界』などのアリ・アッバシ。主人公を演じたザール・アミール=エブラヒミが同映画祭女優賞を受賞したほか、メフディ・バジェスタニらが出演する」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「イランの聖地マシュハドで売春婦連続殺人事件が発生する。『街を浄化する』という信念のもと、犯行を重ねる殺人鬼"スパイダー・キラー"に人々は恐怖を抱く一方で、犯人を英雄視する市民も少なからずいた。そんな中、事件を覆い隠そうとする圧力を受けながらも、女性ジャーナリストのラヒミ(ザール・アミール=エブラヒミ)は臆することなく事件を追い始める。ある夜、彼女は家族と暮らす平凡な男の狂気を目の当たりにする」
イスラム教の女性たちが髪や顔をヴェールなどで隠すことは有名ですが、この映画を観て、「イスラムの聖地では、ここまで女性の尊厳はないのか!」と驚き、暗澹たる気分になりました。イラン第2の都市であり、聖地として知られるマシュハドで、身の毛もよだつ連続殺人事件が起きます。被害者はすべて娼婦でした。ここで観客の多くは、世界史上でよく知られた連続殺人鬼を連想することでしょう。そう、 "切り裂きジャック"です。1888年、ロンドンの貧民窟バックス・ロウで発生した、売春婦を狙った猟奇殺人事件の犯人の呼び名です。5人の被害者を出した後、プッツリと犯行も途絶え、真犯人はわからないままにスコットランドヤードの伝説となりました。
"切り裂きジャック"の映画は亜流を含めて山ほど作られていますが、わたしはアメリカ・オーストラリア合作映画の「ジャック・ザ・リッパー」(1999年)を連想しました。なぜなら、女性記者が犯人にたどり着こうとする展開が「聖地には蜘蛛が巣を張る」と同じだからです。19世紀末の退廃にまみれた世紀末のロンドンを舞台に、娼婦の連続殺人事件が起こります。新聞社に勤めるキャサリンは"切り裂きジャック"の正体を探るべく事件の真相に迫っていくのでした。女性記者という設定は同じでも、「聖地には蜘蛛が巣を張る」のラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)の方がジャーナリストとして立派でしたが。というのも、彼女はシングルマザーで生活に困窮していたゆえに娼婦をせざるをえなかった被害者たちに同情し、彼女たちの無念を晴らすべく真犯人を突き止めるのです。
また、「聖地には蜘蛛が巣を張る」の"スパイダー・キラー"の殺人方法が娼婦のスカーフを使って首を締めるというところから、"サスペンスの神様"と呼ばれたアルフレッド・ヒッチコック監督のイギリス映画「フレンジー」(1972年)も連想しました。原作はアーサー・ラ・バーンの同名小説です。この物語には、ネクタイを使って絞殺する連続殺人鬼が登場するのです。舞台はロンドン。かつて空軍で英雄だったが現在はうらぶれた生活を送っているリチャード・ブレイニーは、離婚した妻のブレンダが絞殺される直前に会っていたため、ネクタイを使った連続殺人の容疑者として追われることになる。しかし犯人はブレイニーの友人ラスクでした。犯行の様子がかなり丹念に描写される点に加えて、わりと早く真犯人が判明する点も「フレンジー」と「聖地には蜘蛛が巣を張る」は似ています。今作の犯人は、建築業に従事するサイード(メフディ・バジェスタニ)でした。
主演のザーラ・アミール・エブラヒミは、1981年テヘラン生まれで、綺麗な女優さんでした。「聖地には蜘蛛が巣を張る」は、ブログ「search/#サーチ2」の鑑賞後に観たのですが、直前に観た作品がまさにポリコレ映画でヒロインがあまり美人ではなかった(失礼!)ので、エブラヒミの美しさには魅了されました。彼女は、本作でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞しています。「GQ」の映画解説記事で、翻訳者で映画評論家の篠儀直子氏は、「真実を探り、正義を求めるラヒミもまた、性差別の壁に何度もはばまれる。ラヒミを傷めつけているものと、娼婦たちを悲惨な状況に追いこんでいるものとは同根なのであり、ラヒミは間違いなくそのことを知っている。何度心を引き裂かれようと、身の危険にさえさらされようと、ラヒミがひるまず突きすすんでいくのはそれゆえだ」と述べます。
エブラヒミは現在フランス在住。人気女優でしたが、性的なスキャンダルに巻き込まれたそうです。そして、被害者の立場でありながらイランを離れざるをえなくなったといいます。篠儀氏は、「ハラスメントの被害者であるのに職場を追われたという過去を持つラヒミには、エブラヒミ自身の姿も重ねられているのだろう」と述べています。殺人シーンも残虐ですし、露骨なミソジニー(女性嫌悪)の描写も多いし、非常に胸糞の悪い映画なのですが、本当の胸糞の悪さは、サイードが逮捕されてからでした。娼婦を社会の害悪として駆除したサイードを「イスラム法を守った英雄」として見る人々が男女問わずに続々と現れるのです。彼らは、「サイードは街を浄化していたのだ」と訴え、なんと、16人も殺害したサイードの無罪を主張するのでした。かくして殺された女性たちは、死後もその尊厳を奪われ続け、スクリーンを観ていたわたしの心の底から怒りがこみ上げましたが、ラストの意外な展開には救われた思いがしました。
『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』
しかし、イスラム教徒の全員がサイードのように考えるわけではありません。実際この映画に登場する法律家は、敬虔なムスリムでありつつも、「売春は個人の責任ではなく社会問題なのだ」と正しく認識していました。彼は、人命を等しく尊重し、法に基づいて判断しようとしたのです。拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)に書いたように、イスラム教の開祖であるムハンマドは、もともと男女平等思想の持ち主でした。彼は生涯の間に、男女の平等を含み込んでいきました。今日の西洋では、イスラムをもともと女嫌いの宗教として描くことが多いですが、アッラーの宗教は元来、キリスト教と同様に女性に対して肯定的であったのです。イスラム以前の時代を意味する「ジャーヒリヤー」の間、アラビアでは一夫多妻制が普通で、妻たちは彼女らの父の家に留まりました。ムハンマドの最初の妻ハディージャが商人として成功していたように、エリートの女性はかなりの力と威信を教授していましたが、大多数の女性は奴隷に等しかったのです。
『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)
また、拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)の「ムハンマド」の章に書きましたが、ムハンマドは明らかに女性が安心して生きられる社会づくりを目指していました。当時の女性たちは政治的権利も人権も持っておらず、女の嬰児殺しは普通でした。ムハンマドの最初の改宗者の中には女性もいましたし、彼は女性の解放をいつも心がけていました。イスラム教の聖典である『コーラン』は女児殺しを厳しく禁じていますし、女児が生まれたときにアラブ人が困惑することを叱っています。『コーラン』はまた、女性に遺産相続と離婚の権利を与えています。西洋のたいていの女性は、19世紀に至るまで、それと比べられるものは与えられてませんでした。まさに当時の世界では類を見ない女性尊重の思想です。ムハンマドは、女性がウンマにおいて活動的な役割を果たすように励ましましたし、彼女たちは自分の意見を率直に表明しました。自分たちの言い分が聞き届けられると確信していたからです。