No.708


 5月5日の「こどもの日」、この日から公開の日本映画「銀河鉄道の父」をシネプレックス小倉で観ました。一条真也の読書館『銀河鉄道の父』で紹介した小説の映画化ですが、予想通りに感動してしまい、持参のタオルハンカチを濡らしました。劇場はほぼ満員で、高齢の観客が多かったですね。観終わってスマホの電源を入れたら、石川県で最大震度6強を観測する強い地震があったことを知り、驚きました。わが社の社員や施設にはほとんど被害はありませんでした。
 
 ヤフー映画の「解説」には、「第158回直木賞を受賞した門井慶喜の小説を実写化したドラマ。息子の宮沢賢治を支えた父・政次郎の姿を描く。メガホンを取るのは『いのちの停車場』などの成島出。『ファミリア』などでも成島監督と組んでいる役所広司、『百花』などの菅田将暉、『ライアー×ライアー』などの森七菜のほか、豊田裕大、坂井真紀、田中泯らが出演する」と書かれています。
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「宮沢政次郎(役所広司)は、待望だった長男・賢治(菅田将暉)の誕生を喜び、彼に家業の質屋を継いでほしいと願っていた。だが賢治は、農業、人造宝石、宗教などに没頭して政次郎の願いを聞き入れようとしない。政次郎が家業を顧みない賢治に激高する一方、賢治が物語を書くことを楽しみにしていた妹のトシ(森七菜)が病に倒れ、賢治は『風の又三郎』と題した自作の童話をトシに読み聞かせるが、彼女は亡くなってしまう。打ちひしがれる賢治に、政次郎は物語を書き続けるよう促す」
 
 原作は2017年に出版され、わたしも読みました。同書のアマゾン「内容紹介」には、「明治29年(1896年)、岩手県花巻に生まれた宮沢賢治は、昭和8年(1933年)に亡くなるまで、主に東京と花巻を行き来しながら多数の詩や童話を創作した。賢治の生家は祖父の代から富裕な質屋であり、長男である彼は本来なら家を継ぐ立場だが、賢治は学問の道を進み、後には教師や技師として地元に貢献しながら、創作に情熱を注ぎ続けた。地元の名士であり、熱心な浄土真宗信者でもあった賢治の父・政次郎は、このユニークな息子をいかに育て上げたのか。父の信念とは異なる信仰への目覚めや最愛の妹トシとの死別など、決して長くはないが紆余曲折に満ちた宮沢賢治の生涯を、父・政次郎の視点から描く、気鋭作家の意欲作」と書かれています。

「サンデー新聞」2017年12月2日号
 
 
 
 わたしは原作小説を読んだとき、非常に感動しました。当ブログに書評を書いただけでなく、「サンデー新聞」に連載中の「ハートフル・ブックス」にも取り上げました。『心ゆたかな読書』(現代書林)にも収録されています。『銀河鉄道の父』を読んで、わたしは宮沢政次郎・賢治父子の姿を、わたしと父の姿に自然と重ねました。賢治と政次郎のように、わたしも父と意見が対立することが多々ありました。特に、わたしの執筆活動のことで何度か口論となりました。もともと「一条真也」をプロデュースしたのは父であり、わが処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)も父の協力で世に出ました。それから、わたしが本を出すたびに父は喜んでくれました。10年間の休筆期間を経て再び執筆活動を再開したときも大変喜んでくれました。しかしながら、わたしがあまりにも精力的に本を出すので、やはり経営との両立を心配するのです。
 
 わたしたち父子のことをよくご存知の方に、京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生がおられます。鎌田先生は宮沢賢治研究でも第一人者として知られ、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)という名著も書かれています。そんな鎌田先生は、かつてメールで「佐久間親子は、わたしから見ると、切磋琢磨し、相互補完する弁証法的な親子だと思っています。親子であり、同志であり、ライバル」と指摘された上で、「お父上の御心配も一理も二理もあるご心配だと思います。親という存在は、いつまでも、子供のことが心配なのです。その心配を払拭し、さらなる統合と止揚を果たされますよう、お願い申し上げます」と書いて下さいました。ただただ、有難かったです。今また、鎌田先生は、わたしたち父子の互助共生社会実現への実践記録である『ウェルビーイング?』(オリーブの木、近刊)に寄稿していただくことになっています。重ねて感謝を申し上げたいと存じます。
 
 そんな想いで6年前に原作小説を読んだわたしは、映画「銀河鉄道の父」の公開を大変楽しみにしていました。そして公開初日に鑑賞したわけですが、「たぶん泣くだろうな」と予想してタオルハンカチを持参したことは正解でしたが、奇妙なことに気づきました。原作を読んだとき、わたしは完全に宮沢賢治に共感していたのですが、映画を観たときは父である政次郎に強く共感したのです。「こんな息子を持ったら、父親として不安だろうな」とか「賢治ほど、親不孝な者はいないな」とか、ついには「宮沢賢治より宮沢政次郎のような人になりたい!」と思ってしまうほどでした。これは政次郎を演じた役所広司の演技があまりにも素晴らしかったのと、長女が結婚したので、わたしに義理の息子ができたことが原因かもしれません。
 
 映画「銀河鉄道の夜」で素晴らしい演技を見せてくれたのは役所広司だけであありません。賢治を演じた菅田将暉も、トシを演じた森七菜の演技も秀逸でした。わたしが最も心を打たれたシーンは、認知症になって錯乱状態になり、家族に暴力をふるう祖父の喜助(田中泯)の頬を平手打ちにして、「美しく死ね」と言ったシーンでした。『ロマンティック・デス』(国書刊行会)を1991年に上梓して以来、「美しい死」というテーマについて考え続けてきたわたしにとって衝撃的かつ感動的なシーンでした。また、商家の嫁としてずっと義父・喜助や夫・政次郎に従順だった母親のイチ(坂井真紀)が賢治が息を引き取る直前に、「私はあの子の母親ですから」と夫を制して宮沢賢治の体を拭いてあげたシーンが印象的でした。
 
 俳優陣の熱演は素晴らしかった「銀河鉄道の父」ですが、映画として名作かというと、残念ながらそうでありませんでした。オープニングとエンディングが銀河鉄道をイメージさせる機関車(おそらくは岩手軽便鉄道)の車内のシーンなのは良いと思うのですが、前半は画面がとにかく暗くて、肝心の俳優たちの表情が見えませんでした。カメラワークも恣意的というか落ち着かず、安心して役者の演技を観るのにはふさわしくなかったです。いきものがかりが歌った主題歌「STAR」も全然映画の雰囲気に合っておらず、エンドロールで不快な気分にさせられました。俳優陣の演技が素晴らしかっただけに、まことに残念です。
 
 そして、この映画の最大の弱点は脚本です。脚本が弱いので、物語の辻褄が合わないというか、各シーンがぶつ切りで、流れが悪かったです。なぜ、政次郎はあんなに賢治を溺愛したのか。なぜ、賢治が怪しげな人造宝石に惹かれたのか。なぜ、賢治があれほどまでに日蓮宗に入れあげたのか。なぜ、賢治は農民のために尽力するのか。それらの理由や動機や伏線がまったく描けていませんでした。重要なシーンである祖父の喜助が錯乱して家族に暴力をふるうシーンも唐突だったのが悔やまれます。
 
 政次郎と賢治の宗教的対立の描き方も中途半端でした。浄土真宗の熱心な信者であった政次郎ですが、賢治はあろうことか日蓮宗の急進的団体である「国柱会」に入会します。「おらの大志は、質屋にはねぇすじゃ」と言う賢治に対して、政次郎は魂をこめて諭します。激しい論戦を繰りかえす父子のことを、原作者の門井慶喜氏は「似た者どうし」と評しています。どちらも経典をよく読んでいることを指摘し、さらに「何より、人生への態度が律儀である。人生は人生、宗教は宗教というふうに割り切らず、そのぶん人生にも宗教にものめり込みすぎる。或る意味、ふたりとも子供なのである」と書いています。また門井氏は、政次郎に「賢治はいつか気づくだろうか。この世には、このんで息子と喧嘩したがる父親などいないことを。このんで息子の人生の道をふさぎたがる父親などいないことを」と心の中で言わせています。映画でも、このへんの父子の心中を描いてほしかったですね。
 
 5月5日、TOHOシネマズ 六本木ヒルズ SC7にて行われた「銀河鉄道の父」初日舞台挨拶では、俳優陣と成島出監督が登壇しました。また、この日は岩手県花巻市から、イートハーブ子ども合唱隊も応援に駆けつけ、宮沢賢治作詞・作曲「星めぐりの歌」を合唱しました。「星めぐりの歌」は星座を題材とした歌で、歌詞は「銀河鉄道の夜」や「双子の星」などに登場する賢治自身の詩が用いられています。2021年に開催された2020東京オリンピックでは、閉会式で聖火が消される直前のパフォーマンスで、大竹しのぶと子どもたちが「星めぐりの歌」を歌いました。映画「銀河鉄道の父」でも、賢治のチェロ弾き語りに合わせて、農民たちが合唱するシーンが出てきます。
 
 脚本に難があり、ドラマの展開はぎこちなかった映画「銀河鉄道の父」ですが、興味深いシーンもありました。二度にわたってスクリーンに映し出された葬列のシーンです。一度目は田中泯演じる宮沢喜助の葬列で、二度目は森七菜演じる宮沢トシの葬列です。最近はセレモニーホールにおいて通夜から葬儀告別式、初七日とすべてを行う葬儀も増えてきました。しかし、それ以前は通常、自宅において通夜、葬儀を行っていました。さらにもっと前は、葬儀は葬列をはさんで自宅、葬場と二段階の儀式が一般的だったのです。現在でも日本国内には葬列をしている一部地域もありますが、東京や大阪などの大都市でも大正期まで行われていました。霊柩車の登場とともに葬列は行われなくなったとされています。
 
 葬列をする場合、自宅で出棺のための読経、焼香を行い、遺族や参列者が行列して寺院や墓地、火葬場など葬場に向かいました。そこで改めて読経、焼香をして遺体を埋火葬したのです。民俗学者の山田慎也氏によれば、葬列が葬儀のなかでもっとも重視されていたといいます。葬列といえば、ブログ「死を乗り越える黒澤明の言葉」で紹介した黒澤明が監督・脚本を担当したオムニバス映画の傑作「夢」(1990年)の最終話「水車のある村」を思い出します。ここには明るい葬列のシーンが登場します。その様式美の美しさは、儀式のもつ力を感じさせます。黒澤映画の1つの頂点というべき映像表現だと思います。その葬列を率いるのは笠智衆演じる老人で、彼は「生きているのは苦しいとかなんとか言うけれど、それは人間の気取りでね。正直、生きているのはいいものだよ。とても面白い」と言うのでした。わたしの大好きな言葉です。
 
 映画「銀河鉄道の父」には、トシと賢治の臨終のシーンが登場します。子が親よりも先に亡くなることを「逆縁」といいますが、人生で最も悲しいことだとされます。それを二度にわたって経験した政次郎の悲嘆の大きさは計り知れません。トシが息を引き取る前、政次郎は巻紙をかまえ、小筆をにぎり、トシの遺言を求めたとされています。政次郎は「これから、お前の遺言を書き取る。言い置くことがあるなら言いなさい」と言いました。それを聞いた賢治は激怒します。トシは頭を浮かせ、唇をひらき、のどの奥をふりしぼるようにして、「うまれてくるたて、こんどは......」と言いましたが、その瞬間、政次郎は、横から賢治に突き飛ばされました。賢治は無理やりトシとのあいだに割って入り、耳もとに口を寄せて、「南無妙法蓮華経」と唱えました。しかし、賢治のお題目もむなしく、トシは短い生を終えました。これが事実とされていますが、映画にはこれも描かれていませんでした。
 
 トシの死を認めることができない賢治は、浄土真宗の葬儀の場で太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」と唱える行動に出ます。明らかに葬儀を妨害する暴挙ですが、泣き崩れる賢治を優しく抱きしめた政次郎は「賢治。お前の信じる心でトシを送ってやりなさい」と言います。このシーンには泣けました。トシの死後、賢治は「永訣の朝」を書きます。そこにはトシの「また人に生まれるなら、こんなに自分のことで苦しまないよう生まれて来ます」という意味の長いせりふが記されています。しかし、これはどう見てもトシ自身の言葉ではなく、賢治の創作(想像)でした。わたしは、トシが自分の言葉で遺言を残そうとし、それを政次郎が書き残そうとしたことを妨害したことはやはり間違っていたと思います。いくら自分が悲しかろうが、あるいは自身の宗教的信条があろうが、それは賢治のエゴイズムにほかなりません。もうやり直しがきかないのですから、許されることではありません。
 
 そんな賢治ですが、自分が亡くなるときは、しっかり言葉を残しました。賢治は筆と巻紙を持つ政次郎に対して、「遺言はありません。ただ日本語訳の妙法蓮華経を一千部つくって、みんなに差し上げてください」と言いました。政次郎はその言葉を手ばやく巻紙に書きつけ、筆を置き、朗々と読みあげて、「これでいいか」と言いました。賢治が「けっこうです」と言うと、政次郎は「えらいやつだ、お前は」と言います。賢治はほうと息を吐くと、政次郎のうしろに立っている弟へ「清六。おらもとうとう、お父さんに、ほめられたもな」と言うのでした。これも事実とされていますが、映画では描かれていません。それどころか、賢治の臨終の直前に政次郎が「雨ニモマケズ」を暗唱し、この詩を絶賛するシーンに置き換えられています。原作では事実の通りに書かれています。この映画での原作改変は、おそらくは宗教的な問題に立ち入ることを避けたかったがゆえと推察します。映画としては、これで良かったのかもしれません。
 
 さらに、わたしは、賢治の臨終の直前に政次郎が「雨ニモマケズ」を唱えたことには意味があるように思いました。内村鑑三に影響を受けた無教会主義キリスト教者の斎藤宗次郎が「雨ニモマケズ」の主人公のモデルとあるとされていますが、この詩には「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ」「西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」「南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」「北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」という言葉があります。これは「ケア」の精神そのものであり、その背景には「コンパッション」があると思います。そして、明治の「新しい父」を目指す宮沢政次郎は、父親として偉ぶらずに、病に冒された賢治やトシの介護を献身的に行う「ケア」の人でした。何より、死にゆくトシに「お前は、自慢の娘だ」と言い、死にゆく賢治には「えらいやつだ、お前は」と言う政次郎は、彼らの魂を安らかにした最高のスピリチュアルケアラーであると思いました。
 
 そんな政次郎の息子である賢治も、ケアの人でした。先に結核に冒されたトシを賢治は献身的にケアしました。特に、自作の童話を朗読したことは、トシの魂に豊かな養分を与えました。映画では、トシが賢治に「日本のアンデルセンになって」と言うシーンがあります。実際、1896年に生まれて1933年に亡くなった賢治は、その死の直前まで膨大な童話を書き続けました。どの作品にもこの上なく幻想的イメージに満ちた世界が描かれていますが、そこには「童話の王様」と呼ばれたアンデルセンの影響がありました。賢治の処女童話集である『注文の多い料理店』の「序」には「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです」という有名な一節がありますが、じつはアンデルセンの『絵のない絵本』の模倣であるとされています。その他にも、賢治はアンデルセンから多大な影響を受けています。詳しいことは拙著『涙は世界で一番小さな海』(三五館)に書きました。よろしければ、お読み下さい。

涙は世界で一番小さな海』(三五館)
 
 
 
 映画の中で、賢治が政次郎に対して、「俺はエマーソンやベルクソンやツルゲーネフやトルストイの本を読んで勉強しました」と言うシーンがりますが、生前の賢治が読んでいた本は、神話、自然科学、社会科学、哲学、言語学、心理学、民俗学、文学、音楽、それに浮世絵を中心とした絵画など、さまざまな分野に及んでいました。賢治は英語やドイツ語も得意であったため、洋書もよく読んでいました。その顔ぶれは、ダーウィン、マルクス、エマーソン、タゴール、トルストイ、チェーホフ、ゲーテ、グリム、アンデルセンまで、実にバラエティに富んでいます。おそるべき読書家であった彼は、大正時代の若き博覧強記でした。その膨大な知識が自らの作品の中に流れ込んでいったのも当然かもしれません。賢治ほど内外の広範囲の書物から深い影響を受け、しかもそれらを自作に自在に取り込んだ文学者も珍しいといえます。それは一種の模倣かもしれませんが、彼自身にはそんな自覚はなかったでしょう。
 
 賢治は政次郎に向かって「質屋を継ぐのは嫌だ。俺は農民の味方になりたい」と言い放ちます。それを聞いた政次郎は「質屋だって農民の味方だ。農民には誰も金を貸してくれない。質屋が農民を救ってやっているのだ」と言います。しかし、賢治は「お父さんの言うことは綺麗事に過ぎない」と一刀両断にするのでした。このシーンを観たわたしは、賢治よりも政次郎に共感しました。確かに政次郎のいう「質屋」を「サラ金」などに置き換えた場合、政次郎の言い分は詭弁であるようにも感じられますが、経営者の志によっては質屋も農民を救う仕事に昇華することは可能であると思います。その志はもちろん、家業への敬意というものが賢治にはありませんでした。また、農民を救うための具体的方策というものもありませんでした。
 
 その点で、賢治と同じ博覧強記の読書家であっても、実際に多くの農民を救った二宮尊徳は偉大でした。少年時代の二宮金次郎は、戦前の国定教科書に勤勉・倹約・孝行・奉仕の模範として載せられ、全国の国民学校の校庭には薪を背負い本を読む銅像が作られました。金次郎は長じて、尊徳と名乗りました。幕末期に、農民の出身でありながら、荒れ果てた農村や諸藩の再建に見事に成功させた人物として知られます。賢治と同じく、尊徳も農民に深いコンパッションを抱いていました。そして、鎌田東二先生によれば、尊徳は江戸時代にその「コンパッション村」「コンパッション藩」「コンパッション共同体」と、そこにおける「ウェルビーイング」の実現を図ろうと社会実践をしていたといいます。現在、わたしが目指している「コンパッション都市」づくりの先駆者がまさに二宮尊徳だったのです。彼に比べて、賢治は単なる読書家であり物書きでしかありませんでした。ちなみに、尊徳のコンパッション思想と実践については、次回作『コンパッション!』(オリーブの木、近刊)に詳しく書きました。

天道館の竣工式で父と
 
 
 
 二宮尊徳は「天道」というものを唱えましたが、わが社はその理念を重んじて「 天道館」という研修施設を作りました。やはり、わたしにとっての目標となるべき人物は宮沢賢治ではなく、二宮尊徳であると思います。わたしは会社経営と執筆活動を両立しています。その他にも、わたしは大学の客員教授として教壇に立ったり、「グリーフケア」の推進や「隣人祭り」の開催をサポートしたりしています。それらはすべて「人間尊重」という思想を世の中に広めるための活動であり、わたしは「天下布礼」だと思っています。そして、わたしのすべての活動は結局のところ「幸福」という山の頂に続いていると信じます。そして、じつはわが志は、他でもない父から受け継いだものです。その意味で、わたしの最大の理解者は父であると思っています。父には深く感謝しています。

サンレー創立50周年記念祝賀会で父と
 
 
 
 宮沢政次郎が宮沢賢治にとっての最大の理解者であったように、わたしにとっての最高の理解者は父だと思います。ただ、わたしが賢治と違う点は、家業に対する誇りです。賢治は質屋という家業を否定しましたが、わたしは家業である冠婚葬祭業ほど世のため人のために尽くすことができる価値ある仕事はないと心の底から思っています。吉田松陰は「親思うこころにまさる親ごころ 今日の おとづれ何と聞くらん」という辞世の歌を詠みました。わたしは映画「銀河鉄道の父」を観終えて、この歌の意味を、しみじみと噛みしめています。息子というものはやはり父親から認められたい、褒められたいという思いがあります。賢治が亡くなるとき、父は「えらいやつだ、お前は」と言いました。もし、わたしが父よりも先に逝くようなことになった場合は、父から同じことを言われたいものです。