No.720


 梅雨の晴れ間に日本映画「渇水」をT・Jリバーウォーク北九州で観ました。水道局員が主人公のドラマは非常に珍しいですが、水道というライフラインがテーマだけに社会派の王道を行くような作品でした。わたしが常日頃考えていることにも通じる内容で、観て良かったです!
 
 ヤフー映画の「解説」には、「河林満の小説「渇水」を実写化したドラマ。水道料金を滞納する家庭を回って水道を止める業務に当たる水道局員の男性が、ある幼い姉妹との出会いをきっかけに良心と職務の間で葛藤する。監督はドラマ『マグマイザー』などの高橋正弥。『土竜の唄』シリーズなどの生田斗真、『あのこは貴族』などの門脇麦、『ビリーバーズ』などの磯村勇斗のほか、宮藤官九郎、大鶴義丹、尾野真千子らが出演する」と書かれています。
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「日照りが続く、ある年の夏。岩切俊作(生田斗真)は、市の水道局員として水道料金を滞納する家庭を訪ね、水道を止めて回る業務に当たっていた。県内全域で給水制限が発令される中、岩切は訪問したある家で幼い姉妹(山崎七海、柚穂)と出会う。父親が蒸発し、母親(門脇麦)が家に帰らなくなり、二人きりで家に取り残された姉妹を前に水を止めていいのか葛藤する岩切は、悩みながらも規則に従って停水を執行する」
 
 映画「渇水」ですが、幼い姉妹が二人乗りした自転車で走っているシーンから始まります。自転車を漕いでいるのは小学校高学年ぐらいの姉で、荷台に乗っているのは幼稚園児くらいの妹。妹は大きな声で童謡の「しゃぼん玉」を歌い、姉も一緒に歌います。ブログ「野口雨情記念館」でも紹介したように、「しゃぼん玉」は作詞者の野口雨情が幼くして失った長女を歌った作品だとされています。「しゃぼん玉きえた とばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた」という歌詞は、雨情自身の亡き娘のことでした。彼は、自分の愛娘のはかない命を、すぐ消えてしまうしゃぼん玉に例えたのです。そして、雨情夫婦は、この歌によってわが子を亡くした悲しみを癒したのでした。そう、「しゃぼん玉」とはグリーフケア・ソングなのです。このような歌を冒頭で流したということは、「この映画は幼い子の命についての物語であり、悲しみの物語である」という製作者のメッセージであると思いました。
 
「渇水」ですが、何よりも主演の生田斗真がすごく良かったです。「土竜の唄」シリーズとか、一条真也の映画館「湯道」で紹介した映画のように、彼の主演作にはコミカルなものが多いように感じていたのですが、この「渇水」は正反対で超シリアス、超ヘビーな内容でした。「湯道から水道へ」というわけですが、彼はジャニーズ事務所所属なので、どうしても故ジャニー喜多川氏の性加害問題を連想してしまいます。ここのところ、どんな映画を観てもジャニー氏のことばかり考えてしまいます。これでは、わたしのシネマライフが歪んでしまうので困っているのですが、現社長が性加害の事実を認めたら、ジャニーズ事務所のタレントたちは一斉に芸能界から追放される可能性があります。でも、木村拓哉、岡田准一、二宮和也、そしてこの生田斗真といった日本映画界の宝ともいうべき男優たちは何とか活躍し続けてほしいと願っています。
 
「渇水」では、育児放棄、つまりネグレクトの問題が扱われます。門脇麦が演じる2人の娘を持つシングルマザーは、新しい男を作って家を出てしまいます。残された2人の少女は必死に生きていきますが、母親が水道料金を滞納したために自宅の水道まで止められて窮地に陥ります。わたしは、彼女たちが困窮するシーンを直視できませんでした。一条真也の映画館「怪物」で紹介した日本映画には「いじめ」のシーンがありましたが、これも堪りませんでした。わたしは、いじめ、育児放棄、児童虐待といった子どもが辛い目に遭うシーンが苦手なのです。可哀想で仕方がなく、ストーリーに集中できなくなるのです。
 
 映画「渇水」の予告編の最後には「渇いているのは心でした」というコピーが登場しますが、わたしは「水は心にもよい」という言葉を連想しました。これは、フランスの作家サン=テグジュぺリの言葉です。飛行機の操縦士だったサン=テグジュペリは、サハラ砂漠に墜落し、水もない状態で何日も砂漠をさまようという極限状態を経験しています。そこから、水が生命の源であることを悟りました。そして、『星の王子さま』に「水は心にもよい」という有名な言葉を登場させたのです。『星の王子様』という本は『論語』や『聖書』や『コーラン』にも並ぶほどの人類史上の大ロングセラーですが、主人公の王子さまにはブッダや孔子やイエスやムハンマドの思想のエッセンスを感じることができます。

世界をつくった八大聖人』(PHP新書)
 
 
 
 わたしは、『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という本を書きました。その中で、ブッダ、孔子、老子、ソクラテス、モーセ、イエス、ムハンマド、聖徳太子といった偉大な聖人たちを「人類の教師たち」と名づけました。彼らの生涯や教えを紹介するとともに、8人の共通思想のようなものを示しました。その最大のものは「水を大切にすること」、次が「思いやりを大切にすること」でした。「思いやり」というのは、他者に心をかけること、つまり、キリスト教の「隣人愛」であり、仏教の「慈悲」であり、儒教の「仁」です。

近刊『コンパッション!』(オリーブの木)
 
 
 
「隣人愛」や「慈悲」や「仁」といった思想は、もうすぐ刊行される拙著のタイトルである「コンパッション」の一語に集約されます。同書では、児童養護施設のお子さんたちの七五三や成人式の晴れ着の無料レンタルや子ども食堂、子ども温泉などのわが社のコンパッション活動について書きました。人権問題・貧困問題・児童虐待......すべての問題は根が繋がっています。そういう考え方に立つのがSDGsであるわけですが、その意味で入浴ができなかったり、満足な食事ができないようなお子さんに対して、見て見ぬふりはできません。わが社は冠婚葬祭互助会ですが、「相互扶助」をコンセプトとする互助会はソーシャルビジネスであるべきだと考えます。

涙は世界で一番小さな海』(三五館)
 
 
 
 拙著『涙は世界で一番小さな海』(三五館)にも書きましたが、わたしは、もともと、水と愛の本質は同じであると思っています。かつて某百貨店の宣伝コピーに「花には水を、妻には愛を」というものがありました。これは映画「渇水」のテーマでもあります。生田斗真演じる岩切俊作は水道局員として、水道料金を滞納する家庭の水道を止め続けます。そんな彼に妻と子に逃げられた境遇にあり、深い孤独を感じています。孤独を感じながら、彼は自宅の庭に咲くヒマワリに風呂の残り湯を注ぐ日々なのですが、まさに「花には水を、妻には愛を」そのものでした。『星の王子さま』には、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」という王子さまのセリフが出てきます。心の奥底に「思いやり」という水にあふれた井戸をもつ人は美しいのです。
 
 興味深いことに、思いやりの心とは、実際に水と関係が深いのです。『大漢和辞典』で有名な漢学者の諸橋徹次は、かつて『孔子・老子・釈迦三聖会談』(講談社学術文庫)という著書で、孔子、老子、ブッダの思想を比較したことがあります。そこで、孔子の「仁」、老子の「慈」、そしてブッダの「慈悲」という3人の最主要道徳は、いずれも草木に関する文字であるという興味深い指摘がなされています。すなわち、ブッダと老子の「慈」とは「玆の心」であり、「玆」は草木の滋(し)げることだし、一方、孔子の「仁」には草木の種子の意味があるというのです。そして、3人の着目した根源がいずれも草木を通じて天地化育の姿にあったのではないかというのです。
 
 儒教の書でありながら道教の香りもする『易経』には、「天地の大徳を生と謂う」の一句があります。物を育む、それが天地の心だというのです。考えてみると、日本語には、やたらと「め」と発音する言葉が多いことに気づきます。愛することを「めずる」といい、物をほどこして人を喜ばせることを「めぐむ」といい、そうして、そういうことがうまくいったときは「めでたい」といい、そのようなことが生じるたびに「めずらしい」と言って喜ぶ。これらはすべて、芽を育てる、育てるようにすることからの言葉ではないかと諸橋徹次は推測しています。そして、「つめていえば、東洋では、育っていく草木の観察から道を体得したのではありますまいか」と述べています。

論語と冠婚葬祭』(現代書林)
 
 
 
 東洋思想は、「仁」「慈」「慈悲」を重んじました。すなわち、「思いやり」の心を重視したのです。そして、芽を育てることを心がけました。当然ながら、植物の芽を育てるものは水です。思いやりと水の両者は、芽を育てるという共通の役割があるのです。中でも、「仁」を重んじる儒教は水への志向性が強いと思います。儒教という宗教を開いたのは孔子です。儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、語源は同じです。ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。

葬式は必要!』(双葉新書)
 
 
 
 孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げること。その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じです。母を深く愛していた孔子は、母と同じく「葬礼」というものに最大の価値を置き、自ら儒教を開いて、「人の道」を追求したのです。『葬式は必要!』(双葉新書)にも書きましたが、水がなければ、人は生きられない。そして、葬式がなければ、人は死ねないのです。水を運ぶものは水桶であり、遺体を運ぶものは棺桶です。この人間にとって最も大切なものをテーマにした日本映画があります。新藤兼人監督の名作「裸の島」(1960年)です。
 
「裸の島」は全篇セリフなし、映像と音楽のみでストーリーを進めていくという画期的な実験作品です。舞台は瀬戸内海の小さな島です。そこに1組の夫婦と2人の息子が暮らしています。島のてっぺんまで耕した段々畑の耕作が夫婦の仕事です。しかし、この島には井戸がありません。井戸どころか川さえないのです。そのために、近くの大きな島へ小舟を漕いで渡り、そこで水を汲まなければなりません。汲んだ水はまた舟を漕いで自分たちの島へ持ち帰り、その水を山頂まで担ぎ上げる。そうして畑に水が撒けるのです。でも、乾ききって痩せた土地は、苦労して得た水を一瞬にして呑み込んでしまいます。それでも、夫婦は一年中、夜明けから日没まで、ひたすら舟を漕いで畑に水を撒き続けるのでした。ここには生活するための人間の極限の姿があります。初めて観たときは非常に感動しました。
 
 物語は、ある夏の日に急転回します。小学生の長男が高熱を出して倒れ、夫が医者を求めて舟を漕ぎ出すものの間に合わず、帰らぬ人となってしまうのです。そして、長男の葬式の日、お坊さん、担任の先生、同級生たちが舟に乗って島にやって来ました。迎える夫婦は喪服も着ていません。そんな贅沢品を持っていないのです。兄の葬式だというのにランニング姿の幼い弟を見ると、泣けてきます。いよいよ出棺のときです。母は突如として駆け出し、家に戻ります。そして、亡き子が愛用していたオモチャの刀を手に取ると、また駆け戻ってきて、刀を棺の上に置きます。わたしは、こんなに粗末な葬式を知りません。こんなに悲しい葬式を知りません。そして、こんなに豊かな葬式を知りません。貧しい島の貧しい夫婦の間に生まれた少年は、両親、弟、先生、同級生という、彼が愛した、また愛された、多くの「おくりびと」を得て、自らは「おくられびと」として、あの世に旅立って行ったのです。これほど豊かな旅立ちがあるでしょうか。
 
 思えば、夫婦が一緒に運んだものは水と息子の亡骸の入った棺でした。2人は、ともに水桶と棺桶を運んだのです。その2つの「桶」こそ、人間にとって最も必要なものを容れる器だったのです水がなければ、人は生きられない。そして、葬式がなければ、人は死ねないのです。「裸の島」に出てくる小さな島はテレビも自動車もなく、まるで原始時代のようです。いわば極限までに無駄なものを削った生活だからこそ、人間にとって本当に必要不可欠なものを知ることができるのです。そして、その必要不可欠なものこそ、水と葬式でした。悲嘆にくれる母は、息子を失った後、大切な水を畑にぶちまけながら号泣します。もし、葬式をあげなかったら、この母親の精神は非常に危険な状態になったはずです。喉が渇いたときに水を必要とするように、愛する人を亡くして心が渇いたとき、人は葬式を必要とするのです。日本映画の最新作である「渇水」を観て、わたしは日本映画史上に燦然と輝く名作「裸の島」の感動を思い出しました。