No.734


 東京に来ています。7月4日の夜、シネスイッチ銀座で一条真也の映画館「告白、あるいは完璧な弁護」で紹介した韓国映画を観た後、続けて同劇場で日本映画「山女」を鑑賞。『遠野物語』に着想を得ていると知って、どうしても観たかった作品ですが、とにかく観ていて辛くなる悲惨な物語でした。
 
 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『アイヌモシリ』などの福永壮志監督が柳田國男の『遠野物語』に着想を得て、飢饉に見舞われた18世紀末の東北を舞台に懸命に生きる女性を描いたドラマ。女神がいると伝わる山を心のよりどころとしている女性が、ある事件によって村を去り、伝説となっている山男に出会う。主人公の女性を『樹海村』などの山田杏奈が演じ、森山未來、永瀬正敏、二ノ宮隆太郎、三浦透子などが共演する」
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「18世紀末、冷害による凶作に苦しむ東北のある村。人々からさげすまれていた一家の凛(山田杏奈)は、盗人の女神が宿るといわれる早池峰山を心の支えとしていた。ある日、盗みを働いて責められた父・伊兵衛(永瀬正敏)をかばって罪をかぶった凛は、自ら村を去り、山の奥深くへと入っていく。そこで凛は、伝説の存在とされてきた山男(森山未來)に出会う」
 
 この映画、永瀬正敏森山未來二ノ宮隆太郎三浦透子山中崇川瀬陽太赤堀雅秋、白川和子、品川徹、でんでん......日本映画界に欠かせない実力派俳優が勢揃いしています。ミニシアター系の映画にこれだけの役者が集結したことがまず驚きですが、主人公である凛を演じた山田杏奈の存在感と演技力にさらに驚かされます。「日本映画界には、まだこんな凄い女優がいたのか!」というほどのレベルです。彼女は徹底した方言指導に応えたそうですが、遠野弁も素晴らしいです。一方、山男を演じた森山未來はまったくセリフがありませんでした。最近、フジテレビで放映された木村拓哉主演の「教場0」にも主人公を付け狙う悪役で登場していましたが、森山未來は本当に存在感がハンパないですね。
 
「山女」の舞台は18世紀後半、大飢饉にあえぐ東北の寒村です。貧しく食べるものがないゆえに、赤ん坊が生まれれば、そのまま間引きされます。その亡骸を引き取り、川に流すのが主人公・凛の役目です。彼女は、また墓穴を掘って村人の亡骸を埋葬します。彼女の一家は先々代が火事を起こしたという理由で、「穢れ」として村人から苛烈な差別を受け続けているのです。わたしは「葬」ほど人間にとって重要な営みはないと思っているので、埋葬の仕事が「穢れ」に繋がる描写がたまりませんでした。凜は先祖の所業によって差別され、身分によって差別され、さらには女ということで差別されます。生まれたときから過酷な運命を背負った彼女は山に入りますが、そこには村人に恐れられる「山男」(森山未來)がいました。山男に助けられた彼女自身も「山女」になるのでした。
 
 映画「山女」の原案になったという『遠野物語』は、日本民俗学の創始者である柳田国男が明治43年(1910年)に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集です。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版され、『後狩詞記』(1909年)、『石神問答』(1910年)と並ぶ柳田の初期三部作の一作です。遠野の地で起きたとされる出来事も取り上げられており、内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪にまつわるものから山人、マヨヒガ、神隠し、臨死体験、あるいは祀られる神とそれを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡ります。
 
『遠野物語』の中には、黄昏時に子女が生活の痕跡そのままに忽然とその姿を消すという神隠しに関する説話もあります。寒戸という場所で梨の木の下に草履を残したまま娘が姿をくらましました。その30年後、親類縁者が家に集まっているところ、突然姿をくらました娘が皆に会いたいからと再び姿を現しました。かと思うと、また何処かへ去っていったとされています。この「寒戸の婆」と呼ばれる女性が凛のモデルでしょう。里での生活から突然居なくなるということは、その者と死別するということか、あるいは発狂して山野を彷徨うか、異質な存在や遠国の者にかどわかされるなど、さまざまな理由が考えられます。残された者達の悲しみや、諦め切れない苦しみに折り合いをつけるためにこういった話が残され、この事象が山人によるものであると、『遠野物語』では説かれています。
 
 映画「山女」では、ある日、凛の父である伊兵衛(永瀬正敏)が空腹のあまり、米を盗んでしまいます。凜は、幼い弟や父をかばうために罪をかぶって村から出て行った彼女が向かったのが早池峰山でした。過酷な運命を背負い、辛い毎日を送っていた凜の心の支えは、盗人の女神様が宿ると言われる早池峰山だったのです。彼女はこの山を眺めて、辛い日々を耐えていましたが、そこには「死後はあの山で幸せに暮らす」という儚い願いもあったように思います。凛だけではなく、貧しい村で生きる人々はみな悲惨な人生を送っていました。ブログ「『日本人を幸福にする方法はなにか』 柳田国男の志」にも書きましたが、もともと柳田の学問の原点には、日本一小さな家に幾組もの家族が同居していることによって生じる不幸だとか、若くして見た絵馬の図柄の、わが子を間引く母親の姿から受けた衝撃といったものがありました。彼は、一家心中の問題にも心を痛めています。結局、柳田国男という人は、「日本人の幸福」というものを生涯考え続けた人なのでしょう。

「日本経済新聞電子版」より
 
 
 
 オリジナルではなく『遠野物語』を原案に選んだ理由について、福永壮志監督はインタビューの中で、「前作の製作中、アイヌの人達に伝わる伝説や昔話を調べるうち日本の民話に興味を持ち始め、特に『遠野物語』に強く惹かれました。長年伝えられてきた噂話や昔話を通じて当時の民衆の文化や風習、信仰が段々と浮かび上がる。そしてそれらは今の日本人の生き方にも脈々と受け継がれている重要な要素だと思う。貴重な資料であり、社会の片隅で生きる人々を描くうえでぴったりの題材でした」と語っています。また、『遠野物語』全体を通して見えてくる当時の生活や世界観に興味があったという福永監督は、狼や人柱、神隠しなど、そのヒントになるものを汲み取って形にしていきました。「いわゆる化け物の話ではなく、それを作り出す人間の話です。そういう存在を信じるほど自然への畏怖を持って生きる人達の姿を描きたかった」と語ります。
 
 福永監督がインタビューで語った「前作」というのが、2020年の映画「アイヌモシリ」です。北海道阿寒湖畔のアイヌコタンで、アイヌ民芸品店を営む母親エミ(下倉恵美)と暮らす14歳のカント(下倉幹人)。1年前に父親を亡くしたのをきっかけにアイヌの活動に参加しなくなった彼は友人たちと組んだバンドの練習に没頭し、高校進学のために故郷を離れることも考えていた。あるとき、アイヌコタンの中心的存在で父の友人でもあったデボに自給自足のキャンプへ連れていかれた彼は、自然と密接な関係にあるアイヌの精神や文化を知るとともに、デボからある子熊の世話を任されるのでした。福永監督にとって「山女」は長編映画第3作、「アイヌモシリ」は第2作、そして第1作が「リベリアの白い血」(2015年)です。
 
「リベリアの白い血」は、リベリアのゴム農園で過酷な労働を強いられていた男が単身アメリカに渡り、葛藤する姿を描く人間ドラマ。ニューヨークを拠点に活動する福永壮志監督の長編デビュー作で、第65回ベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、ロサンゼルス映画祭などで賞を受けました。リベリアのゴム農園で働くシスコ(ビショップ・ブレイ)は厳しい労働環境を改善しようとしますが、状況は変わりませんでした。ある日、いとこのマーヴィン(ロドニー・ロジャース・べックレー)からニューヨークでの生活の様子を聞き、家族の将来のため、単身渡米を決意します。新天地でタクシードライバーとして働き始めたシスコは、移民を取り巻く現実に直面しながらも、少しずつ馴染んでいきますが、厳しい現実が待っていました。
 
「リベリアの白い血」はアメリカに渡ったアフリカ移民、「アイヌモシㇼ」は北海道に暮らすアイヌの人々、そして「山女」は江戸時代の農村と、時代や舞台は変わっても主福永監督のテーマは一貫しています。それは、マイノリティに光をあて人々のルーツやアイデンティティを追求することです。福永監督は、「数多くの映画があるなかで自分があえて作るなら少しでも社会的な意味があるものを、と思うんです。もちろんマイノリティを扱うことだけが社会的な意味を持つわけではない。でも少なくとも自分にとってはそれが重要だし、人のルーツやアイデンティティには常に関心を持っています。日本で暮らしていた昔の人達がどういう信仰を持ち、どう世界を見ていたのか、それがどう現在に引き継がれているのかに興味があるんです」と語っています。これから彼がどんな映画を作り、どんな人々を描くのか、とても興味があります。