No.759
東京に来ています。
9月1日の夕方から有楽町で出版関係の打ち合わせをしました。その後、編集者とヒューマントラストシネマ有楽町でこの日から公開されたイギリス映画「ウェルカム トゥ ダリ」を観ました。ダリといえば希代の芸術家ですが、この作品はアート映画というよりも、妻を深く愛しながらも妻からの愛を得ることができなかった男の悲しみに満ちた、一種の「グリーフ映画」と言えるような内容でした。
映画ナタリー「解説」には、「20世紀シュルレアリスムを代表する芸術家サルバドール・ダリの伝記映画。1970年代のNYで華々しい生活を送るダリと妻のガラを、アシスタントの目を通して描く。監督は『アメリカン・サイコ』のメアリー・ハロン。出演は『シンドラーのリスト』のベン・キングズレー、バルバラ・スコヴァ、エズラ・ミラー、クリストファー・ブライニーら」とあります。
映画ナタリー「あらすじ」は、以下の通りです。
「1974年・NY。ジェームスは働き始めた画廊で個展を開くダリのアシスタントを務めることになる。憧れの芸術家と妻ガラに気に入られて喜ぶジェームズだったが、パーティー三昧のダリは、個展開催が迫っても作品を1枚も仕上げておらず、ガラは怒りだす」
サルバドール・ダリは(1904年5月11日―1989年1月23日)は、スペイン・フィゲーラス出身の画家です。シュルレアリスムの代表的な作家として知られます。「天才」と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が有名です。ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描きました。
ダリは、バロックを代表する画家ヨハネス・フェルメール を高く評価していました。著書の中で、ほかの画家を採点したとき、フェルメールに最高点をつけ、「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるならこの右腕を切り落としてもいい」と述べました。第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、マネージャーでした。
「ダリ的世界の拡張」といえば、アメリカに亡命したダリは、ヒッチコック、マルクス兄弟、そしてウォルト・ディズニーといった映画人たちと共に仕事をしました。ダリは、ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」(1929年)やヒッチコックの「白い恐怖」(1945年)といった映画に製作協力しています。ともに人間の目玉をトラウマ的に描いた作品ですが、ダリは目玉に魅せられていたのでしょうか?
「ポルト・リガトの聖母」(1950年)
映画「ウェルカム トゥ ダリ」では、天才芸術家ダリがロシア出身の妻であるガラにきりきり舞いさせられます。Artpediaの「ガラ・ダリ/Gala Dalí」には、ガラ・ダリについて、「ポール・エリュアールの前妻。サルバドール・ダリの妻。一般的には『ガラ』という愛称で呼ばれている。彼女はミューズとして多くのシュルレアリストや芸術家にインスピレーションを与えた。ガラは、実業家として、ダリのエージェント、マネジメントとして活躍。ダリが売れない頃に作品を宣伝したりダリの仕事全体の運営に気を配っていた。さらに、彼女は編集に卓越した才能を発揮し、『サルバドール・ダリ自伝』を驚異的なベストセラーに変えた。ガラはダリの作品のモデルとしてよく登場し、たとえば『ポルトリガトの聖母』のような聖母マリアの役割として描かれる。ダリが描いたガラの絵は非常に愛の深いもので、美術史においてこれほど中年女性への憧れを熱烈に表現した芸術家はいなかったといえるだろう」と書かれています。
「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」
(1958年~1959年)
Artpediaでは、ガラの「略歴」について、「ガラは、ロシア帝国のカザンの知識階級の家庭で生まれた。本名はエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ。幼なじみには詩人のマリーナ・ツベターエワがいる。モスクワに住んでいた1915年ごろは、学校の教師をしていたという。1912年、結核の治療のため、スイスのダボス近郊にあるクラヴァデルの療養所に送られる。水で詩人のポール・エリュアールと出会いに恋に落ちる。2人は17歳だった。第一世界大戦がはじまると1916年に、彼女はポール・エリュアールと再会するためにロシアからパリへ移住する。一年後に結婚し、翌1918年には2人のあいだに娘が生まれたが、ガラは母親であることを嫌い、子供を虐待し、育児放棄をした」と書かれています。
また、Artpediaには「エリュアールとガラはシュルレアリスム運動に参加し、ガラはエリュアール、ルイス・アラゴン、マックス・エルスント、アンドレ・ブルトンなどの多くの画家や詩人にインスピレーションを与えた。しかし、ブルトンはのちに彼女を嫌い、芸術家に悪影響を与えるその性格を批判。ガラは1924年から27年にかけて、夫であるエリュアールだけでなくマックス・エルスントとも不倫をしていた。1929年の8月、エリュアールとガラはスペインの若いシュルレアリスム画家のサルバドール・ダリを訪ねる。ガラとダリは10歳以上年が離れていたが、すぐに打ち解けることができた。女性器恐怖症と言われるダリは、まだ童貞だったと言われている」とも書かれています。
また、Artpediaには「1929年、子宮筋腫が見つかり、1936年に子宮摘出術を受けた。1930年代初頭、ダリは「私が絵を描くのは、ほとんどガラ、あなたの血でできている」として、自分の絵に自分と彼女の名前を記すようになった。1929年に同棲をはじめ、1932年にエリュアールと離婚したあと1934年に入籍。しかし親の反対もあって結婚式は挙げていなかった。しかし、ダリと結婚したあともエリュアールとの関係は続いた。両親が他界した後、1958年に正式にモントレジックのピレニア村でカトリック形式で結婚式を挙げる。ガラには結婚歴があり、彼女は信者(カトリックではなく、正教徒)であったため、ローマ教皇から特別な免除を受ける必要があった」とも書かれています。
さらに、「1968年にダリはガラのためにプボル城を購入する。ガラは1971年から1980年までプボル城で毎年夏を別荘として利用する。ダリはガラからプボル城への無許可の入場を拒否され、事前にガラから文書で正式な許可を得るという手はずを取らなければならなかった。ガラは、性欲が強く、晩年になっても彼女の性欲はおさまらず次々と不倫していた。しかし、ダリはカンダウリズムの嗜好を持っていたので(自分の妻の裸体を第三者に晒したり、他人と性行為をするのを見て興奮する性的嗜好)、ガラとの間にトラブルはほとんどなかった。前夫であるポール・エリュアールともずっと関係を維持していたのもダリのカンダウリズム嗜好が根底にあるという。若い芸術家に好意を持ち、老後は自分と関わりのある人々に高価な贈り物をすることが多かった」と書かれています。
そして「1970年代後半、ガラはアメリカのロックシンガーのジェフ・フェンホルト(以前はジーザス・クライスト・スーパースターのボーカル)と不倫していたという。フェンホルトはアメリカにおけるダリのマネジメントを務めており、ダリの作品をアリス・クーパーに販売もしていた。ガラは1982年6月10日、ポルトリガトで87歳で死去。死の数ヶ月前、ガラは重度のインフルエンザにかかり、その後、認知症の兆候が現れ始めた。ダリがガラのために購入したジローナのプボル城に埋葬された。1996年ガラが住んでいたプボル城はガラ・ダリ城美術館として一般公開された。ガラが亡くなるとダリは『自分の人生の舵を失った』と激しく落胆し、プボル城に引きこもるようになり、その翌年を最後に生涯、絵を描くこともなくなった」と書かれているのでした。
「ダリ展」にやってきました!
ブログ「ダリ展」で紹介したように、わたしは2016年11月26日、国立新美術館で開催された「ダリ展」を鑑賞しました。じつは、「未来医師イナバ」こと稲葉俊郎氏のブログ「吾」の「ダリ展@国立新美術館」という記事を読んで、無性に行きたくなったのです。「一条真也、島田裕巳『葬式に迷う日本人』」の1つ前の記事でした。
「奇妙なものたち」(1935年頃)
「狂えるトリスタン」(1938年)
「ラファエロの聖母の最高速度」(1954年)
「素早く動いている静物」(1956年頃)
稲葉氏は、ブログに「小学生のころ、Daliに出会い、熱病にうなされたように好きになった。親にねだり画集を何冊も購入した。小学生なりにDali研究を続けた。特に、彼が日本への原爆を機に画風と絵の質が変化したことにも興味を持った。Daliは本気で科学と芸術と宗教を統合しようとしていた」と書いています。これを読んで嬉しくなりました。なぜなら、わたしも小学校のときにDali病に罹り、「将来はシュールレアリスムの画家になる!」と決心して油絵を習っていたぐらいなのです。
『SF教室』筒井康隆編(ポプラ社)の函と本体
『SF教室』で紹介されたダリ「炎のジラフ」
わたしがダリの名を知ったのは、『SF教室』筒井康隆編(ポプラ社)という児童書でした。ポプラ・ブックスの1冊で、函入りでした。いま奥付を見ると、初版が昭和46年4月10日となっています。わたしが持っている本は昭和48年8月30日の4版です。ちょうど10歳のときに購入したことになります。この本では、「SFの新しい波」としてJ・E・バラードなどを紹介する流れでシュールレアリスムに言及し、ダリの「炎のジラフ」を紹介しています。小学生のわたしは、これを見て身体に電流が走ったようにシビれてしまったのです。稲葉先生と同じく、わたしも何冊もダリの画集を親に買ってもらいました。
『SF教室』で紹介された手塚治虫『火の鳥』
星新一も『SF教室』で初めて知る
稲葉氏は「高校を卒業したら最初にしようと決めていたことが、宝塚の手塚治虫記念館に行くことと、スペインのフィゲラスにあるDali美術館に行くことだった」と書かれていますが、『SF教室』には手塚治虫の名作『火の鳥』も紹介されており、これも入手して読みました。あと、星新一のショートショートも『SF教室』で初めて知りました。わたしの精神を構成している要素のかなりの部分は同書にルーツがあるのかもしれません。
稲葉氏は「自分の中にいる内的な小学生の自分とも久しぶりに再会したことも、感動した。ああ、自分の中に、過去も現在も未来も重なって生きているのだと、確認した日だった」と書かれていますが、これもまったく同感です。その頃、藤子不二雄のマンガ『魔太郎がくる!』で知ったルネ・マグリットの不思議絵にも夢中になりました。
「ダリ展」の戦利品の数々。
今でも、絵画といえば、ダリ、マグリット、エルンスト、ルソー、キリコ、そしてシャガールといったシュールレアリスムの画家たちが好きです。彼らの絵を眺めていると、わが魂が自由になるような気がします。「ダリ展」を鑑賞した後は、売店で買い物をしました。ダリの歪んだ置時計、タロットカード、ペンケース、それにストレスフリーなどを購入しました。その後のわが書斎を賑やかにしてくれました。それらは今でもわたしの目の届く場所にあります。