No.831


 東京に来ています。
 1月16日、ヒューマントラストシネマ有楽町でトルコ映画「葬送のカーネーション」を観ました。12日から公開されていますが、どうしても観たかった作品でした。「人間とは何か」「死とは何か」「葬とは何か」といった問題を考えさせる哲学的な映画でしたが、やはり、能登半島地震の犠牲者の方々の葬送について想ってしまいます。
 
 ヤフー映画の「解説」には、「第35回東京国際映画祭『アジアの未来』部門に出品されたロードムービー。亡き妻を故郷に埋葬するため彼女のひつぎを運ぶ男とその孫娘が、行く先々でさまざまな人たちと出会う。監督を務めるのはベキル・ビュルビュル。シャム・シェリット・ゼイダン、デミル・パルスジャンらが出演する」とあります。
 
 ヤフー映画の「あらすじ」は、「トルコ南東部。年老いたムサ(デミル・パルスジャン)は、故郷に埋葬するという亡き妻との約束を守ろうと、彼女の遺体を納めたひつぎを孫娘のハリメ(シャム・シェリット・ゼイダン)と共に運びながら故郷を目指す。ハリメは紛争の続く故郷には帰りたくなかったが、両親を亡くしたため仕方なくムサと旅を続けていた。ムサは故郷へ向かう道中でさまざまな人と出会い、彼らの言葉から多くの悟りを得る」です。
 
 わたしは、これほど悲しく暗い映画を観た記憶がありません。荒涼とした冬のトルコ南東部。年老いた男性ムサは他界した妻との約束を守るため、彼女の遺体を故郷の地に埋葬するべく棺を背負って旅をしています。両親を亡くした孫娘ハリメも同伴していますが、12歳の少女ゆえムサにとって頼りになりません。老人と少女という弱者と、物言わぬ死者という最弱の存在。そんな3人(生者2名+死者1名)の旅は続きますが、車もなく、お金もなく、亡骸が入った棺を担いで国境線を目指すという途方もない物語です。観ていて切なくなりました。
 
 いま、「これほど悲しい映画を観た記憶がありません」と言いましたが、一条真也の映画館「サウルの息子」で紹介した2016年の映画も、同じように悲しく暗かったことを思い出しました。同じヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞した作品ですが、第68回カンヌ国­際映画祭にてグランプリに輝いた大傑作です。強制収容所でユダヤ人の同胞をガス室に送り込む任務(ゾンダーコマンド)につく主人公サウルに焦点を当て、想像を絶する惨劇を観客に見せます。ある日、サウルは、ガス室で生き残った息子とおぼしき少年を発見します。少年はサウルの目の前ですぐさま殺されてしまうのですが、サウルはなんとかラビ(ユダヤ教の聖職者)を捜し出し、ユダヤ教の教義にのっとって手厚く埋葬してやろうと、収容所内を奔走します。ユダヤ教では火葬は死者が復活できないとして禁じられているのです。

ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教
 
 
 
「サウルの息子」はユダヤ教、「葬送のカーネーション」はイスラム教と、登場人物の信仰する宗教は違います。しかしながら、イスラム教が生まれた母胎はユダヤ教です。かつて、わたしは『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三大一神教のことを「三姉妹宗教」と表現しましたが、好戦的な次女のキリスト教に比べて、長女のユダヤ教と三女のイスラム教は非常に似ている部分が多いと言えます。イスラム教が火葬を禁じているルーツは、ユダヤ教にあります。ユダヤ教では、死後、救世主メシアが死者を復活させるために死体をそのままの状態に保つ必要があり、火葬は禁忌です。それはイスラム教においても同様です。

映画パンフレットより
 
 
 
「葬送のカーネーション」という映画のテーマは、邦題にもあるように「葬」です。映画に中で、ムサとハリメを車に乗せてくれた男に携帯電話がかかります。それは彼に金を貸している者からで、返済を求める内容でした。男は金がないから返せないと言うのですが、相手は「母親が死んだので、どうしても葬儀代が必要なんだ」と言います。すると、男は「俺だって、親父が死んだばかりなんだ!」と言うのでした。その様子を傍観しているムサは、亡き愛妻を故郷で弔ってやろうとしているわけです。こんな紛争下の極限状態にあっても葬儀というものを重要視する人々の姿には、考えさせるものがありました。どうして、人は愛する人を亡くしたとき、「葬」を実行しようとするのでしょうか。拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)にも書きましたが、わたしは、葬儀という営みは人類の生存にとって必要不可欠なものであると考えています。

唯葬論』(三五館)
 
 
 
 故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。もし葬儀が行われなければ、配偶者や子ども、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自死の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀という「かたち」は人間の「こころ」を守り、人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。現在、能登半島の避難所で暮らしている上級グリーフケア士の大谷賢博さんは、このブログ記事を読んで「考えてみれば、警察、自衛隊、消防団が安否不明者22名を毎日捜索していることは、残された人々の魂に生きるエネルギーを与えてくれる葬儀を行ってあげること。遺族の心に大きな穴が開き、自死の連鎖が起きないように葬儀を行なってあげること。職務としてではなく、人間の本能として『葬』を提供してあげたいがために。いろいろ考えさせられました」とのLINEメッセージを送ってくれました。
 
 映画「葬送のカーネーション」で、ムサとハリメがヒッチハイクのトラックに乗せてもらっているとき、カーラジオからトーク番組が流れてきました。ゲストの人物は思想家のようで、「星に光が届くまで5000年かかる。500年後に誰も読まないような本を書くのは虚しい」と述べます。また、彼は、「500年後、われわれのことを記憶している人間はいない。誰もわれわれに想いを馳せることはない」といったようなことを言います。それを聴いて、わたしは「遠い未来の子孫が自分の名前や顔を知らないとしても、『ご先祖さま』と一言でも口にしてくれれば、自分に想いを馳せたことになるのではないか。また、『ご先祖さま、ありがとうございます』とでも言ってくれれば、その感謝の念は自分の魂の養分になるのではないか」と思いました。日本人特有の宗教観かもしれません。
 
 また、そのラジオ番組のゲスト・スピーカーは「500年後に、われわれを知っている人間はいないということは、われわれの存在自体が意味がないということだ。何をしても無意味だ。われわれにできることは死ぬことだけだ」と言います。とんでもないニヒリストですが、「できるのは死ぬことだけだ」というのは唯死論ということです。オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。
 
 言うまでもなく、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということです。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。そして、「葬」とは死者と生者との豊かな関係性を指します。よって、わたしは「唯死論」ではなく、「唯葬論」という考え方が大事であると思います。それにしても、ムサが亡き妻を故郷で埋葬してやりたいという想いの強さには圧倒されます。わたしは、人類は埋葬という行為によって文化を生み出し、人間性を発見したのだと確信しています。
 
「人類の文化は墓場からはじまった」という説があります。じつに7万年も前、旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、ときには、そこに花を捧げていました。死者を特定の場所に葬るという行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。ネアンデルタール人が最初に死者に花をたむけた瞬間、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な2つの価値が生み出されたのです。ヒトと人間は、まったく違います。ヒトは生物学上の種にすぎませんが、人間は社会的存在であり、両者は異なります。

映画パンフレットより
 
 
 
 ある意味で、ヒトはその生涯を終え、自らの葬儀を多くの他人に弔ってもらうことによって初めて人間となることができるのかもしれません。葬儀とは、人間の存在理由に関わる重大な行為なのです。その意味で、人間とは葬るヒトとしての「ホモ・フューネラル」なのです。ネアンデルタール人は死者に花を手向けたとされていますが、祖母の墓に捧げられたのは、ハイメが描いた故人の似顔絵と1輪の赤いカーネーションでした。その花を見たとき、わたしは「ネアンデルタール人と同じだ!」と思いました。

ロマンティック・デス』(国書刊行会)
 
 
 
 祖母が埋められた場所は故郷ではなく、戦時下ということもあって、なかなか墓参も難しいでしょう。この映画でも夜空に月が出ていましたが、墓参が困難な場合は、月に向かって死者を想えばよいと思います。ちょうど今、わたしは『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会、幻冬舎文庫)のアップデート版を書いているのですが、地球上のどこからでも拝むことのできる月は、宗教や民族を超えた地球人類共通の墓だと思えてなりません。最後に、妻を葬った後、ムサが夢遊病のように国境線の向こう側に入っていき、そこで若き日の自身の結婚式に遭遇した場面は印象的でした。そこには、若くて美しい花嫁姿の妻がいました。「結婚式と葬儀こそ人生だ!」と思えるような、まさに、わたし向きの映画でした。

映画パンフレットより
 
 
 
 ただ、この「葬送のカーネーション」を観て、残念なこともありました。それはムサが妻を亡くした深い悲しみにとらわれているあまり、また、妻との約束を果たすことに頭がいっぱいなあまりに、ハリメのことを思いやる余裕がなかったことです。ハリメは紛争で両親を亡くしています。彼女は小さなスケッチブックをいつも携えていて、いろんな絵を描きます。そこには、両輪の間で彼女が寝ている絵もありました。川の字になった家族ですが、よく見ると、ハリメの手は父親の逞しい腕に触れています。どれだけ父親を愛し、頼りにしていたかがわかります。また、その自宅が紛争で破壊された絵もあります。それらの絵をじっと見つめる12歳の多感な少女の心中を思うと、胸が張り裂けそうになります。スケッチブックに絵を描くことは彼女にとってセルフ・グリーフケアの行為だったのです。しかし、ムサはそんな孫娘に関心を払わず、彼女が描いた絵をゴミ箱に捨てたりします。自分の悲しみだけに浸っていて、両親を亡くした孫娘の悲嘆をまったくケアしようとしないムサが哀れでなりませんでした。

映画パンフレットより
 
 
 
 この最後のくだりを読んだ上級グリーフケア士の市原泰人さんから、「とても辛くなることです。ハリメがグリーフを絵に表したこと、その絵についてムサとハリメが語り合うことの描写があれば救われた気持ちになると感じています。子どもがグリーフを抱えていることは公認されない悲嘆について調べた際にその分類に入っていましたが、子どもが悲嘆を感じていることを認識すること、その悲嘆をケアしていくは成長過程にある子どもにとって重要に思います。またこのことは今回の震災でも起こり得ることだと考えます。なにをしてあげることが出来るのかを考えさせられました」とのLINEメッセージが届きました。すべてのグリーフケアの関係者に観てほしい映画です。