No.938


 東京に来ています。冠婚葬祭文化振興財団の評議員会に出席した後、ヒューマントラストシネマ銀座で映画「ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ」を観ました。上映時間わずか31分の短編でしたが、しっかり映画として完成されていました。上映後、宮崎県で震度5強の地震があったことを知り、非常に驚きました。幸い、延岡や日向などは震度4で、わが社の施設には被害はありませんでした。
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『パラレル・マザーズ』などのペドロ・アルモドバルがメガホンを取り、第76回カンヌ国際映画祭で上映された短編西部劇。かつて雇われガンマンだった男たちの久々の再会を通して、男性社会で生きる性的マイノリティーの苦悩や愛を描く。『テスラ エジソンが恐れた天才』などのイーサン・ホーク、ドラマシリーズ『THE LAST OF US』などの、ペドロ・パスカルが出演する」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「1910年。シルバ(ペドロ・パスカル)は、若いころに共にガンマンとして雇われていた旧友の保安官ジェイク(イーサン・ホーク)を訪ねるため、馬に乗って砂漠を横断する。メキシコ出身のシルバは感情的ながらもしっかり者で、アメリカ出身のジェイクは厳格で冷淡な性格だったが、深い絆を築いていた。二人は25年ぶりの再会を祝して酒を酌み交わすが、翌朝になってジェイクの態度が豹変する」となっています。
 
 この映画、上映時間が31分で、料金が一律で1000円でした。子どもも、学生も、一般の社会人も、シニアも、みんな平等に1000円です。そのことにもちょっと驚きましたが、観客がけっこう入っていたことにはもっと驚きました。31分の短編映画が興行として成り立つことは意外でしたが、映画の内容は完全に「男の世界」で、女嫌いを意味する「ミソジニー」の世界そのものでしたね。第一、この映画には女性が一切登場しません。
 
 一条真也の読書館『映画の構造分析』で紹介した哲学者の内田樹氏の著書には、ミソジニー映画について詳しく考察されています。同書の第3章「アメリカン・ミソジニー――女性嫌悪の映画史」では、その冒頭を内田氏は「アメリカの男はアメリカの女が嫌いである。私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文化は地上に存在しない。珍しいことに、この点については、多くのフェミニストが私と同意見である」と書きだしています。
 
 ほとんどの点で内田氏とは意見を異にするという『抵抗する読者』を書いたジュディス・フェッタリーも、この点については同意見で、「アメリカ文学は男の文学である。古典的アメリカ文学と今日考えられている作品群を読むことは、おそらく自分が男であると認識することでもあろう。(...)アメリカ文学は男の文学なのである。わたしたちの文学は、女をほうっておきもしないし、かといって参加させるわけでもない。わたしたちの文学は、その普遍性を主張するときですら、男のことばでそれを定義するのだ。(...)アメリカは女であり、アメリカ人であることは男であること意味する。そしてもっとも重要なアメリカ的経験は、女を裏切られることである」と述べます。フェッタリーによれば、アメリカ文学はその発生の瞬間からすでに女性嫌悪的だったとか。
 
 1980-90年代に限って言えば、日本ではあからさまに女性嫌悪的な映画で興行的に成功したものは存在しないとして、内田氏は「誰でも知るとおり、この時期に日本映画で圧倒的なポピュラリティを獲得したのは、自然と文明を媒介する魅力的な少女たちを主人公に据えた宮崎駿の映画群である。宮崎の映画には、ハリウッドが量産している種類の定型的な『嫌悪される女性』は1人も登場しない(かろうじて『ルパン三世・カリオストロの城』の峰不二子がいるが、彼女は最初から最後まで、どんな男にも権威にも服しないスタンドアローンの「不死身」の女賊であり、その点ではハリウッド映画的ではない。『風の谷のナウシカ』のクシャナも、『もののけ姫』のエボシ御前も、「悪女」系のキャラクターではあるが、彼女たちは男に屈服しないし、最後に死ぬわけでもない。これではアメリカ的基準からする「いい女」には入らない)」と述べます。
 
 さまざまな女性嫌悪ストーリーをチェックしているうちに、内田氏はそれがどのような説話原型を好むのかということがだんだんと分かってきたそうです。もっとも頻繁に反復される話型は次のようなものであるといいます。
(1)「男のテリトリー」に女性が侵入してくる。
(2)この女性は何らかの権威(地位、富、情報、そして一番多いのが「父親の権力」)ゆえに、参入を許される。
(3)男(たち)はこのテリトリー侵犯を不快に感じるが、受け容れざるを得ない。
(4)この女性は男たちの世界の秩序を揺るがせる(しばしばこの女性は複数の男性にとっての欲望の対象となり、その競合の中で男たちの団結が破壊される)
(5)男(たち)は団結して、女性を排除し、世界はふたたびもとの秩序を回復する。
 
 そして、この説話のもっとも典型的な1つがMGMミュージカル「私を野球につれてって」(Take Me out to the Ball Game,1949)だといいます。内田氏は、「これは表層的にはまったくそのような底意があるように見えない脳天気な恋愛ミュージカルであるが、私見によれば、『ハリウッド映画史上最悪の女性嫌悪映画』である」といいます。野球チームの新オーナーに就任した女性(エスター・ウィリアムス)がとりあえずレイプを免れているのは、男たちが自分の都合で(恋敵への遠慮やペナントレース終盤の緊張感から)「ちょっとだけ」我慢しているからなのであるという内田氏は、「男がその気になったらあっという間にレイプされてしまうだろうという彼女の無防備さが映画では執拗なまでに暗示される。ずいぶんいやな感じの映画だな、と見終わった私は思った」と述べています。フランク・シナトラとジーン・ケリーの2人も「ゲイのカップル」に見えるそうです。
 
 そして、「私を野球につれてって」と同年に公開された、これと酷似した状況設定を持つ映画があったことを思い出したという内田氏は、「私が思い出したのはジョン・フォードの『黄色いリボン』(She Wore a Yellow Ribbon,1949)である。ここではスターク砦という『男だけのテリトリー』に少佐の姪というやはり『アンタッチャブル』な女性がやってくる。彼女を欲望する若い将校たちのあいだの無用の鞘当てに、ジョン・ウェインの老大尉は不安を抱く。このエピソードは映画の中では点景にすぎず、物語の流れに深くは関与しない。しかし、『私を野球につれてって』と『黄色いリボン』が共有する状況に気づいたとき、私はそれが『歴史的事実』であることに気づいたのである。男だけの世界に女がやってきて、男たちの世界の秩序が崩壊する......それは西部開拓のフロンティアに頻繁に見られた風景だったからである」と述べます。
 
 アメリカ開拓の最前線には、当然のことながら、女性の数が少なかったです。場所によっては数百の男に対して女性が1人というような比率の集団も存在したと指摘し、内田氏は「それがアメリカにおける『レディ・ファースト』という女性尊重のマナーの起源であるということを私はこれまでに何度か聞かされたことがある。女性尊重のマナーは男女比率の圧倒的な差から説明される。それと同じく、女性嫌悪もこの統計的事実から証明されるのではないかと私は考えるのである」と述べます。また、「フロンティアの男たちのほとんどは生涯に娼婦以外の女を知らずに死んだ。例えば、ワイアット・アープは19世紀終わりから20世紀にかけてを西部で過ごした。彼の時代にはすでにフロンティアは消滅していたし、アープ兄弟は世俗的な基準からすれば成功者であったが、それでもアープ兄弟は3人とも娼婦を妻にするしかなかった」とも述べています。
 
 今から100年ほど前まで、アメリカ西部においては、「1人の女性の性的リソースを1人の男性が永続的かつ独占的に使用する」ということは非常に実現が困難なことだったのです。それは実に貴重な「財」だったのです。著者は、「女性が希少な『財』であったからこそ、開拓時代の夫婦関係は、ずいぶんと非情緒的なものであった。別にこれはアメリカに限ったことではない。ヨーロッパでも、ごく最近まで、夫婦関係は特別に情緒的な結びつきを要さなかった。エリザベート・バダンテールによれば、19世紀フランスにおいても『家の中にまだ生あたたかい遺骸があるうちから、妻を失った夫も、夫を失った妻も、すでに再婚のことを考えていた』のである。その点では『シルバラード』のロザンナ・アークエットの若妻が、『生あたたかい』夫の遺骸の横で、さっそく再婚相手の物色を始めるのは、ナチュラルな対応だったのである」と述べます。
 
 100年前のアメリカ西部で「女に選ばれなかった」ということは、重大なことでした。「選択に洩れる」ということは、それまでの開拓者として孜孜としてその獲得につとめてきた人間的価値に疑問符が付されたということを意味するからです。内田氏は、「これは深い傷を開拓者たちに与えたはずである。このトラウマを癒さなければ、西部開拓をドライブしているエートスそのものが破綻する危険がある。そこで人々はある物語を創り出す必要に迫られたのである。物語はそれほど複雑な作りものである必要はない。それは次のような物語である。『女は必ず男の選択を誤って「間違った男」を選ぶ』『それゆえ女は必ず不幸になる』『女のために仲間を裏切るべきではない』『男は男同士でいるのがいちばん幸福だ』」と述べています。
 
 このような定型的な説話原型をストーリーボードに書くと、「男たちの集団に1人の女が現れる。彼女は男を『選ぶ』権利を与えられている。男たちは彼女をめぐって競合する。最終的に1人の男が彼女を獲得する。だが、その男は、彼女を棄てて、男たちのもとに戻ってくる。女は不幸になり、男たちの共同体は原初の秩序を回復する。終わり」という映画が出来上がります。これが「アメリカン・ミソジニー物語」の定型であり、この定型をハリウッド映画は実に執拗に、強迫的に反復し続けてきたというのです。これを読んで、わたしは一条真也の映画館「パワー・オブ・ザ・ドッグ」で紹介した2022年のネットフリックス映画を連想しました。第94回アカデミー賞で最多最多11部門12ノミネートを果たした最新作にまで「アメリカン・ミソジニー物語」の定型が生き続けているとは!
 
 さらに、内田氏は「この『女性を獲得する、間違った男』の肖像はこうしてアメリカ男性にとってアンビバレントな『理想我』、あるいは『自我のダークサイド』として人格の中に構造的にビルトインされてゆく。そして、その結果『女を首尾良く手に入れた男』は、自分の設定したルールに縛られて、やがて『女を棄てること』は自分の不可避の義務であると感じるようになるのである。ハリウッド映画は、こうしてまったく定型的な物語を、『カサブランカ』(Casablanca,1943)から『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid,1969)を経て『バンディッツ』(Bandits,2001)に至るまで、飽きることなく語り続けている」と述べています。その意味で、「ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ」はまさに"ザ・ミソジニー映画"でありました。