No.941


出版関係の打ち合わせを終えた後、ヒューマントラストシネマ有楽町でデンマーク・フランス・メキシコ合作映画「夏の終わりに願うこと」を観ました。"THE・グリーフケア映画"と思って鑑賞した作品ですが、想像していた内容とは違いました。それほど感動もできませんでしたね。
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「父親の誕生パーティーに参加したある少女の姿を捉えた人間ドラマ。病気で療養中の父親との再会を喜ぶ少女の、一日を通して変化する心の揺れを描き出す。監督などを手掛けるのはリラ・アビレス。ナイーマ・センティーエスのほか、モントセラート・マラニョン、マリソル・ガセ、マテオ・ガルシアらがキャストに名を連ねる。第73回ベルリン国際映画祭でエキュメニカル審査員賞を受賞した」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「病気で療養中の父親トナの誕生パーティーに出席するため、7歳のソル(ナイーマ・センティーエス)は祖父の家を訪れる。父親との久しぶりの再会に心躍らせるソルだったが、なぜか父親にはなかなか会わせてもらえず、いら立ちや困惑ばかりが募っていく。ついに父親と念願の再会を果たしたソルは、これまでにない感情を覚える」
 
 わたしは、この映画を祈るような気持ちで鑑賞しました。というのも、この映画の主人公である7歳の少女と同じく、わたしも父との別れを予感しているからです。もちろん、わたしは少女ではありませんし、わたしの父もソルの父親トナのように若くはありません。しかし、いくら性別や年齢が違っても、親との別れというのはこの上なく悲しいものです。そもそも、最も親しい関係だから「親」というのです。最も親しい者との別れは、最も悲しいです。ちなみに、末期がん患者であるトナは病院ではなく自宅療養なのですが、わたしの父も自宅で療養しています。
 
 この映画、正直わたしは苦手です。 冒頭からいきなりソルの母親が公衆便所で小用を足すシーンから始まります。それがリアルな音入りで、一気に引きました。なぜ、映画の冒頭にこんなシーンを入れる必要があるのか? これが男性監督なら、まだ「変態かよ?」で済みますが、女性監督なだけにそうもいきません。きっと、監督は「この映画はリアリズムの映画です。綺麗事を期待しないで!」というようなことを言いたいのでしょう。事実、その後も、声帯のないソルの祖父が機械を通して無機的な声を出し続けたり、霊媒がゲロを吐いたり、姉妹がガチの喧嘩をしたりとリアリズム満載でしたが、どうにも暗い気分になりました。リアリズムの表現として、人が不快となる表現でしか表せないことは映画監督として未熟なような気がします。人が死ぬというリアリズムの最大の題材を扱っているのに「なぜ?」と感じてしまいます。
 
 ソルの父親トナの病状や介護の場面もリアルでした。トナがなかなかソルに会おうとしないのでソルは「パパは、わたしに会いたくないのかな?」と思って落ち込みますが、やっと会えたとき、父があまりにも痩せてしまったことにショックを受けます。そのとき、トナは「おまえに会わなかったのは、こんなに痩せた姿を見せたくなかったからだよ」と言うのですが、このシーンには泣けました。わたしの父もすっかり痩せて別人のようになってしまったからです。映画の終わりで、父の誕生パーティーで虹色ピエロに扮したソルの姿は、病に苦しむトナを解放してあげようとする天使のようでした。
 
 この映画は、幼いときに父親をガンで亡くしたリラ監督の実の娘に向けて制作されたそうです。「Numero TOKYO」のインタビューで、リラ監督は、「本作にはいろいろな要素が含まれていますが、一番描きたかったのは人生についてで、コミュニケーション、人間関係の美徳、自然との交わりについての映画を作りたいと思っていました。今、私たちは外側にあるものに没頭するあまり、内側にある本質に目を向けることを忘れがちです。みんなで協力し合わなければ成り立たない社会にいるのに、動物や自然、家族、友人、そして自分自身に対する敬意を持たなければならないことを理解していません。『夏の終わりに願うこと』は、"家"や"家庭"という感覚に対する、私の探究心に応えるものとして生まれました」と語っています。とはいえ、その探求心は一人よがりな表現に陥ってしまったように感じてしまうのが残念でなりません。