No.942


 8月23日の早朝に水天宮のホテルで出版の打ち合わせをした後、互助会保証の株主総会が始まるまでの時間を利用して、ヒューマントラストシネマ有楽町でデンマーク映画「ぼくの家族と祖国の戦争」を観ました。"THE・コンパッション映画"と呼ぶべき感動の名作でした。
 
 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「第2次世界大戦末期、デンマークにドイツ人難民が押し寄せた史実に着想を得た人間ドラマ。ナチスドイツ占領下のデンマークで難民の受け入れを強制され、飢えや病気に苦しむ彼らの窮状を目の当たりにした家族が、周囲が敵視するドイツ人を救うべきか否か葛藤する。監督・脚本を務めたのは『バーバラと心の巨人』などのアンダース・ウォルター。『ある戦争』などのピルー・アスベックをはじめ、ラッセ・ピーター・ラーセン、カトリーヌ・グライス=ローゼンタールらが出演する」
 
 ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「第2次世界大戦末期の1945年4月、ナチスドイツ占領下のデンマーク。市民大学の学長・ヤコブ(ピルー・アスベック)は、ドイツ本国から押し寄せてくる大勢の難民受け入れを命じられ、やむなく彼らを体育館に収容する。飢えや感染症のまん延に苦しむ難民の窮状を見かね、ヤコブと妻・リス(カトリーヌ・グライス=ローゼンタール)は救いの手を差し伸べようとするが、それは同胞から裏切り者と見なされ得る行為だった。周囲の誰もが敵視するドイツ人を救うべきか否か、一家は究極の決断を迫られる」
 
 この映画は、まずナチスドイツやドイツ国民が迫害に遭うという設定が新鮮でした。ナチスやヒトラーを題材とした映画の数は多いです。 一条真也の読書館『ナチス映画史』で紹介した馬庭教二氏の著書によれば、近年、ヒトラーやナチスを題材とする映画が多数製作、公開されています。2015年から2021年の7年間に日本で劇場公開された外国映画のうち、ヒトラー、ナチスを直接的テーマとするものや、第2次大戦欧州戦線、戦後東西ドイツ等を題材にした作品はざっと数えただけで70本ほどありました。この間毎年10本、ほぼ月に1本のペースでこうした映画が封切られていたことになるわけで、異常なまでの数の多さです。

 さすがにネタ切れになってきたため、新手のネタとして一条真也の映画館「関心領域」で紹介したアメリカ・イギリス・ポーランド映画、一条真也の映画館「フィリップ」で紹介したポーランド映画、一条真也の映画館「お隣さんはヒトラー?」で紹介したイスラエル・ポーランド映画のような作品が生まれました。これだけ、ナチスやヒトラーの映画が作られ続けるのは、それがユダヤ人にとってのグリーフケアだからではないかと思います。しかしながら、現在、ユダヤ人国家であるイスラエルは、子どもを含む多くのパレスチナ人を殺戮しており、これまでのナチス批判が虚しく感じられます。
 
 第二次大戦前に、ウクライナなど東欧各地に入植していたドイツ系住民は、ナチスドイツの敗戦にともない、住処を終われ難民となりました。その数は1200万人にのぼったといいます。難民の移動は大戦末期から、ソ連の進攻に追われて始まっていましたが、ドイツにはそれを受け入れるだけの余裕はありませんでした。占領していた周辺各国に受け入れを強制した。デンマークには25万人のドイツ難民が流入し、うち500人以上が、主人公の少年セアンの父親ヤコブが学長を務める市民大学に割り当てられました。しかし、ドイツ軍は自国の難民に十分な食料や医薬を調達する余力はなく、難民たちは疫病の蔓延で窮地に陥っていきます。体育館に詰め込まれた難民たちの間では飢えと感染症が蔓延していくのでした。
 
 セアンは、難民孤児の少女・ギセラと心を通わせるようになりますが、その彼女もジフテリアに侵されてしまいます。彼女を救うべきか、祖国に従うべきか、セアンとヤコブは決断を迫られます。最初は、父をナチスに殺された音楽教師ビルクに協力してレジスタンスの手助けをするセアン。人道的見地および自国民への感染を防ぐ目的からドイツ人に医療を施す父親を憎むセアン。そして、いじめに遭った自分を優しく助けてくれたギセラの命を救おうと勇敢に行動するセアン......いずれの場面も見事に演じ切った子役ラッセ・ピーター・ラーセン の存在感が素晴らしかったです。彼はデンマーク出身。演技未経験でありながら、本作のオーディションを勝ち抜き長編映画デビューを果たしまし。「北欧のリヴァー・フェニックス」と呼ばれているとか。確かに、雰囲気がよく似ていますね。
 
 難民の受け入れという突然の非常事態に見舞われた大学長ヤコブと妻リスは、たちまち究極のジレンマというべき選択を迫られていきます。周囲の誰もが敵視するドイツ人を救うべきか否か。売国奴と罵られることを恐れ、飢えと病気に苦しむ子供を見過ごしてもいいのか。ヤコブ一家は戦争という巨大な暴力に脅かされるだけでなく、隣人たちの憎悪にも苦しめられます。20世紀は、とにかく人間が大量に殺された時代でした。20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上といいます。なぜ、それほど多くの人間が殺されたのか。イデオロギー、植民地帝国主義の遺産、野心、欲望、狂気など、さまざまな理由が考えられますが、わたしは人間の持つ最もネガティブなエネルギー、すなわち「憎悪」の存在が大きいと思います。ダライ・ラマ14世は、「人間の苦しみの多くは、その根に破壊的感情があります。憎しみは暴力を増長し、異常なまでの渇望は人を悪癖に溺れさせるのです」と語ります。ハートフル・ソサエティ』と『心ゆたかな社会
 


ハートフル・ソサエティ』(三五館)および『心ゆたかな社会』(現代書林)という2冊の拙著でも紹介しましたが、ピュリッツァー賞を受賞したアメリカの作家ラッシュ・W・ドージア・ジュニアは、「『憎悪』は心の核兵器である」と言いました。爆発すれば社会秩序を吹き飛ばし、世界を戦争とジエノ集団サイド殺戮のうず渦に引き入れます。「憎悪」は、人と人との関係を粉々に打ちくだきます。かつて愛しあった人びとが憎悪ゆえにたがいに背を向け、傷つけあい、はては殺しあいさえする。憎悪の爆風は道徳と寛容の心を一掃して人を残虐な行為に駆りたて、集団と集団を争わせ、とどまるところを知らない戦いに巻き込みます。映画「ぼくの家族と祖国の戦争」は、そんな憎悪の怖ろしさをよく描いていました。何よりも恐ろしいのは、、ウクライナやパレスチナ・ガザ地区のニュースに接し、第二次世界大戦から80年が経過していても、世界が憎悪の連鎖のさ中にあるという現状です。
 
 ブログ「ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命」で紹介したイギリス映画では、ナチスの手からユダヤ人の子供たちを守ろうと、彼らをチェコスロバキアからイギリスに避難させたイギリスの人道活動家ニコラス・ウィントンの奮闘を描いた伝記ドラマです。ウィントンの行為を表現するなら、「人道的行為」そのものでした。人道とは、人間として守るべき道のことです。「人の人たる道」とも言われます。人道の観点から無視できないような問題を「人道問題」と言います。「人道」の語は人道主義(ヒューマニズム)にも含まれています。儒教思想における「人道」は「天道」に対比させられる概念でした。『論語』にある「義を見てせざるは勇なきなり」は、まさに「人道」に関する言葉です。そして、映画「ぼくの家族と祖国の戦争」に登場するデンマーク人ヤコブの一家も、まさに「人道」に生きるファミリーでした。
 
「ぼくの家族と祖国の戦争」の舞台は、デンマークです。デンマークといえば、「童話の王様」と呼ばれたアンデルセンの国です。彼の代表作の1つである「マッチ売りの少女」をわたしは人道的童話であると考えています。雪の降るおおみそかの晩、街をさ迷うみすぼらしい身なりのマッチ売りの少女がいました。少女は寒さのあまり、1本も売れなかったマッチをともして暖をとろうとします。マッチをともすたびに、きれいな部屋、ごちそう、クリスマスツリーなどの不思議な光景が浮かんできます。そして最後には、亡くなったはずの懐かしいおばあさんの姿が浮かんできました。翌朝、街の人々は少女の亡骸を目にします。最後には、こう書かれています。「この子は暖まろうとしたんだね。と、人々は言いました。けれども、少女がどんなに美しいものを見たかということも、また、どんな光につつまれて、おばあさんといっしょに、うれしい新年をむかえに、天国にのぼっていったかということも、だれひとり知っている人はありませんでした」(矢崎源九郎)
サンデー新聞」2009年12月19日号



 この短い童話は、いろんなことをわたしたちに教えてくれます。まず、「死は決して不孝な出来事ではない」ということ。伝統的なキリスト教の教えではありますが、「マッチ売りの少女」は、「死とは、新しい世界への旅立ちである」ことを気づかせてくれます。さらに、この物語には2つのメッセージが込められています。1つは、「マッチはいかがですか?マッチを買ってください!」と、幼い少女が必死で懇願していたとき、通りかかった大人はマッチを買ってあげなければならなかったということです。少女の「マッチを買ってください」とは「わたしの命を助けてください」という意味だったのです。これがアンデルセンの第1のメッセージでしょう。第2のメッセージは、少女の亡骸を弔ってあげなければならないということ。行き倒れの遺体を見て見ぬふりをして通りすぎることは人として許されません。死者を弔うことは人として当然です。そう、「生者の命を助けること」「死者を弔うこと」の2つは、国や民族や宗教を超えた人類普遍の「人の道」です。
 
 映画「ぼくの家族と祖国の戦争」では、感染症に冒され、どんどん死んでいくドイツ人の子どもたちに(ヤコブ一家を除く)デンマーク人たちは医療的処置を施さず、見殺しにしました。これは、アンデルセンの第1メッセージに反します。また、デンマーク人たちはドイツ難民たちの亡骸を教会の墓地に埋葬せず、離れた場所に大きな穴を掘って死体を乱暴に放り込んでいました。これは、アンデルセンの第2メッセージに反します。そもそも、キリスト教には「汝の敵を愛せよ」という言葉があります。『新約聖書』の「マタイ伝」に登場するイエスの言葉で、「神があらゆる者を愛するように、人間も、たとえ敵であっても愛すべきだ」という教えです。 ドイツはカトリック、デンマークはプロテスタントが信仰の中心ですが、イエス・キリストの教えに基づいているのは共通しているはずです。わたしは、この映画でセアンが心を通わせていく少女ギセラが「マッチ売りの少女」に見えました。そして、ギセラの命を救おうとする少年セアンと父ヤコブの勇気ある行動は、デンマークが生んだ偉人であるアンデルセンの志を受け継ぐものであったと思います。
コンパッション!』(オリーブの木)



 そのアンデルセンの志は「コンパッション」の一語に集約できます。拙著『コンパッション!』(オリーブの木)の中に収められているコラム「コンパッションが求められるわけ」において、宗教学者で東京大学名誉教授の島薗進先生は、コンパッションについて「キリストが受難によって人々を救ったように、他者の苦難に寄り添い、支えようとするような心の姿勢を指している。この言葉は『ケア』という言葉とも関係が深い。現代社会は人が孤立しやすく、居場所がなくなるように感じることが生じやすい。ケアが枯渇しがちな社会と言える。そのようなケアの不足を超えようとするところにコンパッションが求められる」と述べておられます。直訳すれば「思いやり」ということになる「コンパッション」は、キリスト教の「隣人愛」、儒教の「仁」、仏教の「慈悲」など、人類がこれまで心の支えにしてきた思想にも通じます。戦争という業から逃れることができない人類が存続していく最大のキーワードこそが、「コンパッション」なのです!