No.905
ポーランド映画「フィリップ」をイオンシネマ戸畑で観ました。一条真也の映画館「ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命」で紹介した実話に基づくホロコースト映画を前日に観たばかりでしたが、改めてユダヤ人問題の複雑さを知った気がします。主人公フィリップのグリーフは描かれていましたが、そのケアは決して描かれませんでした。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「レオポルド・ティルマンドによる自伝的小説を原作に描く人間ドラマ。第2次世界大戦下のポーランドとドイツを舞台に、ユダヤ人としての素性を隠して生きる青年を映し出す。監督などを手掛けるのはアンジェイ・ワイダ監督の『残像』などに携わってきたミハウ・クフィェチンスキ。エリック・クルムのほか、『カタコンブ~地下墓地の秘密~』などのヴィクトール・ムーテレ、ゾーイ・シュトラウプ、サンドラ・ドルジマルスカらが出演する」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「1941年、ポーランド系ユダヤ人のフィリップ(エリック・クルム)は、ワルシャワのゲットーで暮らしていた。ある日、ゲットーで開催された舞台がナチスの銃撃を受け、恋人のサラや家族がフィリップの目の前で殺される。それから2年後、彼はフランス人と身分を偽り、フランクフルトにある高級ホテルのレストランでウェイターとして働きながら、ナチス将校の妻たちを誘惑することで復讐を果たしていた。そんなフィリップが、ドイツ人のリザ(カロリーネ・ハルティヒ)と出会い、愛し合う」
映画「フィリップ」は、とにかく暗くて救いのない内容でした。1941年、ポーランドはワルシャワのゲットーで暮らすフィリップは、ナチスによる銃撃によって、恋人のサラや家族、親戚を目の前で殺されてしまいます。2年後、フィリップはフランス人と偽り、フランクフルトにある高級ホテルのレストランでウェイターとして働いていました。ウェイター仲間にはドイツ人はおらず、みんなヨーロッパ各国から集められていましたが、ドイツ人を憎んでいました。それで、ドイツ人の総支配人が飲むコーヒーにみんなが唾を入れたりするのですが、このへんはホテルの経営者であるわたしは非常に不愉快でした。しかし、中には「自分は給仕係としての矜持から、そういうことはしない」と言い切る者もおり、救われた気がしました。
この総支配人のコーヒーに唾を入れる醜悪な行為もフィリップの発案ですが、この愚劣な行為からもわかるように、ユダヤ人である彼のナチスへの憎悪は歪んだ形でしか示されません。けっして、パルチザンの組織的抵抗活動をするといったものではなく、あくまでも個人的怨念よる個人的な欲求不満解消のような反抗です。その結果、夫が出征しているドイツ人の女性を誘惑して、性的行為をした後で捨てるといったことを繰り返します。しかし、それは大きなリスクを伴うことで、全裸になれば、彼は割礼を晒すことになります。つまり「密告」は女次第であり、ガス室選別の、運任せの尾根をフィリップは歩いてみせたのです。一方、相手のドイツ人女性も外国人と交わったことが明るみになれば、髪を切られ、殺されるケースもあるのでした。
『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』
映画「フィリップ」では、ユダヤ人は徹底的に迫害されます。迫害するのは、ドイツ人をはじめとするキリスト教徒です。なぜ、キリスト教徒はユダヤ人を差別・虐待するのか? それは、救世主イエス・キリストを殺したのがユダヤ人であるからです。『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)に詳しく書いたように、キリスト紀元の最初の1000年間で、ヨーロッパのキリスト教徒(カトリック)階層のリーダーたちは、 すべてのユダヤ人はキリストの処刑の責任を負いました。キリスト教徒たちは、ローマ人による神殿の破壊とユダヤ人が分散しているのは、過去の宗教上の罪と、ユダヤ人が自分たちの信仰を放棄してキリスト教信仰を受け入れなかったことに対する罰であるという教義を発展させました。そして、それを固定化させたのです。
ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のことを「反ユダヤ主義」といいます。「最も長い歴史を持つ嫌悪」と呼ばれる反ユダヤ主義は、2000年以上もの間、さまざまな形態で続いています。 国家社会主義者(ナチス)による人種的反ユダヤ主義は、ユダヤ人に対する嫌悪を極端なジェノサイドにまで発展させました。一方、ホロコーストは言葉や考え方( 固定観念、悪意のある風刺画、徐々に広がる嫌悪)と共に始まりました。「反ユダヤ主義」は本来、ユダヤ人に対する差別的な攻撃を指します。イスラエルの政策に対する批判は該当しないのですが、近年ではパレスチナ問題などイスラエルの政策への批判を建前にした反ユダヤ主義があるとされています。
映画「フィリップ」には、何度も何度もナチスの党旗が登場します。そこには「卐」、すなわち、ハーケンクロイツが描かれています。このハーケンクロイツがスクリーンに出てくるだけで、映画館が一気にナチス政権下のドイツに一変することに気づきました。まさに最強のシンボルと言えますが、もともと「卐」は悪のシンボルではありません。一条真也の読書館『卍とハーケンクロイツ』で紹介した中田顕實氏の著書によれば、「卍」および「卐」は、仏教やヒンズー教、ジャイナ教、あるいはアメリカン・インディアンにとって吉祥万徳を表すといいます。それが、アメリカやヨーロッパでは、ナチスの非道、残虐行為や現在の民族差別グループの影響で、東洋の吉祥万徳を表す卍・卐が不当なる扱いを受け自由にこのシンボルを使えないようになっているというのです。
この「フィリップ」を観た前日には、同じくナチスのユダヤ人迫害を描いた映画「ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命」を観たばかりです。それにしても、ナチスを題材とした映画の数の多さには驚きます。一条真也の読書館『ナチス映画史』で紹介した馬庭教二氏の著書によれば、近年、ヒトラーやナチスを題材とする映画が多数製作、公開されています。2015年から2021年の7年間に日本で劇場公開された外国映画のうち、ヒトラー、ナチスを直接的テーマとするものや、第2次大戦欧州戦線、戦後東西ドイツ等を題材にした作品は筆者がざっと数えただけで70本ほどありました。この間毎年10本、ほぼ月に1本のペースでこうした映画が封切られていたことになるわけで、異常なまでの数の多さです。さすがにネタ切れになってきたため、新手のネタとして一条真也の映画館「関心領域」で紹介したアメリカ・イギリス・ポーランド映画や本作「フィリップ」のような作品が生まれたという見方もできます。
ネタバレ覚悟で書くと、「フィリップ」の最後では、銃を手に入れたフィリップがナチスのパーティー会場を上方から乱射し、ナチスの将校を含む多くのドイツ人を殺します。この場面を見て、ちょっと、一条真也の映画館「SISU/シス 不死身の男」で紹介した2023年のフィンランド映画を連想しました。第二次世界大戦末期の1944年、ナチスドイツに国土を焼き払われたフィンランド。金塊を掘り当てた老兵アアタミ・コルピ(ヨルマ・トンミラ)はいてつく荒野を旅する途中、ブルーノ・ヘルドルフ中尉(アクセル・ヘニー)率いるナチスドイツの戦車隊に遭遇し、金塊も命も奪われそうになります。かつて祖国に侵攻したソ連兵を撃退した伝説の兵士であるアアタミは、持っていた1本のツルハシと不屈の精神"SISU"を武器に、次々と敵を血祭りに上げていくのでした。この「SISU/シス 不死身の男」は大きなカタルシスを与えてくれましたが、「フィリップ」の乱射シーンにカタルシスはありませんでした。フィリップは、ナチスの将校だけでなく、女性や子どもも無差別に殺害したからです。
いくら深い悲嘆を抱えていたとしても、わたしは無差別殺人を犯したフィリップに共感することはできませんでした。「ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命」の主人公であるニコラス・ウィントンはイギリスの人道活動家ですが、第二次世界大戦がはじまる直前、ナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所に送られようとしていたチェコスロバキアのユダヤ人の子どもたちおよそ669人を救出し、イギリスに避難させるという活動「チェコ・キンダートランスポート」を組織しました。見返りを求めずに他人の命を救う人は心から尊敬してしまいますが、ニコラス・ウィントンにしろ、オスカー・シンドラーにしろ、杉原千畝にしろ、ホロコーストというナチスの「非道」に対して「人道」をもって対抗したことが何よりも素晴らしいと思います。その点、フィリップの銃乱射という報復は「非道」に対する「非道」でしかありませんでした。
2023年1月8日、北九州市で開かれた「二十歳の記念式典」で、振袖に墨汁のようなものをかけられる事件が発生しました。少なくとも11件の被害が確認され、警察では器物損壊容疑で捜査を進めました。被害者の中には、わが社の松柏園ホテルでお世話させていただいたお客様も含まれていました。当日の全国ニュースに映った衣裳も、わが社のものでした。当日の夜、お客様のお母様からの連絡で「娘が大変ショックを受けていること」「実家の祖父母へ晴れ姿を見せに行く予定だったこと」を聞いた担当者は、なんとかこの悲しみをケアし、喜びに変えたいと思案。現場からの報告にわたしは、「コンパッションで行きなさい!」と即答しました。担当者はお客様への慰めの言葉に加えて、「ぜひとも新しい振袖を着て、ご実家に行きましょう!当ホテルで無償で準備をさせて下さい」と訴えた。テレビ各局からの取材を受けたお嬢様は、ホテルスタッフの対応に感謝の言葉を語られました。ホテルへはテレビ局からの取材が相次ぎました。
『コンパッション!』(オリーブの木)
「振り袖墨汁事件」の対応についての取材では、わが社が日頃より「コンパッション」をテーマに「お客様に寄り添った対応」を意識していること。事件自体は残念なことではあるが、「祖父母に晴れ着姿を見てほしい」という、お客様の優しい思いに寄り添った対応をすることを何よりも最優先したことなどを担当者が熱く語ってくれました。悲しい事件の中でも「優しさでの上書き」ができたことを各局とも大きく紹介して下さったのです。『コンパッション!』(オリーブの木)にも書きましたが、残念ながら人間は晴れの日の振袖に墨汁をかけるという非道な行為を行います。しかし、人間は困っている人にコンパッションを提供し、そのグリーフをケアすることもできるのです。「非道には人道をもって対抗すべき」というのがわが信条です。人類史上に残虐行為である「ホロコースト」と「振り袖墨汁事件」を同列に語ることなどできないことは重々承知していますが、「非道には人道を!」ということは重ねて、かつ声を大にして訴えたいと思います。