No.991
ネットフリックスでアメリカ映画「視線」を観ました。クロエ・オクノ監督が2022年に製作したサスペンス・スリラーで、原題は"Watcher"です。日本では劇場公開されておらず、ネットでの評価もかなり低いのですが、わたしはすごく面白いと感じました。この映画は、もっと評価されるべき名作です。もっとも、1人暮らしの女性にはあまりにも怖すぎるので、おススメできませんが。
「視線」は、夫の仕事の関係で夫フランシス(カール・グルスマン)の母の出身地ルーマニアに引っ越した主人公ジュリア(マイカ・モンロー)が、自分はストーカーに狙われているのではと不安と疑念に悩ませられる猟奇サスペンス映画です。夜、ジュリアは向かいのアパートの38号室の窓に男性の影を見ます。彼は、こちらをじっと見ているようでした。しかも、男は毎晩窓に立っているのです。ジュリアが手を挙げると、その男も手を挙げました。確実にこちらを見ており、彼女は底知れぬ恐怖を感じました。
ジュリアの周囲ではルーマニア語が飛び交いますが、アメリカ人である彼女には理解できません。劇中でルーマニア語で話されている場面では字幕が出ません。すなわち視聴者もジュリアと同じ立場であり、言葉の通じない異国の地で暮らす彼女の不安とストレスが少しは理解できます。かの夏目漱石でさえ、留学先のロンドンで神経衰弱になったとされていますが、ジュリアのストレスの大きさも想像ができます。しかも、近所では物騒な殺人事件が起きるなど不穏な様子で、ジュリアはますます不安になります。
1人で留守番をするのが退屈なジュリアは、ブカレストの街に出掛けます。ニューヨークで女優をやっていた彼女は、映画でも観ようと思い立ちます。ちょうど昔のアメリカ映画を上映している映画館があったので入ったとこと、館内はガラガラでした。前方中央の席に1人で座ったジュリアですが、後から彼女のすぐ後ろに1人の男性客が座ったことに気づきます。ガラガラの映画館で真後ろに座られる怖さ。恐怖に耐えきれず逃げ出すように映画館を出たジュリアでしたが、直後に訪れたスーパーでも怪しい男の姿を目撃するのでした。彼は、ストーカーなのか?
ジュリアが入った映画館で上映されていた作品は、オードリー・ヘップバーン主演の「シャレード」でした。スタンリー・ドーネン監督の1963年のアメリカ映画です。スキー場からパリの自宅へ戻ってきたレジーナ(ヘプバーン)を待っていたのは、離婚予定だった夫の死でした。葬儀の会場には見知らぬ3人の男が現れ、大使館では情報局長(ウォルター・マッソー)から、戦時中に夫が軍資金25万ドルを横領していた事を聞かされます。五里霧中のレジーナはスキー場で知り合ったピーター(ケイリ―・グラント)に助けを求めますが、彼もまた3人組の仲間だったのです。数々のミュージカルを手掛けてきたドーネンが、その洒落たセンスを活かして作り上げたミステリー・コメディの傑作です。わたしも大好きな作品です。
「シャレード」もそうですが、映画「視線」は、これまでの映画史を彩って来たサスペンス映画の名作たちの系譜を受け継いでいます。向かいの建物から部屋をのぞき見される。これは、アルフレッド・ヒッチコック監督の「裏窓」(1954年)の反対の設定となっています。「裏窓」は、アパートの1室を舞台に、ヒッチコックが映画技法の限りを尽くした屈指の人気作です。事故で足を怪我したカメラマンのジェフ(ジェームズ・スチュアート)は、車椅子に座ったままの退屈な毎日を送っていました。ある日、望遠鏡で向かいの住人を眺めていた彼は、セールスマンの口うるさい妻が姿を消したことに気づきます。夫の動向を観察したジェフは殺人事件だと確信するのでした。ジェフの恋人リザをグレース・ケリーが演じています。
視線をテーマにしたサスペンス映画ということでいえば、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の代表作であるイギリス・イタリア映画「欲望」(1966年)も思い出されます。カメラマンのトーマス(デヴィッド・ヘミングス)は、夜の公園で逢い引きしているカップルを盗み撮りしました。やがて男の方が姿を消したあと、女の方がトーマスのもとにやってきてネガを要求します。代償として女のヌードを撮らせてもらい、別のネガを渡して本物を現像した時、そこには女の逢い引き相手だった男性の死体が写っていました。アントニオーニがイギリスに渡って作り上げた異色作。サスペンス・スリラーを思わせる前半から、次第に不条理劇の様相を呈してくる後半まで、現実と虚構の境界線を見据えたあたりが映画「視線」にも通じますね。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
そもそも、映画を観るという行為自体に「視線」が伴っています。映画とは「視線の芸術」と言ってよいでしょう。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)でも紹介しましたが、古代の宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説があります。映画館とは人工洞窟であると言えるでしょう。そして、映画館という洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。ということは、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかならないのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。映画館に訪れるたびに死が怖くなくなります。
最後に、「視線」の主人公ジュリアを演じたマイカ・モンローを見たとき、「美しいけど、どこかで見たことあるなあ」と思っていたら、アメリカの名作ホラー映画「イット・フォローズ」(2014年)の主演女優でした。同作は、各国の映画祭で高い評価を獲得し、クエンティン・タランティーノも絶賛の声を寄せたホラーです。ある男と熱い夜を過ごす19歳のジェイ(マイカ・モンロー)でしたが、彼は突如として彼女を椅子に縛り付けて奇妙な告白をします。それは性行為をすることで、ほかの者には見えない異形を目にするようになり、彼らに捕まると殺されてしまう怪現象を相手にうつすことができるというものでした。さらに、その相手が異形に殺されたら怪現象は自身に戻ってくるというのです。メガホンを取るのは、新鋭デヴィッド・ロバート・ミッチェル。この映画の底知れぬ不気味さも「視線」に受け継がれているように思えました。