No.999
ネットフリックス・オリジナル映画「喪う」を観ました。原題は"His Three Daughters"です。疎遠だった三姉妹が、老いた父との最期の日々を過ごす物語です。ドラマはニューヨークの狭いアパート内で展開されていきますが、わたしも父を亡くして日が浅いこともあり、いろいろと考えさせられました。
映画com.には、以下の「あらすじ」があります。
「疎遠になっていた三姉妹が父の最期を看取るなかで関係を修復しようとする姿をつづったヒューマンドラマ。余命わずかな父親の世話をするため、ニューヨークの実家に久々に集まった三姉妹。反抗期の娘を抱える厳格な長女ケイティ、幼い娘と初めて離れて過ごす自由奔放な三女クリスティーナ、そしてずっと父親のもとで暮らしてきた次女レイチェルは大麻とスポーツ賭博に興じてケイティをいらつかせる。父の死が迫るなか、それぞれ価値観の異なる3人は不平不満を噴出させるが......」
「ゴーストバスターズ アフターライフ」(2021年)のキャリー・クーンが長女ケイティ、ドラマ「ポーカー・フェイス」(2024年)のナターシャ・リオンが次女レイチェル、ドラマ「ワンダヴィジョン」(2021年)のエリザベス・オルセンが三女クリスティーナを演じました。監督・脚本は「ラバーズ・アゲイン」(2017年)、「フレンチ・イグジット さよならは言わずに」(2020年)のアザゼル・ジェイコブス。Netflixで2024年9月20日から配信されています。
「Real Sound」の「Netflix映画『喪う』が描く深い人間ドラマ "名作"の濃密かつ繊細なアプローチを紐解く」という記事で、映画評論家の小野寺系氏は、「喪う」は辛辣でリアリティある人間ドラマであり、ウディ・アレン監督の「インテリア」(1978年)に通じると指摘しています。同作は、アレン初のシリアスドラマです。舞台はNYでもマンハッタンでもなく、ロングアイランドの高級住宅地。いかにも落ち着き払った環境に住む、30年連れ添った両親に突然別居話が持ち上がります。ショックで、インテリア・デザイナーの母は自殺未遂。3人の娘たちは、愛人を作った父の無責任をなじりますが、父の連れてきたその人は不思議な個性の持ち主でした。あらためて、娘たちは夫と妻、親子の関係を問いただすのでした。確かに、三姉妹の葛藤の物語である「インテリア」は「喪う」に影響を与えていると思います。
また小野寺氏は、「喪う」には、日本の小津安二郎監督による、ありふれた家庭の姿を描いた作品に近いものがあると指摘し、「小津作品は、日本の家庭のしみじみとしたあたたかさを描いたものだというイメージを持たれることもあるが、じつは多くの作品で、家族の関係におけるいびつさや欺瞞などを、こわいほどに批判的に描いている。例えば『東京物語』(1953年)では、血のつながりよりも個々の人間性が人と人との関係において重要であるということを描いている。本作『喪う』は、これらの作品と比較するとややマイルドな表現で、娘たちを作中でフォローもしているが、同時に血のつながりというものが人間関係のなかで最も強いものであるとは限らないという見方において、『東京物語』などのテーマと共通しているところがあるといえよう」と述べています。わたしも同意見です。
わたしは「喪う」を観て、日本映画をもう1本連想しました。一条真也の映画館「エンディングノート」で紹介した2011年のドキュメンタリーです。1人のモーレツ・ビジネスマンが67歳で退職後、がんの宣告を受けます。毎年の健康診断は欠かさなかったのですが、がんはすでにステージ4でした。段取り人間として知られた主人公は、その集大成として、自身の葬儀までの段取りを記したエンディングノートを作成するという映画です。砂田麻美監督は主人公の三女ですが、最後の最後までカメラを回し続けていることに、わたしは軽い衝撃を覚えました。また、砂田監督はこの映画のナレーションも担当していますが、淡々とした語り口で、とても良かったです。
在宅治療の大変さが描かれる
「エンディングノート」は、子どもたちが「死」を学ぶ教育映画として、遺族の悲しみを癒すグリーフケア映画として、また余命宣告を受けた人が心安らかに「死」を迎える覚悟の映画として、あらゆる人々に観てほしい名作でしたが、「喪う」にも同じことが言えます。もっともドキュメンタリーである「エンディングノート」と違って「喪う」はドラマ映画ですが、大切な家族を看取るというテーマは共通しています。「喪う」の父親は、病院への入院を希望せず自宅療養を望みました。また、延命措置なども拒否していました。わたしの父もまったく同じだったのですが、やはり自宅での療養は大変です。わたしの妻が献身的に支えてくれましたが、彼女も過労で倒れたこともあり、本当にギリギリでした。妻にはとても感謝しています。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
「エンディングノート」は拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で紹介しました。多くの映画には「死」が描かれています。すると、「喪う」の中に映画の中の「死」はニセモノだという発言がありました。三女クリスティーナが幼いときに父と映画を観たとき、父がすごく取り乱したことがあったそうです。それは映画の登場人物が死んだときで、父は「この映画で描かれている死は、現実の世界で起こる死とは全然違う。本や映画の中で表現されている死は、全部間違っている。死っていうのは言葉や映像なんかじゃ表すことができない。全部ウソっぱちだ」と言ったというのです。さらに父は、「死というものを感じる唯一の方法は、不在を実感することで、それ以外の方法は全部幻想だ」と言ったそうです。
亡き父の椅子に座って不在を実感する
この父親の発言には、賛同できる部分とできない部分の両方があります。まず、本や映画でも「死」を描くことは可能だと思います。「死」はリアルそのものですが、小説や映画はリアル以上にリアルに表現することが可能ではないでしょうか。それを「芸術」というのです。しかし、「死を感じる唯一の方法は、不在を実感すること」という指摘には大いに納得しました。じつは、昨年9月20日に父が逝去しましたが、亡くなった瞬間とか葬儀や「お別れの会」のときよりも、会社の式典にいつも父と2人で入場していたのに、わたし1人で入場したときに不在を感じました。また、今年の元旦に実家を訪ねたとき、生前の父が座っていた椅子にわたしが座ったのですが、そのときも不在を強く感じました。「喪う」の中でも、父の死後、三姉妹が父がこと切れた椅子に座ってみるシーンがありました。そのとき、彼女たちも父親の不在を感じたのでしょう。
父の死が姉妹の絆を強めた
三姉妹の父親の姿はずっと見えないのですが、終盤でいきなり登場します。それが太っていて、血色も良く、とてももうすぐ死にそうな末期がんの患者には見えませんでした。ましてや、リンゴのすり潰したものしか喉を通らない(という設定でした)重篤の病人にはとても見えません。要するに、リアリティがまったく無いのです。わたしの父は亡くなる1ヵ月前ぐらいはほとんど食事を取らず、ときどき桃を少しだけ口にしていたことを思い出しました。「喪う」のラスト近くで、三姉妹の父が予想外の行動を取って驚きました。それまでの物語をすべて破壊するような行動で、わたしは「これは現実なのか」と思いましたが、やはり現実の出来事ではありませんでしたね。父の死は三姉妹の絆を強めましたが、わが父の死も、わたしの家族や弟の家族の「こころ」を1つにしてくれたと思います。