No.1044
4月4日から公開のアメリカ映画「HERE 時を越えて」をシネプレックス小倉で観ました。映画サブタイトルの通りにまさに「時を越える」作品でしたが、実験映画の色が濃く、エンターテインメント性に欠けるように思いました。わたしの席の近くの老人は何度も大きなアクビをしていましたし、わたしも途中1時間ぐらい退屈でした。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『フォレスト・ガンプ/一期一会』などのロバート・ゼメキス監督とトム・ハンクスが再び組み、リチャード・マグワイアのグラフィックノベルを原作に描くヒューマンドラマ。地球上のある場所に固定されたカメラを通して、そこで生きるある家族の物語を中心に映し出す。『再生の地』などのロビン・ライト、『フランクおじさん』などのポール・ベタニーのほか、ケリー・ライリー、ミシェル・ドッカリーらがキャストに名を連ねる」
ヤフーの「あらすじ」は、「1945年、戦地から戻ったアル(ポール・ベタニー)と妻のローズ(ケリー・ライリー)は家を購入し、やがて息子のリチャード(トム・ハンクス)が誕生する。絵を描くのが上手でアーティスト志望のリチャードは、別の高校に通学するマーガレット(ロビン・ライト)と出会い恋に落ちる。マーガレットは高校卒業後に大学へ進学して弁護士を目指すはずだったが、予想外の人生が彼らを待ち受けていた」となっています。
原作は、リチャード・マグワイアのグラフィックノベル『HERE ヒア』。アマゾンには、「窓と作りつけの暖炉のほかには何もない部屋、左上には2014年という数字。ページをめくると、1957・1942・2007......と様々な年代の同じ空間が現れ、さらに異なった年代の断片が共存・混在していく。そして紀元前30億50万年から22175年まで、ある家族の記憶の数々が地球の歴史と一体となって圧倒的なビジュアルで奏でられていく」「ある部屋の一角の物語であり、地球の黎明期から遥かな未来まで、この空間で起こる無数の出来事の物語である。コミック形式の画期的なヴィジョンの完成形として、このジャンルの最大の発明家の一人が送りだす、まったく新しい文学、究極のグラフィック・ノヴェル/アート・ブック、そして深遠なる哲学の書にして驚異の書物がついに登場!」と紹介されています。
「HERE 時を越えて」は、地球上のある地点にカメラを固定し、その場所に生きる幾世代もの家族の愛と喪失、記憶と希望を描いています。恐竜が駆け抜け、氷河期を迎え、オークの木が育ち、先住民族の男女が出会います。やがてその場所に家が建てられ、いくつもの家族が入居しては出ていきます。1945年、戦地から帰還したアルと妻ローズがその家を購入し、息子リチャードが誕生。世界が急速に変化していく中、絵を描くことが得意なリチャードはアーティストを夢見るのですが、高校生になって別の学校に通う弁護士志望のマーガレットと恋に落ちるのでした。それぞれの時代の、それぞれの家族の物語は悪くないのですが、時系列ではなく、やたらと時間が逆行したりするので、非常に混乱しました。思ったのは、「結局、人類の歴史とは、結婚と出産と死の連続だ」ということです。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)に書きましたが、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると考えています。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。すなわち、写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ映画の誕生以来、時間を超える物語を描いたタイムトラベル映画が無数に作られてきたのでしょう。
タイムトラベル映画といえば、ロバート・ゼメキス監督は1985年の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のヒットで監督として名をあげたことで知られます。同作はタイムマシンで「時を越える」物語でした。1985年、友人の科学者ドク(クリストファー・ロイド)と知り合った高校生マーティ(マイケル・J・フォックス)は、彼が愛車デロリアンをベースに開発したタイムマシンを見せられます。試運転を始めようとしたところに、ドクに恨みを持つテロ集団が襲い掛かります。銃弾を浴びて倒れる彼を見たマーティはデロリアンで逃げ出し、そのまま1955年にタイムスリップ。デロリアンの燃料切れで1985年に戻れなくなったマーティはその時代に生きるドクに助けを求めて帰ろうとしますが、まだ高校生である母親に惚れられてしまうのでした。
また、ロバート・ゼメキス監督の代表作には、1994年の「フォレスト・ガンプ/一期一会」があります。アカデミー作品賞・監督賞を受賞しましたが、主演がトム・ハンクスでした。「HERE 時を越えて」は、ロバート・ゼメキス監督とトム・ハンクスが30年ぶりにタッグを組んだ映画なのです。「フォレスト・ガンプ/一期一会」は、知能指数は人より劣るが、足の速さとその誠実さは天下一品という一風変わった主人公フォレスト・ガンプの半生を、時代を象徴する"事件"とヒット・ナンバーで綴った心暖まるヒューマン・ファンタジーです。スペンサー・トレイシーに次いで、ハンクスが2年連続主演男優賞を取った他、アカデミー賞では、作品・監督・脚本といった主要部門を総嘗めにしました。わたしも大好きな作品です。
「フォレスト・ガンプ/一期一会」では、さまざまな時代の、さまざまなエピソードをコラージュのように重ねています。同じく、「HERE 時を越えて」も時代を越えた家族の物語がコラージュで描かれていますが、時系列ではないのでストーリーがわかりにくくなって、混乱を招きました。「フォレスト・ガンプ/一期一会」では成功したコラージュ演出が「HERE 時を越えて」では失敗だったと言えるでしょう。それに、固定されたカメラの映像というのが、監視カメラの画像のようで、どうにも感情移入がしにくかったです。実験映画ということで固定カメラを使ったのでしょうが、これまでにあらゆるタイプの映画を撮り尽くした感のあるゼメキス監督ならではの挑戦でした。
主演のトム・ハンクスとロビン・ライトのインタビューでは、ハンクスが「心を揺さぶるのは、何よりも共感」と言えば、ライトは「観た人は皆、あらゆるシーンで自分を重ねることができる」と、"共感"こそが本作の魅力だと共に語っています。また、絵画のような側面を見落とさないためにハンクスは「大きな画面で観るべき」とも語ります。それらがもたらす"実体感"が、個々人にとっても文化面においても重みを生んでいくというのです。ハンクスが演じたリチャードは子どもの頃から絵ばかり描いている少年でしたが、この映画そのものが絵画のような美しさを持っていたと思います。「絵画は時を越える」というメッセージが込められているのでしょうか?
ハンクスとライトが高校生から老人までをリアルに演じることができたのは、AI技術が駆使したからです。もともと、ゼメキス監督はCG技術の積極的な活用と、CG技術によって映像表現の幅を広げてきたことでも知られています。彼は「スターウォーズ・シリーズ」のジョージ・ルーカスや、「ジュラシック・パーク」(1993年)のスティーブン・スピルバーグとともに、CG技術発展と映画のスペクタクル化を推進してきた1人なのです。でも、わたしはAI技術の映像には違和感がありますね。ハンクスとライトの場合でいえば、2人をAIで若返らせるより、別の若い俳優や女優を起用した方が良かったと思いますね。わたしの考えが古いのでしょうか?