No.1089


 一条真也です。沖縄に来ています。一条真也の映画館「罪人たち」で紹介したアメリカ映画を観た後、夜は同じシネマQで日本映画「木の上の軍隊」を沖縄先行上映で観ました。この映画だけは沖縄で観たいと思っていたのですが、80年目の「沖縄慰霊の日」に鑑賞することができて感無量でした。内容も素晴らしい戦争映画&サバイバル映画でしたね。

 公式HPの「INTRODUCTION」には、「沖縄県伊江島での実話を基に描かれた、作家・井上ひさし原案の傑作舞台を映画化。1945年沖縄県伊江島。激しい攻防戦が展開される中、2人の日本兵が命からがら木の上に身を潜め、日本の敗戦を知らぬまま2年もの間生き延びた――そんな衝撃の実話から着想を得た作家・井上ひさしが原案を遺し、こまつ座にて上演された舞台「木の上の軍隊」が映画化。本土から派兵された厳格な日本兵を演じるのは確かな演技力で日本の映画界を牽引してきた名優・堤 真一。沖縄出身の新兵に抜擢されたのは、数々の話題作で存在感を示す山田裕貴。ダブル主演を務める堤と山田は初の共演ながら、阿吽の呼吸で極限状態の兵士たちを、繊細かつ力強く、人間らしい可笑しみをもって表現する。監督と脚本を手掛けるのは、『ミラクルシティコザ』のスマッシュヒットが記憶に新しい沖縄出身の新進気鋭・平一紘。全編沖縄ロケ、伊江島で実際に生い茂るガジュマルの樹上で撮影を敢行。本作を象徴する主題歌『ニヌファブシ』を手掛けるのは伊江島出身のシンガーソングライター、Anly。終戦から80年、熾烈な地上戦が繰り広げられた沖縄戦を必死で生き抜いた日本兵の実話に基づく物語は、観る者すべての心に深く刻まれる」と書かれています。
 
 公式HPの「STORY」は、「太平洋戦争末期、戦況が悪化の一途を辿る1945年。飛行場の占領を狙い、沖縄県伊江島に米軍が侵攻。激しい攻防戦の末に、島は壊滅的な状況に陥っていた。宮崎から派兵された少尉・山下一雄(堤真一)と沖縄出身の新兵・安慶名セイジュン(山田裕貴)は、敵の銃撃に追い詰められ、大きなガジュマルの木の上に身を潜める。仲間の死体は増え続け、圧倒的な戦力の差を目の当たりにした山下は、援軍が来るまでその場で待機することを決断する。戦闘経験が豊富で国家を背負う厳格な上官・山下と、島から出たことがなくどこか呑気な新兵・安慶名は、話が嚙み合わないながらも、二人きりでじっと恐怖と飢えに耐え忍んでいた。やがて戦争は日本の敗戦をもって終結するが、そのことを知る術もない二人の"孤独な戦争"は続いていく。極限の樹上生活の中で、彼らが必死に戦い続けたものとは――」となっています。
 
 80年前、沖縄本島北部の伊江島では、"沖縄戦の縮図"と言われる、住民を巻き込んだ凄惨な戦いが行われました。昭和20年4月16日。アメリカ軍は伊江島に上陸し、島を一気に制圧しようと猛攻撃を浴びせました。6日間の戦闘で日本兵の戦死者はおよそ2000人。住民も逃げ場を失って集団自決に追い込まれるなど、当時、島にいた人たちの半数に上る1500人が犠牲になりました。先の戦争について強く思うことは、あれは「巨大な物語の集合体」であったということです。真珠湾攻撃、戦艦大和、回天、ゼロ戦、神風特別攻撃隊、ひめゆり部隊、沖縄戦、満州、硫黄島の戦い、ビルマ戦線、ミッドウェー海戦、東京大空襲、広島原爆、長崎原爆、ポツダム宣言受諾、玉音放送...挙げていけばキリがないほど濃い物語の集積体でした。それぞれ単独でも大きな物語を形成しているのに、それらが無数に集まった巨大な物語の集合体。それが先の戦争だったと思います。そして80年目の沖縄「慰霊の日」に観た「木の上軍隊」によって、わたしの中の物語の集合体に「伊江島の戦い」が加わりました。

 1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍は、ついに沖縄本島への上陸作戦を開始。日本で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられ、住民の死者は9万4000人に上りました。沖縄県民の4人に1人の命が失われたのです。けっして忘れてはならない悲劇です。海上では、大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われました。日本中が巨大なグリーフに覆われました。1945年(昭和20年)5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退しましたが、6月下旬までに組織的戦力を失いました。そして、6月23日には牛島満司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日でした。ほんの80年前の出来事です。
 
「木の上の軍隊」の主役を務めるのは本土出身の上官役・堤真一と、沖縄出身の新兵役・山田裕貴です。観る者すべての心を動かしたであろう熱演の2人は、沖縄戦をテーマにした作品に出演するのは初めてだそうです。伊江島でのロケはおよそ1ヵ月。島を戦場に変え、2人は生きることすら困難だった戦争の実態に思いを深めたといいます。NHK沖縄放送局のインタビューに対して、山田裕貴は「生きてきた人、生き抜いた人たちがいる。その人たちがその瞬間何を思うんだろうっていうことを知りたいというか、本当にご飯、ものが食べられなくなった状況で何を思うのかとか」と答え、堤真一は「自然の豊かな美しい島ではなく"いい基地"として。戦争というものがあらゆる価値観を変えてしまう。撮影しながらも感じているというか、大きな意味で戦争反対って誰にも言えるんですけど、本当に細かいことまでつまびらかにしていかなければいけないことって、いっぱいときが経ったからこそ、やらなきゃいけないことがいっぱいあるんだなと」と答えています。
 
 さて、映画「木の上の軍隊」の撮影中、沖縄決戦当時の日本兵と思われる20人相当の遺骨が地中から発見されたそうです。この映画がなかったら、ずっと発見されずにいたと思うと、「ここに埋められているから、見つけて下さい」という死者の念を感じずにはおれません。この他にも、伊江島には多くの遺骨が埋められたままになっているのではないでしょうか。そして、それは伊江島に限りません。海外でも多くの日本兵の遺骨が回収されないままになっています。ブログ「前田日明氏と対談しました」で紹介したように、今月5日にわたしは"永遠の格闘王"こと前田日明氏と対談しましたが、そのとき日本兵の遺骨収集の話題が出ました。前田氏は、「最低限、国としてやるべきことがあります。それが戦没者の遺骨の収集です」と喝破されました。その熱い憂国の想いに頭が下がりました。

 先の戦争で戦死された英霊の方々は約310万柱。そのうち海外戦没者が240万柱と言われていますが、2020年の時点で約112万柱の遺骨が未収容のままになっています。このうち海外遺骨が約30万柱、相手国の事情により収容が困難な遺骨が23万柱、収容可能な遺骨は59万柱という数字が厚生労働省のホームページに出ています。最終的にはすべての遺骨を収容するのは言うまでもないが、収容可能だとわかっている50万はしらの英霊をいつまで放っておくつもりなのか」と述べます。終戦からすでに80年が経っています。戦没者はいまでも戦地だった中国、ロシア、東南アジア、南方諸島などに眠ったままなのだとして、前田氏は「祖国のために散っていった彼ら英霊たちを"帰国"させるのは国としての急務ではないですか? ところが、日本政府は、遺骨の収集にまったく積極的ではありません。発見された遺骨の7割以上は帰国した兵士や引揚者が持ち帰ったものや、遺族や民間団体が手弁当で発掘したものです。国の事業による収容は34万人分しかありません」と述べられました。

 2016年3月、議員立法で「戦没者遺骨収集推進法」が成立。ここで初めて遺骨収集は「国の責務」ということが決まったわけですが、前田氏は「国の責務と決まる? 遺骨収集は最初から国の責務じゃないのかしてあげているボランティアという位置づけだったとでもいうつもりなのか。祖国のために死んだ人たちの遺骨を探すのはどこの国でも、国の責務なのに、この国ではお手伝いをしている感覚だったんですね。だから、遺族たちが手弁当で探すしかなかったし、遅々として進まなかったのです。『戦没者遺骨収集推進法』ができて以降は遺骨収集関連全体で17億円、2019年には23億円、2020年には29億円とやっと多少まともな予算がつくようになりましたが、本来これでは全然足りません」と述べられました。伊江島で遺骨が発見されたというニュースを知って、わたしは前田氏の発言を思い起こしていました。「戦後80年」といいますが、まだ本当の意味で戦争は終わっていません。