No.1092
韓国映画「サヨナライツカ」をDVDで再鑑賞しました。てっきり日本映画だとばかり思っていましたが、韓国映画だったのですね。2010年公開のこの映画が好きで、もう何度も観ましたが、7月4日から映画の舞台となったタイのバンコクに行くので、久しぶりに観返しました。主演の中山美穂の息を飲むような美しさに魅了され、「ああ、もう彼女はこの世にいないのか」と悲しくなりました。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「愛されることがすべてと思っていた女性が、運命的な出会いを経て、愛することが本当の愛だと気付くラブストーリー。『私の頭の中の消しゴム』イ・ジェハン監督がメガホンを取り、監督から熱烈なラブコールを受けた中山美穂が、『東京日和』以来12年ぶりの映画主演作で愛に生きる強く純真な女性を熱演。原作は中山の夫・辻仁成。バンコクで始まった恋が東京、ニューヨークと場所を移し、25年の時を超えて愛へと変わる過程が切ない」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「1975年、バンコクの高級ホテルに暮らしている沓子(中山美穂)は、お金に不自由なく、男性から愛される満された日々を送っていた。ある日、沓子はバンコクに赴任してきたエリートビジネスマンの豊(西島秀俊)と出会い、二人はたちまち惹かれ合うが、実は豊には東京に残してきた光子(石田ゆり子)という婚約者がいた」
原作である『サヨナライツカ』は、辻仁成の恋愛小説です。世界文化社が発行する男性向けファッション雑誌『MEN'S EX』で1999年4月号から2000年5月号まで「黄金の寝室」のタイトルで連載され、加筆・訂正して同社から2001年に刊行されました。2002年11月に、行定勲の監督、坂本龍一の音楽、ワダエミの衣装、中山美穂と大沢たかおの主演で、フジテレビ製作、全国東宝系にて映画が公開される予定でしたが、クランクイン直前で監督の行定が降板し、一度は白紙状態となりました。
その後2008年に、中山美穂主演という形は変えずに映画化されることが発表。監督は韓国人のイ・ジェハン(李宰漢)が務め、2010年1月23日全国約180スクリーンにて公開。公開2日間で興行収入約1億3000万円を記録し、公開1カ月で観客動員数100万人、興行収入10億円を突破。このヒットにより中山美穂が居住先のパリから急遽帰国し「大ヒット御礼!日本横断 凱旋舞台挨拶」を東京、名古屋、大阪、福岡の4都市8劇場で実施、東京・丸の内TOEI2での最終回ではサプライズで西島秀俊も登壇しました。
久しぶりに観直した「サヨナライツカ」ですが、やはり日本映画ではなく韓国映画だと痛感しました。なんというか、日本映画ではありえないぐらいに演出が過剰なのです。特に西島秀俊が演じる主人公・豊が勤務するイーストエアライン社がパンナムを相手に野球の試合をする場面などがそうですね。豊は周囲から「好青年」と呼ばれているのですが、試合で「好青年」コールが起こったり、応援団長を務めていたエルビス・プレスリーみたいなタイ人のエキサイトぶりも異様でした。豊と沓子の別れから25年後、そのプレスリーみたいなタイ人が空港で豊を歓迎したときも側転したりして異様でした。25年後の豊の老けっぷり(まだ50代前半でしょうに)もやり過ぎでしたね。
それでも韓国映画が誇る脚本の力で、とてもテンポの良い展開になっています。とにかく観客を退屈させずに一気に観せるのが韓国人監督はうまいですね。バンコクでの豊と沓子の運命の出会い(中山美穂が最高に美しかった!)から2人が恋愛に溺れる日々、別れと25年後の再会、そして永遠の別れを見事に描いています。特に、スワンナプーム国際空港からニューヨークに旅立つ沓子を見送ったときの豊の冷たい態度、沓子の姿が見えなくなった途端に涙が溢れ出して嗚咽する豊の姿には胸を打つものがありました。沓子と別れた直後に婚約者の光子(石田ゆり子)が現れて、豊と抱き合います。光子は豊に「どうして泣いているの?」と訊ねますが、豊は「愛してる」と繰り返すだけでした。360度を撮影するカメラワークといい、この空港でのシーンは最高にドラマティックでした。
空港といえば、この映画の原作者である辻仁成が中山美穂と初めて出会ったのも空港でした。2001年7月に、パリのシャルルドゴール空港で、辻仁成が中山美穂を見かけたのです。辻は、「わずかに数十秒の一方的な出会いであったが、そのたたずまいや雰囲気にしっかりとした意志と強い存在感が表れていた」と、中山美穂に出会った第一印象を話しています。その3カ月後の10月、辻仁成の希望で中山美穂と雑誌で対談することになりました。この時、辻仁成は、中山美穂に「やっと会えたね」と語ったのです。この対談がきっかけで2人は2002年(平成14年)6月に交際8カ月で結婚。2003年には、夫婦でフランスのパリに移住しました。2004年1月に息子が誕生。しかし、2014年7月8日、2人は離婚し、中山美穂は日本に帰国。 親権は辻が持つことになったのです。
映画「サヨナライツカ」のラストは切ないものですが、辻の原作小説を読んでみると、沓子の人生がしっかり描かれており、映画では腑に落ちなかったことも納得できました。前半はひたすら官能的で、後半はひたすらプラトニックであるという不思議な小説ですが、つまるところ哀しい純愛の物語です。深く愛し合いながらも別れ、その後の人生でも一、二度しか再会できなかったにもかかわらず、最期の別れで沓子が主人公の豊に「こうして、最後にあなたを目の前にしていると、まるであなたと私はあの時、別れないで、その後結婚をしてずっと伴侶として生きてきたような感じがする。あなたが私の夫だったように思う。あれからずっと一緒にここで暮らしていたような気がする。苦しくて、寂しい人生なんか生きなくて、幸福で楽しい日々を生きてきたような気がする」と言います。この一文に、わたしは非常に感動しました。そして、法律上の配偶者よりも本当に愛した者こそが魂で結びついた真のパートナーなのだという意味に受け取りました。もしかすると、沓子を演じた中山美穂は、夫である辻仁成の代表作である『サヨナライツカ』を読んで、結婚よりも愛に生きる道を選んだのではないでしょうか。離婚の最大の理由は彼女の不倫だと言われていますが、そこに『サヨナライツカ』の影響はなかったでしょうか。
最近、『中山美穂「C」からの物語』山中則男著(青志社)という本を読みました。中山美穂が最後まで所属していた芸能事務所の創業社長の著書ですが、そこにデビュー前の中山美穂が姉のように慕っていた遠藤康子という女性タレントのことが書かれています。創業当時の事務所には遠藤と中山の2人しか所属タレントがおらず、彼女たちは姉妹のように生きてきましたが、経済的な事情により遠藤は他事務所に移ります。その後、遠藤はビルの屋上から飛び降りて、中山の心には深い悲しみが残りました。その後の彼女はグリーフを抱えて芸能活動を続けていくのですが、遠藤の自死の理由が「歌手デビューの前に、交際中の恋人と別れる」ことを事務所から命じられたからだといいます。まだ10代の前半だった中山美穂に遠藤康子はいつも彼氏の話を楽しそうにしていたそうです。『中山美穂「C」からの物語』で、山中氏は「ボーイフレンドのことも隠し事をせず、人を愛し自由に生きる遠藤康子から美穂が最も学んだことは、『人生で最も大切なことは、人を尊敬し、愛することの意味』だったような気がする」と書いています。このことの意味は大きいと思います。
この「人を愛する」ことを大切にする姿勢こそ、『サヨナライツカ』の世界、あるいは離婚にも通じていたように思うのです。映画「サヨナライツカ」には、豊の正式な婚約者である光子が恋人である沓子のもとを訪れるシーンがあります。2人はバンコク市内を回り、船上で記念写真まで撮影するのですが、別れ際に光子が沓子に放った一言はあまりにも残酷なものでした。愛人の悲しさをこれほど描いたシーンは他にないと思います。作詞家なかにし礼は著書『愛人学』で、「恋の結末は、別れか、心中か、結婚か、の3つしかない」と書いていますが、わたしはその他に「死別」があると思います。たとえ結婚して夫婦になったとしても、死別はあります。夫婦が離婚したとしても死別はあります。そこで大事なことは本当の「サヨナラ」、つまり相手が亡くなったときには葬儀に参列して哀悼の意を示すことだと思います。それが、たとえ結果的に別れたとしても縁あって結婚した相手への礼だと思います。その点、どんな事情があったかは知りませんが、辻仁成氏が元妻の葬儀に参列しなかったことは残念でした。
映画「サヨナライツカ」の最後で沓子が亡くなったとき、豊は彼女の葬儀に間に合いませんでした。沓子の葬儀はバンコクの「ワット・スアンプルー」で行われ、荼毘に付された後、遺灰はチャオプラヤー川に撒かれています。ワット・スアンプルーは、チャルンクルン通りにある寺院です。2階建ての美しい木造建築の僧院や、見事な装飾が施された白い本堂と仏塔が有名です。ここにはオレンジ色の袈裟を着た僧侶がたくさん修行しています。映画では池の中央にあるお堂に僧侶たちが橋を渡ってお参りするシーンがありました。この寺院があるチャルンクルン通りは、バンコクのシンボルであるチャオプラヤー川に沿うようにのびる長い歴史のある通りで、通り沿いには昔ながらの商店が並び、寺院やバンコクを代表する5つ星ホテルも集まっています。人気の観光スポットですね。
この「サヨナライツカ」という映画、バンコクの観光映画という面を持っています。久々のタイ訪問を間近に控えたわたしにとって、貴重な情報の宝庫でした。そう、ローマを舞台にした「ローマの休日」(1953年)、ヴェネツィアを舞台にした「旅情」(1955年)、香港を舞台にした「慕情」(1955年)など、実在の土地を舞台にした映画は最高の観光ガイドになるのです。わたしは、海外に行くときは必ず、その土地が登場する映画を直前に観ることにしています。「サヨナライツカ」では、「チャルーム・ガンチャナピセーク公園」も登場し、豊と沓子がデートしていました。ここは、故プミポン国王在位50年を記念して建設された公園です。シンボルは、「ウィマンサランナワミン」という塔ですね。
そして、映画「サヨナライツカ」の最大の見どころは、世界最高のホテルとして名高い「ザ・オリエンタル・バンコク」が主要な舞台となっていることです。現在は「マンダリン・オリエンタル・バンコク」と名前を変えていますが、タイ・バンコクのバーンラック区にある最高級ホテルです。わたしも2度ほど宿泊しましたが、素晴らしかったです。1887年にバンコク初の西洋風ホテルとして、バンコクを流れるチャオプラヤー川のほとりにある大使館街の真ん中に作られました。設立以来約130年に及ぶ歴史を誇ります。「1人の宿泊客に対して4人のスタッフがついている」と称されているほどの、タイ風のきめ細やかなサービスが世界的に高い評価を受けており、そのサービスは、インスティテューショナル・インベスター誌やコンデナスト・トラベラー誌などの権威ある雑誌による調査で常に世界のトップクラスに選ばれています。日本に大災害が発生すると予言されている7月5日の土曜日、わたしはこのマンダリン・オリエンタル・バンコクで「瞑想とインナーフローダンシング」の体験をする予定です。楽しみ!
1974年に、香港に本拠地を置く高級ホテルグループであるマンダリン・オリエンタルホテルグループ(ジャーディン・マセソン・グループの傘下)に買収され、現在に至るまで同グループを代表するホテルとして、また、バンコクやタイのみならず、アジアを代表する最高級ホテルの1つとして君臨し、国内外の賓客や多くのビジネス客、観光客が定宿として訪れています。作家のサマセット・モームやジョゼフ・コンラッド、ノエル・カワード、ジェームズ・ミッチナー(これらの4人の名前は「オーサーズ・ルーム」というスイートルームの名前として残されています)、タイ・シルク王として名高いジム・トンプソンなど数々の著名人が定宿としていたことでも有名です。モームのスィートルームは『サヨナライツカ』で「サマセット・モームがかつてこの部屋を愛し、ここに長期間滞在し、この街をモチーフにした幾つかの作品の創作や構想に明け葬れていたのだ」と辻仁成に紹介されて日本でも有名になりましたが、実際はモームはその部屋でバンコクを舞台にした小説を執筆も構想もしていないそうです。