No.1093
7月9日の夜、韓国映画「ハルビン」をシネプレックス小倉で観ました。1909年10月26日に起こった「伊藤博文暗殺事件」を描いた歴史ドラマで、面白かったです。暗殺者であるアン・ジュングン(安重根)をヒョンビン、伊藤博文をリリー・フランキーが演じていますが、どちらも熱演でした。カラー映画の中にモノクロ部分もあったりして、映画として非常にうまく作られていました。
ヤフーの「解説」には、「1909年10月に中国のハルビンで起きた歴史的事件を映画化したサスペンス。ある使命を果たすためにハルビンへと向かった大韓義軍のアン・ジュングンと同志たちが、彼らの前に立ちはだかる存在と激しい攻防を繰り広げる。監督などを務めるのは『KCIA 南山の部長たち』などのウ・ミンホ。ドラマ『愛の不時着』などのヒョンビン、『手紙と線路と小さな奇跡』などのパク・ジョンミンのほか、イ・ドンウク、リリー・フランキーらがキャストに名を連ねる」とあります。
ヤフーの「あらすじ」は、「1908年、アン・ジュングン(ヒョンビン)率いる大韓義軍は、日本軍との咸鏡北道(ハムギョンブクト)シナ山での戦闘に勝利する。しかしアンが万国公法(国際法)に基づいて捕虜である日本人の森辰雄陸軍少佐らを解放したことにより、彼に対する疑惑が生まれ大韓義軍の間にひびが入り始める。そして1909年、アンのほか、彼の同志であるウ・ドクスン、キム・サンヒョンらがウラジオストクに集結する」です。
アン・ジュングンは、日本では「安重根」の名で知られます。1879年生まれの大韓帝国(韓国)の独立運動家です。また、伊藤博文を暗殺した人物として有名です。開化派の流れを汲むカトリック教徒ですが、華夷秩序を主張した旧守派及び東学党や、後継たる天道教及び一進会とは終生敵対したため、民族主義者としての立場は不明確とされています。そのため、生前に本人が何を明確に主張していたのかは、はっきりとしていません。親露派との関係性は不明です。1909年10月26日に韓国併合阻止のために尽力していた伊藤博文をハルビン駅構内で襲撃し暗殺に至りました。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑されました。獄中で「東洋平和論」を執筆。大韓民国の建国以後、韓国の民族主義で象徴的な位置づけとなりました。
わたしは映画「ハルビン」について、最初は韓国映画によくある日本をいたずらに貶めるための国辱映画かと思っていましたが、実際に鑑賞してみて、その考えが誤りであったことに気づきました。これは、激動の時代の断面を見事に切り取った優れた歴史映画であり、人間の悲しみをリアルに描き切った優れたヒューマンドラマでした。日本にとっては初代総理大臣を暗殺したテロリストであるアン・ジュングンが、なぜ韓国では英雄なのかがよく理解できました。主役のアン・ジュングンをブログ「愛の不時着」で紹介したNETFLIXの大人気ドラマで主演したヒョンビンが演じますが、相変わらず素晴らしい演技力でした!
また、伊藤博文を演じたリリー・フランキーがすごく良かったです。本当に、そっくりでしたね。わたしは、北九州出身で年齢もわたしと同じリリー・フランキーがずっと苦手だったのですが、最近、俳優としての彼は好きになってきました。伊藤博文は、日本で初めて内閣総理大臣になった人物です。伊藤は江戸時代の終わりに、今の山口県にあたる長州藩で生まれました。17歳のときに吉田松陰が開いた松下村塾に入り、のちに幕府を倒す運動の中心となる木戸孝允らと出会います。1868年。天皇を中心とした明治政府がつくられ、伊藤は西洋の国を視察するなどし、どのような近代国家にするか考えます。
日本を近代国家にするために伊藤が参考にしたのが、皇帝に権限があるドイツの憲法でした。天皇を中心とする日本独自の憲法をつくることにしたのです。まず内閣制度を作り、1885年に初代の内閣総理大臣になりました。伊藤は、憲法づくりに力を注ぎます。そして1889年に大日本帝国憲法が発布。翌年には選挙が行われ、第1回の国会が開かれました。日本は議会で法律を定める国の体制が整ったのです。国会議事堂の敷地には伊藤の銅像が建てられています。1986年まで発行されていた千円札にもその姿が描かれていました。なつかしいですね!
1909年(明治42年)10月10日から15日の間、安重根は禹徳淳・曹道先と共に大東共報社を訪問し、伊藤博文暗殺を議論して、活動資金を無心しました。資金を得ると、21日に安は禹とウラジオストクを出発し、22日、ハルビン市(哈爾浜)に到着。また、劉東夏にロシア語通訳として同行を頼みましたが、彼には計画は伝えませんでした。この日、禹と劉と共にハルビン駅周辺を下見し、列車の到着時刻などを確認。3人はハルビンで曹道先と合流し、10月23日、劉を残して3名で蔡家溝に向かった。24日、安は電報でハルビンの劉に伊藤の動向を問い合わせたが、内容が要領を得ないものだったので、禹徳淳と曹道先を蔡家溝駅で見張らせるために残して、25日に安だけがハルビンに戻った。結局、安は『遠東報』を見て翌日に伊藤が列車で来ることを知り、一人で決行することを決意します。翌日、安は逃走時に備えて、劉を500メートル程離れた場所に馬車で待機させました。
そして、10月26日午前9時、伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためにハルビン市に赴き、ハルビン駅に到着。安は伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づき、拳銃を発砲。その場でただちに逮捕されましたが、伊藤は約30分後に死亡しました。11月13日に安は旅順の関東都督府地方法院で予審を受け、11月16日に予審が結審、重罪公判に移されました。1910年(明治43年)2月14日に判決が言い渡され、安と共犯3名は全員が有罪判決を受けました。共犯者とされた禹徳淳には殺人幇助と殺人予備罪により懲役3年、曹道先及び劉東夏には幇助罪により懲役1年6ヶ月の判決、実行犯の安重根には殺人予備罪により死刑が宣告されたのです。
総理大臣の暗殺といえば、やはり安倍晋三元総理の暗殺事件を連想してしまいます。7月8日、安倍元総理が殺害された銃撃事件から3年目を迎えました。2022年(令和4年)7月8日午前11時31分ごろ、第26回参議院議員通常選挙のための街頭演説を奈良県奈良市の近畿日本鉄道大和西大寺駅前付近にて行っていた際に、手製銃で背後から2発撃たれ、その内2発目が命中し、心肺停止状態になりました。銃撃した当時41歳の奈良市在住の男はその場で奈良県奈良西警察署の署員らによって取り押さえられ、11時32分に殺人未遂の現行犯で逮捕されました。その後、安倍元総理は奈良県橿原市の奈良県立医科大学附属病院に搬送され蘇生措置を受けましたが、17時3分、銃撃による失血のため死亡が確認されました。67歳没。
安倍元総理の暗殺事件は、日本中に大きな衝撃を与えました。日本国憲法下で現役国会議員の他殺事件による死亡は浅沼稻次郎(1960年)、丹羽兵助(1990年)、十一代目山村新治郎(1992年)、石井紘基(2002年)に次ぐ5人目であり、首相経験者の遭難死は戦後初でした。逮捕された山上徹也容疑者は銃撃の動機について「特定宗教団体に対する恨み」と話し、それが世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)であることが報じられると、安倍と教団の関係性に注目が集まりました。山上容疑者による安倍元総理への銃撃は、旧・統一教会のみならず、確実に自民党に多大なダメージを与えました。「世界を変えた暗殺」という点では、安重根と山上徹也の間に共通性を感じてしまいます。ちなみに伊藤博文暗殺は厳重な警備(日本軍ではなくロシア軍でしたが)があったにもかかわらず遂行されましたが、安倍晋三元総理の場合は異常など警備が手薄だったと言えます。
映画「ハルビン」を観て、強く感じたのは「死者との共闘」ということです。大韓義軍の戦士たちの会話の中には「先に逝った同志たちの代わりに生きている」とか「先に逝った同志たちに恥じぬように闘う」などの発言が多かったのですが、彼らは常に「死者とともに生きる」「死者とともに闘う」といった意識を持っていたのです。次回作『死者とともに生きる』(産経新聞出版)にも書きましたが、柳田國男が創設した日本民俗学が明らかにしたように、日本には、祖先崇拝のような「死者との共生」という強い精神的伝統があります。しかし、日本のみならず、世界中のどんな民族にも「死者との共生」や「死者との共闘」という意識が根底にあるといえます。そして、それが基底となってさまざまな文明や文化を生み出してきました。わたしたちのまわりには数多くの死者たちが存在し、わたしたちは死者たちに支えられて生きているのです。
大日本帝国からの大韓帝国(韓国)の独立を目指す大韓義軍の戦士たちは、次々に同志を失っていきます。そのとき捕虜となった憎き日本兵を殺そうとする者がいますが、それを安重根は「万国公法では、捕虜の殺害は禁じられている」と止めます。しかし、その日本兵を殺そうとした者は「万国公法よりも重いものがある。それは同志を殺されたことへの復讐だ」と言います。おそらく、彼は仲間の死によってグリーフを抱えてしまったのでしょうが、それは復讐によってしかケアされないものだったのかもしれません。 一条真也の読書館『鬼滅の刃』などにも書きましたが、わたしは、仇討ちというものの本質はグリーフケアにあるように思います。最後に、映画「ハルビン」の最大の欠点は、重要な役割を果たす森辰雄陸軍少佐を韓国人俳優に演じさせたことだと思います。森少佐がカタコトの日本語を話したことで、せっかくのリアリティが損なわれてしまったように思います。これは非常に残念でしたね。