No.1117
8月20日の朝、松山市で唯一のアート系映画館・シネマルナティックで日本のドキュメンタリー映画「黒川の女たち」を観ました。あまりにも切ない内容に胸が圧し潰されそうになりました。上映時間99分のこの作品は、「なかったことにはできない」歴史の真実を見事に浮き彫りにしていました。昨日も同劇場で映画鑑賞しましたが、観客はわたし1人でした。しかし、話題作ゆえか、今日は30人以上いました。なお、本作は今年観た130本目の映画です。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「太平洋戦争末期の満州で生き延びるためにソ連軍への性接待を強いられ、帰国後も差別や偏見に苦しんだ満蒙開拓団の女性たちの証言を記録したドキュメンタリー。1945年、満州に侵攻したソ連軍に助けを求めた黒川開拓団の女性たちが、長い間心に秘めkurokawa た壮絶な性暴力の体験や苦しみを打ち明ける。監督を『ハマのドン』などの松原文枝が務め、語りを俳優の大竹しのぶが担当する」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「1945年8月9日未明、日ソ中立条約を破棄したソ連が満州国へ侵攻し、満州に駐留していた日本陸軍部隊の関東軍は南東に後退する。黒川開拓団は生死をさまよいながらソ連軍に助けを求め、15人の未婚女性が性接待の要員として差し出された。1年後、日本に帰国した彼女たちは差別と偏見に苦しむことになる。2013年、被害に遭った女性たちがその事実を初めて講演会の場で明かした」
「黒川の女たち」は、戦時下の満州で黒川開拓団の女性たちに起きた「接待」という名の性暴力の実態に迫ったドキュメンタリー映画です。1930~40年代に日本政府の国策のもと実施された満蒙開拓により、日本各地から中国・満州の地に渡った満蒙開拓団。日本の敗戦が濃厚になるなか、1945年8月にソ連軍が満州に侵攻し、開拓団の人々は過酷な状況に追い込まれました。守ってくれるはずの関東軍の姿もなく満蒙開拓団は過酷な状況に追い込まれ、集団自決を選択した開拓団もあれば、逃げ続けた末に息絶えた人も少なくありませんでした。そんな中、岐阜県から渡った黒川開拓団の人々は生きて日本に帰るため、数えで18歳以上の15人の女性を性の相手として差し出すことで、敵であるソ連軍に助けを求めたのです。
1982年、「乙女の碑」が岐阜県加茂郡白川町の黒川に建立。そこには、「私たちがどれほど辛く悲しい思いをしたか、私らの犠牲で帰ってこれたということは覚えていて欲しい」「次に生まれるその時は 平和の国に産まれたい。愛を育て慈しみ花咲く青春綴りたい」という碑文が刻まれています。接待を強いられた乙女たちの言葉があまりにも哀しいです。ソ連兵への接待で梅毒や淋病などを患い、4名の乙女が命を落としました。帰国後も性病に苦しみ、治療を受け続けた乙女もいました。でも、彼女が通院する姿を見た村の人は容赦ない誹謗中傷の言葉を投げかけたのです。そんな彼女たちの絆は強く、村を離れても、手紙や電話を欠かしませんでした。そして、ときどき集まっては涙を流し合いました。彼女たちの間には傷(きず)を内包した絆(きずな)が存在したのです。それは、まさしく深い悲嘆によって結ばれた「悲縁」と呼べるものでした。
性接待の犠牲を払いながらも敗戦から1年、黒川開拓団の人々は帰国。しかし、帰国した女性たちを待ち受けていたのは差別と偏見の目でした。節操のない誹謗中傷、同情から口を塞ぐ村の人々を前に、満洲帰りの女性たちは込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめるしかありませんでした。彼女たちは青春を失っただけでなく、未来をも失ったのです。幾重にも重なるグリーフを目の前にして、わたしは呆然とし、次に巨大な怒りがこみあげてきました。「満洲にいる時より帰国してからの方が悲しかった」という言葉を聴いたとき、わたしは泣きました。心身ともに傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年にわたり伏せられることになります。しかし戦争から約70年が経った2013年、黒川の女性たちは手を携え、幾重にも重なる加害の事実を公の場で語りはじめました。敗戦直後の満洲で起きた性暴力の実態を佐藤ハルエさん、安江善子さんが自ら告白したのです。それは「なかったことにはできない」という彼女たちの強い想いが実現した瞬間でした。
差別と偏見の目。二重の苦しみに追い込まれ佐藤ハルエさんは、故郷を離れるしかなく、未開の地・ひるがのをゼロから開墾し借金をして酪農を始めました。安江玲子さんは黒川を離れ東京に移住、夜も眠れない毎日が続きました。水野たづさんは、決して口外することはありませんでした。それぞれが思いを抱え、それでもこの思いを口にすることなく、時に性接待の犠牲にあった女性たちのみで集まり涙をこぼしたのです。そんな日々が続いた中、2013年に満蒙開拓記念館で行われた「語り部の会」で佐藤ハルエさんと安江善子さんが、性暴力にあったことを公の場で明かしました。彼女たちの勇気ある告白に、今度は、世代を超えて女性たちが連帯したのです。
わたしは「戦争は巨大な物語の集合体である」と考えていますが、わたしにとっての先の戦争に新たな物語が加わりました。戦争は悲惨です。「人間とは弱い生き物」であり、「人間は醜い」と考えたくもなりますが、この映画では闇だけではなく光も感じさせてくれました。佐藤ハルエさんは新聞記者をはじめとしたマスコミ関係者に会うたびに、「わたしの体験を取材してくれませんか」と頼み込んでいたそうです。また、彼女は夫にすべてを話したうえで結婚し、夫は彼女が真実を語ることを応援してくれたそうです。佐藤さんのお孫さんたちも「おばあちゃん、辛いことを話してくれて、ありがとう」「おばあちゃんを尊敬しているし、大好きだよ」と映画の中で笑顔で語っていました。佐藤さんにはひ孫も生まれ、ひ孫を眺めながら「一度死んだはずのわたしなのに!」と喜びの涙を流すシーンには、わたしも貰い泣きしました。そして、女性たちの多くが100歳近くまでご健在なのを知って、「人間とは強い生き物」であり、「人間は美しい」と思いました。お孫さんが佐藤さんに宛てた手紙の中の「おばあちゃん、自殺しないでくれて、ありがとう」という言葉はすべてを示しています。わたしは涙が止まりませんでした。
黒川の女たちの犠牲を史実として残す。戦後70余年、黒川の鎮守の森に碑文が建てられ、その歴史が公に刻まれることとなりました。戦後80年の時を経て、女性たちに大きな変化が訪れました。過去に向き合うこと、それは尊厳の回復にもつながることでした。語ることは、まさに彼女たちにとってのグリーフケアでした。映画では大竹しのぶの穏やかで優しい語り口が「グリーフ」と「ケア」の両方を感じさせてくれます。わたしは、かけがえのない乙女の犠牲とグリーフの史実を封印させないために立ち上がった勇気ある方々に心から敬意を表したいと思います。また、本作を映画化した松原文枝監督にも敬意を表します。
シネマルナティックの入口前で