No.1128


 9月9日、 冠婚葬祭文化振興財団のグリーフケア委員会会議に出席した後、アイルランド・イギリス・ドイツ合作映画「九月と七月の姉妹」をヒューマントラストシネマ有楽町で観ました。じつに不愉快な胸糞映画でしたが、現在公開中の日本映画とオチが同じなので驚きましたね。

 ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「デイジー・ジョンソンの小説を原作に描く人間ドラマ。10か月しか年が違わない一心同体だったはずの姉妹の関係が、引っ越しをきっかけに少しずつ変化していく。監督などを手掛けるのは『欲望の航路』などで俳優としても活動するアリアーヌ・ラベド。ミア・サリア、パスカル・カンのほか、ドラマシリーズ『セックス・エデュケーション』などのラキー・サクラーらがキャストに名を連ねる」

 ヤフーの「あらすじ」は、「わずか10か月の差で生まれたセプテンバーとジュライの姉妹。自己主張の強い姉と内気な妹は常に一緒に行動し、お互い強い絆で結ばれていた。学校でのある出来事をきっかけに、彼女たちの母親シーラと姉妹はアイルランドの海辺のそばにある、亡き父親の家・セトルハウスに転居する」となっています。

 セプテンバーとジュライの姉妹は10か月の差で生まれたので、学校では同級生です。姉のセプテンバーは勝ち気というか攻撃的ですが、妹のジュライは内気でおとなしく、ちょっと抜けたところがあります。セプテンバーからはいつも「お馬鹿なジュライ」とからかわれるのですが、ジュライが同級生たちからいじめられたときには敢然と妹をいじめた連中を叩きのめす頼りがいのある姉貴です。
 
 学校でジュライがいじめれるシーンが頻出するのですが、非常に不愉快でした。わたしはホラーなどの怖い映画はまったく平気(というか好き)なのですが、いじめ・差別などをテーマにした映画は苦手です。いじめられたり、差別されたりする被害者が気の毒でたまらず、何もできない自分に対してフラストレーションが募るからです。この「九月と七月の姉妹」もストレスフルな映画でした。それと、身体に障害があって車椅子に乗っている少女がジュライをいじめるのですが、車椅子に乗ったいじめっ子という設定に意表を衝かれてちょっと衝撃的でしたね。
 
 姉のセプテンバーは妹のジュライを守る存在なのですが、ときどき命令します。それも、ジュライをくすぐって「笑うな」と命じたりするのはまだ可愛いのですが、「マヨネーズを1本丸ごと飲め」とか、要求がだんだんエスカレートしていきます。ついには「自分の首筋をナイフで切れ」などと常軌を逸した要求までするようになります。どんどんサディスティックになっていく姉の無理な要求を全部聞いていては命がいくつあっても足りないので、妹も次第に反抗するというか、自立していくのでした。
 
 この映画、どことなくヨルゴス・ランティモス監督の作風を彷彿とさせます。それも、「籠の中の乙女」(2009年)を連想させます。外の世界に触れたことのない3人の子供たちを中心に、ある家族の秘密と狂気を描いた奇妙で衝撃的な心理ドラマです。厳格な父親に変わった教育を施され成長した子どもたちの、性的な倒錯をはじめとするさまざまなゆがみが浮き彫りになります。ブラックユーモアを交えてつづられる家族の悲劇に戦慄が走る異色作です。なんでも、ヨルゴス・ランティモスとアリアーヌ・ラベドの両監督は公私ともにパートナーだとか。そういえば、「籠の中の乙女」も「九月と七月の姉妹」も、ともにカンヌ国際映画祭の「ある視点部門」に出品されていますね。
 
 このカンヌ国際映画祭の「ある視点部門」というのがなかなか曲者で、 一条真也の映画館「遠い山なみの光」で紹介した日本映画も同映画祭の同部門に正式出品されています。原作はノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロの長編デビュー小説。日本人の母とイギリス人の父のもとに生まれたニキは、大学を中退し、作家を目指しながらロンドンで暮らしていました。母の悦子(広瀬すず)は長崎で原爆を経験し、戦後にイギリスに渡った後、今は一人で生活しています。悦子は訪ねてきたニキに対し、終戦間もない長崎で知り合った謎めいた女性・佐知子(二階堂ふみ)とその娘の夢をよく見るようになったと語り始めるのでした。じつは、この映画のオチが「九月と七月の姉妹」とほとんど同じなのです。「九月と七月の姉妹」はカンヌの第77回、「遠い山なみの光」は第78回で、それぞれ「ある視点部門」に出品されたわけですが、カンヌってLGBTQに続いて、こういったオチが流行しているのでしょうか?