No.1240
3月22日の日曜日、雨の中を訪れたローソン・ユナイテッドシネマ小倉でフランスのアニメ映画「アメリと雨の物語」を観ました。素晴らしいアニメ映画で、何度も涙しました。アニメーションの意味は「活気・元気」「生命を吹き込むこと」です。ラテン語の「魂(anima)」が語源で、静止画に命を与えて動かす映像技術や作品を指しますが、まさにその通りの極上のアートでした。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「アメリー・ノートンの小説『チューブな形而上学』を原作に描く長編アニメ。1960年代の神戸を舞台に、日本で生まれたベルギー人の女の子の成長を映し出す。マイリス・ヴァラードと『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』などに携わってきたリアン=チョー・ハンが監督を担当する。アヌシー国際アニメーション映画祭2025の長編部門で観客賞を受賞した。日本語吹替版のボイスキャストを永尾柚乃、花澤香菜、早見沙織、深見梨加らが務めている」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「1960年代の神戸。外交官の家庭に生まれたベルギー人のアメリは、2歳半になるまで周囲の事柄に何の反応も見せなかった。しかしあるときから自分を神だと信じるようになった彼女は、空想の世界で生きるようになる。一方、家政婦のニシオさんや家族と共に過ごす時間全てがアメリにとって冒険であり、新たな発見の連続だったが、彼女の3歳の誕生日にある出来事が起きる」
原作小説『チューブな形而上学』横田るみ子訳(作品社)のアマゾン内容紹介には、「『わたし、呑み込んではまた空になるチューブなの』。ヨーロッパの人気No1の女性作家による、日本での0~3歳の自伝小説。日本で生まれ育った記憶を、抱腹絶倒、奇想天外に描いた傑作小説! 欧米で大ベストセラー! 『わたしは、パパが駐日ベルギー大使だったので、日本の神戸で生まれた。そして、自分は日本人だと固く信じていた・・・・・・』。 現在、ヨーロッパで人気ナンバー1の作家アメリー・ノートンの原点は、日本にあった。自分を日本人だと信じていた彼女の幼い青い目に映った、日本の言葉、水、季節、時間、家政婦さん、庭での幸せな時間、池の鯉・・・・・・。それは、どれも魅力的であり、面白おかしく、奇妙奇天烈なものばかりだった」と書かれています。
アメリ―・ノートンは、現在のフランス語圏で最も有名な作家の1人であり、多くの文学賞を受賞しています。ノートン家はベルギーで代々続く名門貴族政治家の家系(男爵家)です。首相を務めたジャン=バティスト・ノートンや、元外相のシャルル=フェルディナン・ノートンは親類に当たります。アメリー自身も2015年に一代限りの女男爵に叙されているほか、ベルギー王冠勲章(コマンドール)を2008年に受けています。そんなアメリ―は、ベルギーの外交官であったパトリック・ノートンの娘としてベルギーのエテルベました。出生直後に、父親がベルギー大阪総領事に就任したことに伴って神戸に移っています。「アメリと雨の物語」では、2歳半までは植物のように動かず、口をきかなかった彼女は、ベルギーから訪れた父方の祖母のお土産であるベルギー産のホワイト・チョコレートを食べてから覚醒し、活発な女の子になりました。
アメリにとって祖母は自分の理解者でしたが、もう1人、理解者がいました。家政婦のニシオさんです。ニシオさんは、多くのことをアメリに教えてくれました。アメリに「あなたの名前は、日本では雨という意味よ」とも教えてくれました。そして、ガラス戸に指で「雨」という字を書いて教えてくれました。ニシオさんは戦時中に神戸の大空襲で、家族全員を亡くしていました。祖母の死の報せがあったとき、アメリはニシオさんに「死ぬって、どういうこと?」「死んだら、どうなるの?」「戦争って何?」と矢継ぎ早に質問します。幼いアメリにどこまで話したらいいものか悩んだニシオさんですが、正直に自らの家族との死別体験を告白します。その場面は大きなグリーフを抱えた1人の女性の魂の「語り」であり、非常に感銘を受けました。また、ニシオさんはお盆の精霊流しにアメリを連れていきます。ニシオさんの流した提灯には「お父さん」「お母さん」「妹」と書かれており、彼女が背負っているグリーフの大きさが想像され、観ているわたしも涙が出ました。
アニメーションと語源が同じ言葉に「アニミズム」があります。万物に精霊が宿るという世界観ですが、「アメリと雨の物語」の冒頭ではアニミズムの視覚化が見事に行われていました。アニミズムにおける「雨」は、単なる気象現象ではなく、霊魂や意思を持つ神聖な存在として捉えられています。雨は豊かな収穫をもたらす一方で、暴風雨のように生活を脅かす力を持ち、畏怖の対象でもあります。雨は恵みをもたらす生命の源であると同時に、時に恐怖を感じさせる異界の力ともみなされるのです。雨は植物や作物を育てる不可欠な恵みであり、精霊の恩恵として崇拝の対象となります。また、雨は霊的な意識を持った存在として扱われます。日本においては、風雨は自然の中に神を見出す神道(自然信仰)の文脈で、雷などとともに神霊のあらわれとして崇められました。雨が降ると、異界(霊的な世界)の気配を感じ、精霊や神の力が近付いてくると認識されることがあります。
それにしても、この映画では雨がよく降りました。雨が激しく降ると、わたしは自然と死者のことを考えてしまいます。おそらく、雨音には心の奥の深い部分を刺激する何かがあるのかもしれません。わたしは、「アメリと雨の物語」を観ながら、孔子のことを思いました。よく知られているように、孔子は儒教を開きました。儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、これも語源は同じです。ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げること。その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じです。母を深く愛していた孔子は、母と同じく「葬礼」というものに最大の価値を置き、自ら儒教を開いて、「人の道」を追求したのです。
幼いアメリは、日本が大好きです。日本の風習や民俗にも深い関心を示します。5月に、父と兄が鯉のぼりの準備をしているのを見て、5月が「男の子の月」であり、鯉のぼりは男の子のためのお祭りだということを知ります。興味を持った3歳のアメリは、「女の子の月はいつ?」「女の子のお祭りはあるの?」と父親に訊くのですが、父親は申し訳なさそうに目を逸らすのでした。それで、アメリはとても悲しそうな顔をします。このとき、わたしは映画館の席から立ちあがって「女の子の月は3月じゃないか!」「女の子のお祭りは雛祭りじゃないか!」と叫びたくなりました。ベルギー人だったアメリの父親は、端午の節句や桃の節句を知らなかったのです。もちろん彼は駐日ベルギー大使ですから、豊かな教養をもつエリートのはずですが、日本の年中行事や冠婚葬祭といった民衆的儀礼としての「民禮」を知らなかったのです。わたしは、アメリに拙著『こども冠婚葬祭』(昭文社)をプレゼントしたくなりました。
『こども冠婚葬祭』(昭文社)


