No.0300


 日本映画「散歩する侵略者」を観ました。
 「未来医師イナバ」こと東京大学病院の循環器系内科医師である稲葉俊郎さんのブログで存在を知って以来、観たいと思っていました。稲葉さんの友人の劇作家・前川知大さんによる劇団イキウメの人気舞台「散歩する侵略者」を映画化したものです。映画「三度目の殺人」を観た直後の鑑賞でしたが、こちらのほうが映画的に面白かったですね。ともに9日の公開で、かつ、カンヌ国際映画祭の正式出品作品ですが・・・・・・。

 ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。

「『アカルイミライ』などの黒沢清監督が、劇作家・演出家の前川知大が結成した劇団イキウメの舞台を映画化。数日間失踪したのちに様変わりした夫が妻のもとへ戻ったのを機に、平穏だった町が変化するさまを描く。『地球を侵略しに来た』と妻に告白する夫を『舟を編む』などの松田龍平、そんな夫に翻弄(ほんろう)される妻を『世界の中心で、愛をさけぶ』などの長澤まさみ、一家惨殺事件を調査するジャーナリストを『セカンドバージン』などの長谷川博己が演じる」

 ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「鳴海(長澤まさみ)の夫・真治(松田龍平)が、数日間行方をくらまし、別人のようになって帰ってくる。これまでの態度が一変した夫に疑念を抱く鳴海は、突然真治から『地球を侵略しに来た』と告白され戸惑う。一方、町ではある一家の惨殺事件が起こったのを機に、さまざまな現象が発生し、不穏な空気が漂い始める」

 この映画、もともと舞台作品だけあって役者さんの演技力が問われるのですが、主演の松田龍平、長澤まさみ、長谷川博巳・・・・・・いずれも素晴らしい演技でした。なかなかの豪華キャストで、教会の牧師役が東出昌大だったり、ラストの診療所のシーンに登場する女医を小泉今日子が演じていたのには驚きました。いやあ、贅沢なキャスティングですね。わたしのブログ記事「笹野高史講演会」で紹介した「日本一の名脇役」が重要な役所で登場するにも嬉しかったです。

 「侵略者」という言葉がタイトルにあるようにテーマは「地球侵略」です。 名作「光る眼」をはじめ、これまで数多くの侵略SF映画が作られてきましたが、「散歩する侵略者」も立派な侵略SF映画です。 映画「シン・ゴジラ」と同じく、長谷川博巳が出演していますが、「シン・ゴジラ」で大活躍した日本国自衛隊が「散歩する侵略者」でも活躍します。相手がゴジラであろうと、宇宙人だろうと、自衛隊は日本人を守るために命がけで闘ってくれるのです。

 この映画、稲葉俊郎さんのブログで知ったと言いました。
 稲葉さんは、自身のHP「TOSHIRO INABA」の映画『散歩する侵略者』」という記事で、この映画の魅力を大いに述べています。 また、「BrutusNo.854 人間関係573 写真/篠山紀信『衝撃の余韻』稲葉俊郎、前川知大」という記事によれば、9月1日発売の「ブルータス」で、この映画の原作者である前川さんと稲葉さんはなんと篠山紀信さんから写真を撮影されたそうです。これは、すごいですね!
 この他にも、稲葉さんはNHK朝ドラ快進撃のきっかけとなった「あまちゃん」のテーマ曲を作った大友良英さんとの共著『見えないものに、耳をすます―音楽と医療の対話』(アノニマ・スタジオ)を上梓したり、仏教界のオピニオン・リーダーの藤田日照さんと対談したり・・・今ノリに乗っています。

 その稲葉さんが、「散歩する侵略者」について、ブログで「話のストーリーの構造が強靭であり普遍的だ。物語の力が圧倒的に強い。それでいて、人間の根源や本質にかかわる哲学的な内容でもあり、まー素晴らしかった」と絶賛しています。また、「僕らが持つイメージや概念(コンセプト)。これは言葉以前のものだが、そういうものを奪い、学習する宇宙人、侵略者がテーマだ。宇宙人が学習することで、地球人からはその概念が失われる。ただ、それは悲劇ともいえるし喜劇とも言える。なぜなら、概念に縛られている人は逆に自由になるからだ。その人にとって奪われた方が幸せなのか、簡単に結論付けることができない」とも述べています。


20131002132659.jpg
世界をつくった八大聖人』(PHP新書)


 稲葉さんは「人間の根源や本質にかかわる哲学的な内容」と表現していますが、わたしも「散歩する侵略者」は哲学映画だと思いました。内容は、安部公房の哲学的SF『人間そっくり』を連想させます。そして、「散歩する侵略者」とは、西洋哲学の祖であるソクラテスその人のことだと思いました。
 読書家でもある稲葉さんが評価して下さった拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)にも詳しく書きましたが、ソクラテスは自分自身にとって最も大切なものは何かを問い、毎日、アテナイの町を散歩して人々と哲学的対話を交わしました。ソクラテスはアテナイの町角や体操場で美しい青少年や町の有力者たちを相手に、「人を幸福にするものは何か」「善いものは何か」「勇気とは何か」などと問いただしました。それをソクラテスの「問答法(ディアレクティケー)」といいます。これらの問答のテーマの多くは実践に関するものでしたが、最後はいつも「まだ、それはわからない」という無知の告白を問答者同士が互いに認め合うことによって終わったのです。

 多くの青年はソクラテスの問答に魅了されて、プラトンのように彼の弟子になりました。しかし、その他の青年は次のように思って憤慨しました。つまり、ソクラテスは「まだ、それはわからない」と言いながらも、じつは自分では知っているかのような印象を与える。これを「ソクラテスのイロニー」といいますが、そこで自分たちの無知を露呈された人々は、ソクラテスのやり口の陰険さを怒ったのです。しかし、ソクラテスの真意は、各人が自己の存在がそれによって意味づけられている究極の根拠についての無知を悟り、これを尋ねることが何よりも大切なことと知るように促すことにありました。もとよりソクラテスがこの根拠を知るということではなく、むしろ、究極の根拠についての無知を悟ることにありました。いわゆる「無知の知」です。

 対話活動の結果、ソクラテスが発見したことは、賢いと思われている人々は本当は少しも賢くないということでした。すなわち、「人間の知恵など無に等しい」ということ、「ソクラテスのように自分の無知を自覚することが人間の賢さである」ということが、アポロンからのメッセージだったのです。
 ソクラテスのめざすところは、「無知の知」への問いかけを通じてこの「行き詰まり(アポリア)」の内にとどまるところにありました。それがソクラテスの哲学だったのです。それは根元から問いかけられるものとしての場に自分を置くことであり、このような方法で自分が全体として根源から照らされることでした。 そして、古代ギリシャにおけるソクラテスの姿は「散歩する侵略者」で現代日本に出現した宇宙人たちの姿とぴったり重なります。


20150710175509.jpg
唯葬論』(三五館)


 この映画の宇宙人たちは人間の言語を必死で習得しますが、哲学は言語によって生まれます。これまた稲葉さんが高く評価して下さった拙著『唯葬論』(三五館)の「哲学論」に詳しく書きましたが、わたしたちが知っているような話し言葉の誕生が、人類の先史時代を特徴づける1つの出来事だったことに疑問の余地はありません。あるいは、それこそが実際に先史時代を特徴づけた決定的な出来事だったのかもしれません。
 言語を身につけた人類は、自然界に新たな世界をつくり出すことができました。つまり、内省的な意識の世界と、他者とともにつくりあげて共有する世界、わたしたちが「文化」と呼ぶものです。ハワイの言語学者デリック・ビッカートンは、「言語こそが、人間以外のあらゆる生物を拘束する直接体験という監獄を打ちこわし、時間や空間に縛られない無限の自由へとわれわれを解き放ったのである」と述べています。

 人間は言葉というものを所有することによって、現実の世界で見聞したり体験したことのない、もしくは現実の世界には存在しない抽象的イメージを、それぞれの意識のなかに形づくることができるのです。そして、そのイメージを具現化するために自らの肉体を用いて自然を操作することができるのです。まさしく、その能力を発揮することが文明でした。
 それによって人間はこの自然の上に、田や畑や建造物などの人工的世界を建設し、地球上で最も繁栄する生物となったのです。抽象的なイメージ形成力を持ち、自然を操作する力を持ち、自らの生存力を高めてきた人間ですが、その反面で言語を持ったことにより大きな原罪、あるいは反対給付を背負うことになりました。

 人間はもともと宇宙や自然の一部であると自己認識していました。しかし、意識を持ったことで、自分がこの宇宙で分離され、孤立した存在であることを知り、意識のなかに不安を宿してしまったのです。実存主義の哲学者たちは、それを「分離の不安」と言います。しかし、不安を抱えたままでは人間は生きにくいので、それを除去する努力をせざるを得ませんでした。
 この営みこそが文化の原点であり、それは大きく哲学・芸術・宗教と分類することができます。 その宗教の中でも人類で最大の信者を有するキリスト教では「愛」の重要性を説きます。この映画では、最後に松田龍平演じる真治の姿をした宇宙人は、長澤まさみ演じる鳴海から「愛」の概念を抜き取ります。しかし、それが命取りになって、宇宙人は地球侵略を断念するのでした。「シン・ゴジラ」の怪獣を退治したのは自衛隊の「熱核攻撃」でしたが、「散歩する侵略者」の宇宙人を退治したのは「夫婦愛」だったのです!

 ところで、『唯葬論』といえば、「なぜ人間は死者を想うのか」というサブタイトルがついていますが、黒沢清監督にもまさに「死者を想う」ことをテーマに作られた名作があります。映画「岸辺の旅」です。
 「岸辺の旅」では、冒頭からいきなり死者が日常生活の中に登場します。深津絵里扮するピアノ教師・瑞希のもとに、3年前に自殺している夫の優介がふらりと現れるのです。それは亡き夫の生前の好物であった白玉を妻が作っていたときでした。死者である優介の出現に瑞希はさほど驚かず、「おかえりなさい」と言います。そして、2人は死後の優介の足跡をたどる旅に出て、かつて優介が交流した人々と再会するのでした。
 「岸辺の旅」では死者、「散歩する侵略者」では宇宙人とその種類は違いますが、いずれも異人です。異人としての夫が妻のもとに帰ってきて、非日常の物語が開始される。その意味で、この2本の黒沢映画は通じ合っています。そして、2本とも観客に「夫婦とは何か」を考えさせてくれます。