No.0299
日本映画「三度目の殺人」を観ました。
最近、なぜか自宅書斎のパソコンに「広瀬すず」と名乗る人物のツイッタ―が送信されてきます。もちろん彼女が人気の若手女優だということはよく知っていますが、フォロワー登録をした記憶はありません。どうして彼女のつぶやきを読まされているのかわからないのですが、最近、出演したこの映画がよく取り上げられており、「観ようかな」という気になりました。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作『そして父になる』の福山雅治と是枝裕和監督が再び組んだ法廷サスペンス。死刑が確実視されている殺人犯の弁護を引き受けた弁護士が、犯人と交流するうちに動機に疑念を抱くようになり、真実を知ろうとするさまを描く。弁護士や検事への取材に加え、作品の設定通りに実施した模擬裁判で出てきたリアルな反応や言動などを脚本に反映。福山ふんする主人公が弁護を担当する殺人犯を、役所広司が演じる」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「勝つことを第一目標に掲げる弁護士の重盛(福山雅治)は、殺人の前科がある三隅(役所広司)の弁護を渋々引き受ける。クビになった工場の社長を手にかけ、さらに死体に火を付けた容疑で起訴され犯行も自供しており、ほぼ死刑が確定しているような裁判だった。しかし、三隅と顔を合わせるうちに重盛の考えは変化していく。三隅の犯行動機への疑念を一つ一つひもとく重盛だったが・・・・・・」
広瀬すずちゃんのツイートにつられて観た「三度目の殺人」ですが、正直な感想はピンときませんでした。さらに言いなら、映画として面白くなかったです。映画「そして父になる」、映画「海街 diary」、映画「海よりもまだ深く」といった是枝監督の一連の作品のような「家族愛」を問うホームドラマではなく、「正義」とか「真実」とかを問うシリアスな犯罪映画であり法廷映画でした。ですが、ちょっと監督のひとりよがりな印象がありました。最後まで真実が明らかにならないまま終わったのも消化不良です。
個々の役者の演技は良かったと思います。でも、ストーリーあるいはシナリオに難があって、せっかくの熱演がもったいない感じがしました。福山雅治も役所広治も広瀬すずも素晴らしい演技だったのに、まことに残念です。
見所は、斉藤由貴の怪演でした。そもそも、斉藤由貴と広瀬すずの母娘役というのは「マジパネェ!」と言いたくなる絶妙のキャスティングです。だって、最高の美人母娘ではないですか。わたしは、かつて斎藤由貴の大ファンだったので、現在彼女が不倫騒動の渦中にあることを複雑な心境で見守っています。でも、映画の中で彼女が扮する被害者の妻が不倫騒動に巻き込まれるを見て、「事実は小説(映画)よりも奇なり」と思いましたね。
この消化不良度の高い映画がどうしてカンヌ国際映画祭に出品できるのか、正直言って理解できません。すっかりカンヌの常連となった是枝監督の作品だからでしょうか。でも、カンヌに代表されるヨーロッパ映画界を意識するあまり、彼ら向きのメッセージ作りに傾倒したように思えてなりません。
そう、キリスト教のことです。この作品についてのネットの映画評に「イエス・キリストになりきれなかった男の物語」というコメントがありましたが、同感です。「三度目の殺人」にはキリスト教の香りが強く漂っています。
「三度目の殺人」というタイトルにも、「三隅」という容疑者の名前にも「三」という数字が入っていますが、キリスト教にとって「3」は最大の秘数です。「神」を表す数字だからです。キリスト教の儀式では3回祈りを重ねます。
また、「三位一体」は「父なる神、御子イエス、聖霊」 という三つの位格を信仰します。そして、三つの位格が互いに呼応し合う関係性を持ちながら、三つの神ではなく一つの神であるととらえます。つまり、「三位一体」は、キリスト教における奥義なのです。さらに、キリスト教においては、人間は「キリストの御坐の裁き」「羊と山羊の裁き」「白い大いなる御坐の裁き」という3つの裁きのいずれかを受けなければならないとされています。
「裁き」はこの映画のキーワードの1つで、何度も登場しました。
広瀬すず演じる咲江が「誰を裁くのかは、誰が決めるんですか?」と福山雅治演じる重盛に質問するシーンがあります。
ここにも、人間裁くのは神のみであり、本当は人間が人間を裁くことはできないというキリスト教的思想が漂っています。
そういえば、殺人現場には十字架が象徴的に描かれていました。
タイトルの「三度目の殺人」ですが、映画には殺人は2回しか登場しません。おそらくは3回目は、死刑判決のことを言っているのだと思います。これ以上書くとネタバレになるので控えますが、この映画では「死刑」を「殺人」と同一にとらえていることは明らかでしょう。
この映画におけるキリスト教の香りは、冒頭の殺人死体に火をつけて燃やすシーンでも感じました。あれは「火刑」そのものです。かつて魔女裁判の容疑者を「火あぶり」にしたように、火刑は最も重い罰です。
また、この映画では、斉藤由貴演じる被害者の妻は「あんな殺され方をして、遺体を焼かれて、葬儀では最後のお別れもできなかったんですよ!」と重盛に言い放つ場面が印象的でした。
わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為を絶対に認めません。その理由は、「礼」すなわち「人間尊重」に最も反する行為だからです。
『永遠葬』(現代書林)
現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増えつつあります。あるいは遺体を完全に焼却し、遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで注目されています。しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。
ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。
ナチスはガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。ISは人質にしていたヨルダン人パイロットを焼き殺しました。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は、ナチス・オウム・ISの闇に通じているのです。そのことを拙著『永遠葬』(現代書林)で訴えました。
刑務所で面会する容疑者の発言内容がコロコロ変わり、弁護士が翻弄される場面には、考えさせられました。裁判直前に重盛が「頼むよ、今度こそ本当のことを教えてくれよ!」と三隅に懇願するシーンが印象的でした。
じつは、「三度目の殺人」を観た直後に、同じ映画館で「散歩する侵略者」という映画も観たのですが、両作品は「相手の言っていることは真実かどうか」が大きな焦点になっていたことが共通していました。前者の場合は「殺人者」で、後者の場合は「宇宙人」が語る言葉を信じられるかどうかという物語でした。「三度目の殺人」では、殺人の容疑者である三隅の発言の真実性が大きな見せ場になっていますが、これを見てわたしは「殺人の容疑者はともかく、経営者は真実を語らなければいけない」と思いました。
『孔子とドラッカー新装版』(三五館)
拙著『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)にも書いたのですが、経営者の究極の役割とは、力に満ちた言葉、すなわち「言霊」を社員に語ることです。社員の心を励ます言葉、マネジャーの胸を打つ言葉、経営幹部の腹に響く言葉、顧客の気持ちを惹きつける言葉・・・・・・そうした言霊の数々も大切ですが、何よりも語るべきなのは真実です。リーダーは第一線に出て、部下たちが間違った情報に引きずられないように、真実を語らなければなりません。部下たちに適切な情報を与えないでおくと、リーダーが望むのとは正反対の方向へ彼らを導くことにもなります。そして説得力のあるメッセージは、リーダーへの信頼の上に築かれることは言うまでもありません。
最後に、「三度目の殺人」のラストで重盛が三隅のことを「ただの器・・・」と言ったことについて。この「器」という言葉意味を考えたとき、ここまで三隅が示してきたテレパシー的な能力が思い起こされます。三隅は、接見の際に重盛が娘のことで悩んでいることを読み取り、咲江が父親に対する殺意を言葉にしなくても「通じてしまった」と語っています。さらには、三隅は「自分は殺していない」と証言を変えましたが、これは咲江につらい証言をさせないためだと推測されます。じつは、この考えは三隅のものではなく重盛の脳裏によぎったシナリオなのでした。つまり、三隅は人の考えを読み取る「器」であり、それを実行しただけということです。
そうすると、殺人事件の法廷劇が超常オカルト・ホラーに一変します。
役所広治は、「CURE」(1997年)、「カリスマ」(1999年)、「回路」(2001年)、「降霊 KOUREI」(2001年)、「ドッペルゲンガー」(2003年)、「叫」(2006年)といった黒沢清監督による一連のホラー映画で主演してきましたが、「三度目の殺人」が超常オカルト・ホラーだとしたら、一気にそれらの黒沢作品の世界に通じてきます。特に、「カリスマ」で役所広治が演じた謎の巨木に操られる男などは「器」そのものでした。
さて、黒沢清監督といえば、最新作の「散歩する侵略者」が「三度目の殺人」と同じ9月9日に公開されています。ということで、「三度目の殺人」を観た直後に、わたしは「散歩する侵略者」を鑑賞したのでした。