No.0329
ディズニー/ピクサーのアニメ映画「リメンバー・ミー」を観ました。第90回アカデミー賞において、「長編アニメーション賞」と「主題歌賞」の2冠に輝いた話題作です。率直な感想は、「これは、わたしのためのアニメだ!」です。カラフルな「死者の国」も魅力的でしたし、「死」というテーマをよくぞここまで見事なエンターテインメントにしてくれたものです。本当に素晴らしい!
ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「1年に1度だけ他界した家族と再会できるとされる祝祭をテーマにした、ディズニー/ピクサーによる長編アニメ。死者の国に足を踏み入れた少年が、笑いと感動の冒険を繰り広げる。監督と製作には、『トイ・ストーリー3』のリー・アンクリッチ監督と、製作を担当したダーラ・K・アンダーソンが再び集結。テーマパークのような死者の国の描写、祖先や家族を尊ぶ物語に引き込まれる」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「過去の出来事が原因で、家族ともども音楽を禁止されている少年ミゲル。ある日、先祖が家族に会いにくるという死者の日に開催される音楽コンテストに出ることを決める。伝説的ミュージシャンであるデラクルスの霊廟に飾られたギターを手にして出場するが、それを弾いた瞬間にミゲルは死者の国に迷い込んでしまう。元の世界に戻れずに困っていると、ヘクターという謎めいたガイコツが現れ......」
公開されるずいぶん前から楽しみにしていた「リメンバー・ミー」ですが、そのテーマからして、わたしが観るべき作品でした。わたしは、つねづね「生者は死者を忘れてはならない」と考え、また訴え続けているからです。「リメンバー・ミー」の死者の国では、生者が祭壇に遺影を飾らないと死者は消えてしまうという設定が興味深かったです。つまり、生者から忘れられた死者はもう一度死ぬというわけです。
『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)でも紹介しましたが、アフリカのある部族では、死者を二通りに分ける風習があるそうです。人が死んでも、生前について知る人が生きているうちは、死んだことにはなりません。生き残った者が心の中に呼び起こすことができるからです。しかし、記憶する人が死に絶えてしまったとき、死者は本当の死者になってしまうというのです。誰からも忘れ去られたとき、死者はもう一度死ぬのです。
「リメンバー・ミー」のテーマと重なりますね。
神秘哲学者のルドルフ・シュタイナーは、生者が死者と豊かな関係を築くためには、生者が死者をイメージすることが非常に大切であると述べました。そのような場合、たとえば死者の後ろ姿をイメージすることが大事だといいます。親が道を歩いているときに見たその後ろ姿の肩の感じとか、少し前かがみになって歩いている姿とかが記憶に残っているとするとしますね。そういうところをできるだけ、ありありと思い浮かべると、死者は生者からの呼びかけを感じることができるのです。それから、案でもないような、一緒に食事をしたり、話し合ったりしたときの情景、何かしてくれたときの様子などが自分の中にはっきり思い出として残っている場合、それをイメージすると、やはり死者はそれによって生者からのメッセージを受け取れるといいます。
それから、シュタイナーによれば、死者に対する生者からの働きかけは眠っているときにも生じます。夜眠ると、生者の魂は死者と同じ世界に入ります。毎晩、眠っているときのわたしたちは、実は死者たちと一緒に暮らしているのです。だから眠りの中に、死者に対する供養になるようなイメージを持ち込めるといいます。
また、自分の親しかった死者に対して、何か問いかけをしながら眠るとします。亡くなった父親に向かって、自分はいま、こういう問題をどう考えてよいかわからない、どうしたらよいだろうか、こういう道とこういう道があるけれども、その中のどれを選ぶべきなのかということを問いかけながら眠ります。すると、その問いは死者に働きかけて、死者はそれによって生者にメッセージを送ることができるのです。
シュタイナーによれば、その答えは翌日、思いがけないかたちで出てくるそうです。たとえば自分の心の奥底から、まるで自分が考えたとは思えない素晴らしい思いつきが生じたとすれば、それは死者からのメッセージだというのです。死者が外から声に出して語るというのではなくて、自分の存在の最も核心の部分から聞こえてくるものが死者の声だというのです。さらに、眠るときに死者に対する愛情を持って眠ると、死者はそれをまるで美しい音楽のように聞き取ることができるそうです。
なつかしい思い出が感謝や思いやりとともに死者に届けられるのです。そういう気分の中で眠ることができれば、死者にとっても最大の供養になり、自分にとっても大きな心の支えになるのです。このように、死者のことを思うことが、死者との結びつきを強めるのです。
メーテルリンクの『青い鳥』には、「思い出の国」というのが出てきます。自身が偉大な神秘主義者であったメーテルリンクも、死者を思い出すことによって、生者は死者と会えると主張しました。
『唯葬論』(サンガ文庫)
「リメンバー・ミー」では、主人公のミゲル少年が家族から音楽を禁じられています。この映画では音楽が重要な役割を果たすのです。そもそも、音楽とは人間にとって何でしょうか。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「芸術論」にも書きましたが、音楽は、ある意味で、匂いと同じような存在なのかもしれません。人間が匂いを嗅ぐということの最大の目的は「腐った」ものを感知すること、そして「敵」の匂いを感じ取ることです。「腐敗したもの=食べられないもの」を排除するためにも、「敵」の所在を感知するためにも「匂い」は最大の武器になります。つまり、人間が「生」を全うするために「匂い」という存在は絶対的に必要な条件であるにもかかわらず、ふだん人間はこの感覚の意味をすっかり忘れているのです。人間は「死」を匂いから的確に察知するにもかかわらず、です。
わたしたちは、音楽で感動したときに「心の琴線に触れた」というような言い方をします。それは、脳細胞の中でβエンドルフィンだとかセロトニンだとかのわたしたちの心を興奮させる化学物質が出ていることのサインでしょうし、何よりもまず、わたしたちが「生きている」ということの確認をさせてくれるサインでもあります。わたしたちは「感動できる自分」「生きている自分」にまず感動するのです。「匂い」にもまったく同じことがいえます。「いい匂い」を嗅ぐとき、わたしたちの脳細胞には、快楽ホルモンであるβエンドルフィンが多量に発生します。逆に、「腐った」モノの匂いを嗅ぐとき、脳細胞の中ではストレス・ホルモンのコルチゾールが発生するのです。
音楽の感動や匂いの感動が、人間の五感の中で何よりも直接「記憶」と結びついているのも、こうした今ある「生」と「死」の時空を容易に行き来させる何かを持っているからではないでしょうか。仏教において「生」と「死」を結ぶ匂いが線香の香りだとすれば、梵鐘の音は、こうした「生」と「死」を行き来するための音楽なのかもしれません。花の匂いに感動すること、音楽を聴いて感動すること、それはとりもなおさず、「生きている」ことの実感にほかなりません。音楽の感動は、人間が自然とのバランスの中で生きるすべを、そして「生きていることの幸せ」を実感させてくれます。それは、個体としてのバランス、自然とのバランス、そして「異空間」とのバランスを保つための情報が「音楽」の中には入っているからです。
作家・評論家の澁澤龍彦は、「楽器について」という秀逸なエッセイにおいて、「芸術」そのものの本質を語っています。ヨーロッパの中世の宗教画には、かわいい天使たちが手にいろんな楽器をもって音楽を奏でている場面が描かれている。現代日本の結婚式場やチャペルのデザインなどにも、よく使われています。澁澤は、その天使の楽器について、さらに「天上」というキーワードを重ねて、「たしかに最高の音楽は、いわば天上的無垢、天上的浄福に自然に到達するものと言えるかもしれない。アンジェリック(天使的)という言葉は、たぶん、音楽にいちばんふさわしい言葉なのである」と述べています。
ここで、わたしが思い浮かべるのは、一条真也の映画館「おくりびと」で紹介した日本映画です。2008年に公開され、第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。「死」という万人に普遍的なテーマを通して、家族の愛、友情、仕事への想いなどを直視した名作として知られます。特に興味深かったのは、納棺師になる前の主人公の仕事がチェロ奏者だということです。チェロ奏者とは音楽家です。すなわち、芸術家ですね。そして、芸術の本質とは、人間の魂を天国に導くものだとされます。素晴らしい芸術作品に触れ心が感動したとき、人間の魂は一瞬だけ天国に飛びます。「おくりびと」で描かれた納棺師という存在は、真の意味での芸術家そのものです。そう、送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりうるのではないでしょうか。
『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)
「リメンバー・ミー」を観れば、死者を忘れないということが大切であると痛感します。わたしたちは死者とともに生きているのであり、死者を忘れて生者の幸福など絶対にありえません。最も身近な死者とは、多くの人にとっては先祖でしょう。先祖をいつも意識して暮らすということが必要です。
拙著『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)にも書きましたが、わたしたちは、先祖、そして子孫という連続性の中で生きている存在です。遠い過去の先祖、遠い未来の子孫、その大きな河の流れの「あいだ」に漂うもの、それが現在のわたしたちにほかなりません。
『なぜ、一流の人はご先祖さまを大切にするのか?』(すばる舎)
「リメンバー・ミー」の舞台はメキシコです。ブログ「中別府温和先生」で紹介した恩師と26年ぶりに再会した日の夜に「リメンバー・ミー」を観たわけですが、宗教人類学者である中別府先生はメキシコのユカタン半島を何度も訪れ、現地の人々の信仰についてフィールドワーク研究されたそうです。
メキシコの人々は基本的にカトリック信者ですが、みな先祖を大切にするといいます。先祖を大切にすることは家族の絆を強め、精神的な安定にもつながります。「リメンバー・ミー」にはメキシコの先祖供養の様子が描かれていますが、わたしは沖縄の先祖供養を連想しました。拙著『なぜ、一流の人はご先祖さまを大切にするのか?』(すばる舎)にも書きましたが、沖縄は「守礼之邦」と呼ばれます。 「礼」においても最も大事なことは親の葬儀であり、先祖供養です。沖縄人ほど、先祖を大切にする人はいません。
沖縄の人は先祖の墓の前で会食します。先祖と一緒にご飯を食べ、そこは先祖と子孫が交流する空間となるわけです。子どものころから墓で遊ぶことは、家族意識や共同体意識を育ててくれます。これは今の日本人に最も欠けているものであり、ぜひ本土でもやるべきだと確信します。「リメンバー・ミー」を観ながら、そんなことを考えました。それにしても、このような死者をテーマにしたアニメーションの傑作映画が誕生するとは、わたしのような一介の唯葬論者からすると嬉しい限りです。多くの子どもたちに、明るい死生観を与えてほしいものです。
それから、「リメンバー・ミー」にはとても大切なテーマがあります。それは、死者の名誉を回復するということです。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、ミゲル少年はある1人の先祖の不名誉を晴らします。そして、ミゲル自身の運命をも大きく切り拓きます。死者は無実の罪を着せられても、それを自分で晴らすことができません。これまでの人類史上、どれだけ多くの死者たちが「濡れ衣」を着せられたままでいるかを想像すると、ゾッとします。ただでさえ死の不安があるのに、ますます死ぬのが怖くなってきます。しかし、ミゲル少年のような頼もしい子孫がいると思えば、死ぬのも怖くなくなってきます。『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)の続編を刊行するときは、絶対に「リメンバー・ミー」を入れたいと思います。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)