No.350


 日本映画「終わった人」を観ました。内館牧子原作のベストセラー「定年小説」を映画化した"笑って泣けるハートフルコメディ"です。一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)が特別協賛しています。

 ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。

「テレビドラマ『週末婚』などの脚本を手掛けてきた内館牧子の小説を、舘ひろしを主演に迎えて映画化。定年退職し世間から終わった人と見なされた元会社員の悲哀と、そんな夫と向き合えない妻の関係をハートフルに描く。舘ふんする主人公の妻を黒木瞳、主人公を惑わす美女を広末涼子が演じるほか、臼田あさ美、田口トモロヲらが共演。『リング』シリーズなど数多くのホラーを手掛けてきた中田秀夫がメガホンを取る」

 また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。

「大手銀行の出世コースから外れ、子会社に出向したまま定年を迎えた田代壮介(舘ひろし)は、喪失感からネガティブな発言を繰り返す。以前の輝きを失った夫と向き合えない美容師の妻・千草(黒木瞳)との間に溝ができ、満たされない気持ちから再就職先を探すが、うまくいかない。そんな中、ある人物と出会ったことで運命が大きく動きだし......」

 わたしは数日前に全互連の会長を退任したばかりなので、「『終わった人』って、俺のことか?」と思いながら観ました。正直、最初はあまり鑑賞に気乗りはしませんでしたが、全互協が特別協賛しているので社長室のメンバーと一緒に観ました。シネコンの最も小さいシアターでしたが、土曜の夜だというのにガラガラ。わたしは「もしかして、この映画自体が終わっている?」と少しだけ思いました。受付嬢によれば、一条真也の映画館「万引き家族」で紹介した映画はほぼ同時間に上映されて満員だったとか。(苦笑)
 しかし、予想に反してと言っては失礼ですが、とても面白かったです。主演の舘ひろしがあまりにもスタイルが良くてファッショナブルなので、「終わった人」感がまったく感じられないのが玉に傷でしたが、ユーモアとペーソスが全体に溢れていて、「万引き家族」よりもずっと良い映画でした。

 舘ひろし演じる主人公の田代壮介は高校時代はラグビー部のキャプテンで、東大法学部からメガバンクに入行した超エリートです。銀行でも出世コースを驀進していましたが、結局はコースから外れて子会社へ出向させられます。わたしの友人や知人で、大手新聞社や総合商社や大手証券会社で出世コースに乗っており、「最低でも本社の役員。いずれは社長の可能性も...」という優秀な人間が数人いたのですが、すべてコースから外れてしまいました。やはり、大企業は甘くありません。実力や人望だけでは出世できないのが大企業なのです。壮介もそのような人生を歩んできました。彼の姿を見ながら、わたしは友人や知人のことを思い出しました。

 それにしても、会社での最終日にハイヤーで帰る壮介の姿は寂しそうでした。部下たちから花束は貰うのですが、どうしても哀愁が漂います。壮介は「まるで生前葬だな」とつぶやきますが、まさにサラリーマンにとっての退職セレモニーとは生前葬なのかもしれません。しかし、生前葬をネガティブに描いたり、茶化して描いたりするのはちょっと不愉快でした。このへんは、全互協の広報・渉外委員会もきちんとチェックを入れてほしかったです。まあ、ユーモアの範囲で許容はできますが......。それにしても、「リング」をはじめとしたJホラーの名匠である中田秀夫監督がこのようなユーモアの演出ができるとは意外でした。

 退職直後の壮介は、けっこう哀れです。「終わった人 1日目」とか「終わった人 2日目」といったように、まるでカタストロフィーが待ち受けているかのようなカウントには笑いましたが、仕事一筋で来た会社人間には、定年後に何もすることがないというのがリアルで怖いです。暇を持て余した挙句、壮は大学院への合格を目指し、まずはカルチャーセンターに通います。
 壮介は文学、それも石川啄木研究と言うテーマを選びますが、このように定年後に何かの文化に親しむというのは素晴らしいことだと思います。


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老福論~人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)


 拙著『老福論~人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)にも書きましたが、「人は老いるほど豊かになる」というのが、わが持論です。一般に、高齢者には豊かな時間があります。時間にはいろいろな使い方がありますが、「楽しみ」の量と質において、文化に勝るものはないでしょう。さまざまな文化にふれ、創作したり感動したりすれば、老後としての「グランドライフ」が輝いてきます。文化には訓練だけでなく、人生経験が必要とされます。また、文化には高齢者にふさわしい文化というものがあると思います。


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「サンデー毎日」2017年11月12日号


 長年の経験を積んでものごとに熟達していることを「老熟」といい、経験を積んで大成することを「老成」といいます。「老」には深い意味があるのです。わたしは「大いなる老いの」という意味で「グランド」と名づけています。これは、グランドファーザーやグランドマザーの「グランド」でもあります。
 この「老熟」や「老成」が何よりも物を言う文化が「グランドカルチャー」です。グランドカルチャーは、将棋よりも囲碁、生花よりも盆栽、短歌よりも俳句、歌舞伎よりも能とあげていけば、そのニュアンスが伝わるのでは?

 もちろん、どんな文化でも老若男女が楽しめる包容力を持っていますが、特に高齢者と相性のよい文化、すなわちグランドカルチャーというものがあります。わが社では高齢者向けの文化教室「グランドカルチャーセンター」を運営しています。 グランドカルチャーは高齢者の心を豊かにし、潤いを与えてくれる。それは老いを得ていくこと、つまり「得る老い」を「潤い」とします。超高齢社会を迎えた今こそ、高齢者は文化に親しむべきだと思います。その生き方が、「後期高齢」を「光輝好齢」に変えてくれるはずです。

 啄木研究を志すだけあって、壮介には詩心があるようです。
 定年退職の翌日、妻と訪れた公園の桜を見上げながら、彼は「散る桜 残る桜も 散る桜」という良寛の辞世の句を口ずさみます。それが妻には女々しい愚痴と思えたようですが、これは妻のほうがおかしいです。良寛の句は人生の真理を淡々と詠ったものであり、けっして愚痴などではありません。



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「サンデー毎日」2017年2月12日号


 死生観を育むためには、辞世の歌・辞世の句というものが大事です。日本人は辞世の歌や句を詠むことによって、「死」と「詩」を結びつけました。死に際して詩歌を詠むとは、おのれの死を単なる生物学上の死に終わらせず、形而上の死に高めようというロマンティシズムの表れであるように思えます。そして、「死」と「志」も深く結びついていました。
 死を意識し覚悟して、はじめて人はおのれの生きる意味を知ることができます。有名な坂本龍馬の「世に生を得るは事を成すにあり」こそは、死と志の関係を解き明かした言葉にほかなりません。

 また、『葉隠』には「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」という句があります。これは、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学の箴言なのです。もともと日本人の精神世界において「死」と「詩」と「志」は不可分の関係にあったのです。「辞世の歌」や「辞世の句」とは、それらが一体となって紡ぎ出される偉大な人生文学ではないでしょうか。

 わたしが特に好きな「辞世の歌」は、「良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏といふと答へよ」(良寛)、「あらたのし思ひは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」(大石良雄)、「頼み無き此世を後に旅衣 あの世の人にあふそ嬉しき」(清水次郎長夫人お蝶)の三首です。
 また、好きな「辞世の句」は「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」(松尾芭蕉)、「もりもり盛り上がる 雲へあゆむ」(種田山頭火)、「春風や 次郎の夢の まだつづく」(新田次郎)です。

 ラストシーンに登場した盛岡の桜は美しかったです。惜しみなく咲き、そして潔く散ってゆく桜の花は、日本人の死生観を育んできました。故郷の桜を見た壮介は、またしても「散る桜 残る桜も 散る桜」と口ずさみます。その後、ちょっと心温まるシーンがあるにはあるのですが、わたしには物足りませんでした。やはり 一条真也の映画館「おくりびと」で紹介した映画のように冠婚葬祭で人を幸せにする作品を、全互協には特別協賛してほしかった。広報・渉外委員会さん、お願いしますよ!


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儀式論』(弘文堂)


 全互協には儀式継創委員会という組織もありますが、ぜひ同委員会には、定年退職後の夫婦の絆を強めるような新しいセレモニーを考えていただきたいと思います。動揺して不安を抱え込んでいる「こころ」に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。
 拙著『儀式論』(弘文堂)でも詳しく述べましたが、儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の「こころ」が不安定に揺れているときです。語源が「ころころ」だという説もあるぐらい、人間の「こころ」とは不安定なもの。それを安定させる「かたち」が儀式です。七五三、成人式、結婚式、長寿祝い、葬儀といった通過儀礼(人生儀礼)はすべて「こころ」を安定させるための「かたち」です。そして、定年後の人間の「こころ」も大きな不安に揺れ動いています。ここに何らかの儀式を創新すべきではないでしょうか。

 美容師をやっている壮介の妻・千草は黒木瞳が演じていましたが、彼女にはもっと夫の孤独を理解してあげてほしかったです。あと、「おくりびと」にも出演していた広末涼子と笹野高史も良い味を出していましたが、広末が演じたカルチャーセンターの受付嬢は個人的に苦手なタイプの女性です。この映画では36歳の彼女が田口トモロヲ演じる55歳(わたしと同い年)のイラストレーターと不倫をしていると思い込んで怒ってしまいましたが、これはわたしの勘違いでした。わたしはイラストレーターのことを壮介の娘婿と勘違いしていたのです。でも、本当の娘婿が登場しなかったので勘違いした観客は多かったはず。ここは登場人物の相関関係をもっとわかりやすくしてほしかったかったですね。


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人生の修め方』(日本経済新聞出版社)


 「終わった人」という映画のタイトルは好きではありません。いま流行の「終活」という言葉も嫌いです。もともと「終活」は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。わたしも「終末」という言葉には、違和感を覚えます。なぜなら、「老い」の時間をどう豊かに過ごすかこそ、本来の終活であると思うからです。そこで、わたしは、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。


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「サンデー毎日」2016年1月8日・15日合併号


 考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」でしょう。
 学生時代の自分を修めることが就活で、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。
 老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める......この覚悟が人生をアートのように美しくすると思うのです。わたしは「終わった人」ではなく、「修めた人」になりたい!

 最後に余談を2つ。1つめは、壮介が高校ラグビー部の主将だったとき、彼はミーティングで「試合に勝つためには反則でも何でもやろう!」と言います。それに対して監督の息子が反発し、「反則はいけねぇ。ルールを守らなかったら、タックルもスクラムもただの野蛮な行為だべ」と言い返して、二人は喧嘩になります。このシーン、どうしても例の日大アメフト部の危険タックル事件を連想しますね。まるであの事件を予見していたようなエピソードですが、まあ、昔からアメフトとかラグビーなどのコンタクト・スポーツには日常茶飯事的な問題なのでしょう。

 もう1つ。ここは、ネタバレ覚悟でお読み下さい。定年後で暇を持て余していた壮介は新興IT企業の顧問になります。社長が急死して、壮介は新社長になるのですが、妻の千草は「顧問と社長では責任の重さが違うわ!」と言って反対します。その後、事態は千草が心配したとおりになるのですが、わたしは自分が社長に就任した当時のことを思い出しました。会社に何かあったら、社長はすべての責任を負わなければなりません。
「終わった人」を観ながら、そんなことを痛感しました。エンドロールで流れた「終わった人」の主題歌「あなたはあなたのままでいい」は今井美樹が歌いましたが、心に沁みるような名曲だと思いました。