No.373


 ヒューマントラストシネマ有楽町で映画「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」を観ました。幽霊が登場する映画で、グリーフケアに関わっていることを思わせる内容です。翌21日に客員教授を務める上智大学グリーフケア研究所の講義を行いますが、そのテーマが「グリーフケアと読書・映画鑑賞」なので、講義の最新ネタを拾うためもあって観たのです。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「事故死した男が幽霊になって残された妻を見守る姿を描いたファンタジー。シーツ姿の幽霊としてさまよい続ける夫を『マンチェスター・バイ・ザ・シー』などのケイシー・アフレック、彼の妻を『キャロル』などのルーニー・マーラが演じる。メガホンを取るのは、二人と『セインツ ー約束の果てー』で組んだデヴィッド・ロウリー監督」

 ヤフー映画の「あらすじ」には、こう書かれています。
「若夫婦のC(ケイシー・アフレック)とM(ルーニー・マーラ)は田舎町の小さな家で幸せに暮らしていたが、ある日Cが交通事故で急死してしまう。病院で夫の遺体を確認したMは遺体にシーツをかぶせてその場を後にするが、死んだはずのCはシーツをかぶった状態で起き上がり、Mと暮らしていたわが家へ向かう。幽霊になったCは、自分の存在に気付かず悲しみに暮れるMを見守り続ける」

 この映画、タイトルの通りにゴースト、つまり幽霊が登場します。ちょっとオバQを連想させる外見なのですが......幽霊が登場する映画といえばホラーというイメージがありますが、この映画はホラーというエンターテインメント映画ではありません。アート系の映画です。まるで「詩」のような映画と言ってもいいでしょう。この映画に出てくるゴーストは家に憑きます。いわゆる「地縛霊」というやつでしょうか。

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死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 ゴーストは空間に縛られますが、時間には縛られません。自由自在に過去や未来を行き来します。そのあたりに「?」という矛盾を感じる部分もあったのですが、あくまでも幽霊の時間感覚で描かれた喪失と記憶のファンタジーというところなのでしょう。
 わたしは『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で、映画の本質とは「死者と再会すること」、そして「時間を超えること」と指摘しましたが、まさにこの映画はそれを体現している作品でした。

 同書の中には「ホラー映画について」というコラムが収録されています。何を隠そう、わたしは三度の飯よりも、ホラー映画が好きです。あらゆるジャンルのホラー映画のDVDやVHSをコレクションしていますが、特に心霊系のホラーを好みます。「ゴースト ニューヨークの幻」というハリウッド映画もありましたね。冠婚葬祭業の経営者が心霊ホラー好きなどというと、あらぬ誤解を受けるのではないかと心配した時期もありました。しかし、今では「死者との交流」というフレームの中で葬儀と同根のテーマだと思っています。

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唯葬論』(サンガ文庫)

「葬儀」と「幽霊」といえば、わたしは『唯葬論』(サンガ文庫)の「幽霊論」において、「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れないと述べました。葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式です。葬儀によって、故人は一人前の「死者」となるのです。幽霊は死者ではありません。死者になり損ねた境界的存在です。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけです。ならば、「葬儀」と「幽霊」という二つのテーマは永遠に平行線をたどり、絶対に相容れないのでしょうか。ちなみに、この映画には葬儀のシーンが一切登場しません。未亡人のMが亡夫Cの葬儀を行ったのかどうかさえ定かではありません。

 誤解を恐れずに言えば、わたしはこれからの葬儀には「幽霊」というビジュアル作りが必要になってくるように思っています。とはいえ、その「幽霊」とは恐怖の対象ではありません。あくまでも、それは愛慕の対象でなければなりません。生者にとって優しく、愛しく、なつかしい幽霊、いわば「優霊」です。一条真也の映画館「岸辺の旅」で紹介した黒澤清監督の日本映画などは代表的な優霊映画です。

 一条真也の読書館『怪談文芸ハンドブック』で紹介した本で、著者の東雅夫氏は欧米の怪奇小説における「gentle ghost」というコンセプトを紹介しています。
「『gentle ghost』とは、生者に祟ったり、むやみに脅かしたりする怨霊の類とは異なり、絶ちがたい未練や執着のあまり現世に留まっている心優しい幽霊といった意味合いの言葉で、日本とならぶ幽霊譚の本場英国では、古くから『ジェントル・ゴースト・ストーリー』と呼ばれる一分野を成しています。私はこれに『優霊物語』という訳語を充ててみたことがありますが、あまり流行らなかったようです・・・・・」

 このジェントル・ゴースト・ストーリーは、英米だけでなく、日本にも見られる文芸ジャンルです。古くは上田秋成『雨月物語』の「浅茅が宿」から、近くは山田太一の『異人たちとの夏』や浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』『あやし うらめし あな かなし』『降霊会の夜』、さらには荻原浩の『押入れのちよ』、映画化された岡田貴也の『想いのこし』、加納朋子の『ささら さや』(映画名は「トワイライト ささらさや」)なども典型的なジェントル・ゴースト・ストーリーであると言えるでしょう。このように、日本でもじつに多種多様な優霊物語の名作が書かれ、映画化されました。一条真也の映画館「母と暮らせば」で紹介した吉永小百合の主演映画も忘れられません。

 それにしても、幽霊とは何か。
唯葬論』の「死者論」でも紹介した日本文学研究者の安永寿延は「幽霊、出現の意味と構造」(河出書房新社『怪異の民俗学〈6〉幽霊』所収)において、以下のような卓見を示しています。
「人間は死ぬことができる存在である。
それはとりもなおさず、人が希望だけではなく絶望をも享受しうるように、生を享受するだけでなく死をも享受しうることを意味している。
だが、生を享受できないものは死をも享受できない」

 続けて、安永は以下のようにも述べています。
「人はしばしば死で持って生を飾ろうとする。だが、生で死を飾れなかったものが、死で生を飾れるはずがない。死を享受できないものには、死を了解することなどできない。つまりは、死んでも死にきれないのだ。
だからこそ、宗教は葬送の儀礼を、人が"第二の生"を生きるための通過儀礼とみなし、"第一の生"の不遇と"第二の生"の豊かさとが交換可能だと説いた。こうして死者がみずからその死の意味を解読し、了解可能として受け入れるなら、そこではじめて死者は死の世界を獲得し、そこに安息を見出す」

 一条真也の読書館『幽霊とは何か』で紹介した本の著者であるイギリスの映画評論家ロジャー・クラークは、幽霊と人間の関係について、以下のように述べています。
「わたしたちが幽霊を愛するのは、死んだらどうなるのかを説明してくれるからだけではなく、彼らがわたしたちを過去に引き戻し、子ども時代の楽しい思い出にふたたび結びつけてくれるからだ。間接的に伝えられる恐怖のぞくぞく感には、大きな魅力があり、多くの人は大人になってもそれを忘れたくないと思う。ひそかに幽霊を信じることはひとつの楽しみで、子ども時代の自分に戻れる瞬間でもある。今の子どもたちは、とても幼いころから幽霊を見ないように教えられる。幽霊を信じるとは自然の法則を破ることで、中流階級の科学者や大学で批評を書く博学者ほどきびしい法の番人はいないからだ。幽霊はもう恐れられてはいないが、幽霊を信じることは確かに恐れられている。それでも、目撃と幽霊事件は続く」(桐谷知未訳)

死を乗り越える映画ガイド』では、多くのジェントル・ゴースト・ストーリー作品も紹介しています。「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」の場合は、ジェントル・ゴースト・ストーリーというよりも、単なる「こわくないゴースト・ストーリー」と言えるでしょう。ポルターガイストの仕組みを明らかにするなど、幽霊の視点で世界を描いているという点では斬新ではありますが、アートに走り過ぎている感もありました。正直、あまりグリーフケアの参考にはなりませんでした。