No.389


 ヒューマントラストシネマ有楽町で映画「ちいさな独裁者」のレイトショーを観ました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「第2次世界大戦中の実話を映画化し、成り行きから権力を手に入れた若者の変貌を描いた衝撃作。『ダイバージェント』シリーズなどのロベルト・シュヴェンケがメガホンを取った。ナチス将校に成り済ます脱走兵に『まともな男』などのマックス・フーバッヒャーがふんするほか、『THE WAVE ウェイヴ』などのフレデリック・ラウ、ミラン・ペシェルらが出演」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、こうです。
「1945年4月。兵士の軍規違反が頻発するドイツで、部隊から逃げてきたヘロルト(マックス・フーバッヒャー)は、廃棄された車両の中で将校の軍服を見つける。それを身に着け大尉に成り済ました彼は、出会った兵士たちを次々と服従させて『へロルト親衛隊』のリーダーになる。彼の振る舞いはエスカレートし、やがて大量殺りくに向かっていく」

 まことに奇想天外な物語ですが、これが実話に基づいていると知って仰天しました。主人公はあまりにも数奇な人生を送った人物なので、Wikipedia「ヴィリー・ヘロルト」から、彼の歩みを振り返ってみたいと思います。まず、ヴィリー・ヘロルト(Willi Herold、1925年9月11日―1946年11月14日)は、ドイツの兵士です。第二次世界大戦末期、一兵卒でありながら将校の身分を詐称し、多数の敗残兵を指揮下に収め、彼らと共に収容所を不当に支配して囚人の虐殺を行った事で知られ、「エムスラントの処刑人」の異名で呼ばれました。敗戦後、連合国軍によって逮捕され、裁判の後に戦争犯罪人として処刑されています。

 Wikipedia「ヴィリー・ヘロルト」の「経歴」には、以下のように書かれています。
「1925年、ザクセン州(ドイツ語版)ルンツェナウ(ドイツ語版)にて、屋根ふき職人の息子として生を受ける。1932 年から1940年までは国民学校(ドイツ語版)に出席。1940年から1943年までは技術学校に出席し、煙突清掃員としての訓練を受けた。逮捕後に彼自身が語ったところによれば、この時期には必須演習への無断欠席のためヒトラーユーゲントを追放されたという。
 1943年6月6日、国家労働奉仕団(RAD)からの招集を受け、占領下フランスにて大西洋の壁の建設工事に従事する。9月11日にRADを除隊、9月30日から空軍に徴兵され兵役に就く。タンガーミュンデ(ドイツ語版)に駐屯する降下猟兵連隊にて訓練を終えた後、イタリア戦線に派遣され、ネットゥーノやモンテ・カッシーノなどを巡る激戦に参加した。この戦いの中で上等兵に昇進した。その後、部隊はドイツ本国へと移動し、グランゼ戦闘団に合流した」

 また、「脱走」として、以下のように書かれています。
「1945年3月、ドイツ=オランダ国境からほど近いグローナウ(ドイツ語版)を巡る戦いの最中にヘロルトは脱走し、バート・ベントハイム(ドイツ語版)方面へと徒歩で向かった。その最中、ヘロルトは側溝に落ちた軍用車の残骸を発見する。車内には大量の荷物が残されており、箱の1つを開けてみると、勲章の付いた真新しい空軍大尉の軍服が収められていたという(ただし、制服を入手した経緯については目撃者がおらず、逮捕後の本人の証言しかないため正確なことは分かっていない)。これを着用して大尉に扮したヘロルトが更に北へと歩いていると、若い敗残兵に『大尉殿!』と呼び止められた。彼に部隊から逸れたので指示が欲しいと請われたヘロルトは、自分の指揮下に入るように命じた。その後も道中で敗残兵たちと合流しつつ北進を続け、メッペン(ドイツ語版)に到達した時点ではおよそ30人の兵士が彼の指揮下に入っていた。彼らは『ヘロルト戦闘団』、『ヘロルト野戦即決裁判所』、『ヘロルト衛兵隊』などの部隊名を自称した」

 続いて、以下のように書かれています。
「車を手に入れると敗残兵の1人を運転手に指名した。検問所では憲兵による書類提示の要請を拒否したため取り調べを受けたが、あまりにも堂々とした振る舞いのため、取り調べの担当将校はヘロルトを空軍大尉と信じ込み、シュナップスを注いで歓迎した。パーペンブルク(ドイツ語版)では、付近の収容所が脱獄囚の捜索を行っているとの報告を受け、市長および地元のナチス地区指導者と会談した。ヘロルトは『自分には任務があり、法的な些事のために割く時間はない』として、脱獄囚の即時射殺を命じた」

 また、「アシェンドルフ収容所」として、以下のように書かれています。
「1945年4月12日、ヘロルトらの一行はエムスラント収容所アシェンドルフ湿原支所(ドイツ語版)に到達した。 同収容所では、主にドイツ国防軍の脱走兵や政治犯が収容されていた。本来の収容人数は1000人程度だったが、当時は敵の前進に伴い放棄された周辺の収容所からも囚人らが移送され、およそ3000人が収容されていた。混乱の中で収容所の秩序は失われつつあり、ヘロルトらの到着2日前には、ツェレへの護送中に囚人およそ150人が脱走するという不祥事も起こっていた。ヘロルトは収容所および地元党組織の幹部らに『総統は自分に全権を与えた』と語り、野戦裁判所を設置して秩序の回復を図ると宣言した。既に事態を収拾する能力を失いつつあり、また不祥事に対する中央からの処罰を恐れていた収容所および党組織の幹部らは、総統の命令のもと活動しているというヘロルトの嘘を疑おうとしなかった。こうして、ヘロルトと敗残兵らによる収容所の支配が始まった」

 続いて、以下のように書かれています。
「敗残兵らは逮捕された脱獄囚の一団を連行すると、3人をひざまずかせて射殺し、別の8人を連れてきて長さ7m、幅2m、深さ1.80mの大きな穴を掘らせた。4月12日18時00分、30人の囚人が穴の前に並ばされた。敗残兵らは運び込んだ高射機関砲を据え付けると囚人らに向けて掃射を行い、弾づまりが起こった後、足だけが吹き飛ばされ即死しなかった者などを1人ずつ銃を使って射殺した。穴の中にも生き残りがいないか死体を蹴って確認し、さらに手榴弾が投げ込まれた。続く2つの囚人グループは機関銃によって射殺された。日没までに98人が殺害された。地元国民突撃隊部隊も出動させ、脱獄囚の捜索逮捕および処刑に当たらせた。殺すための脱獄囚が少なくなってくると、ヘロルトらは外国人や脱走兵といったその他の囚人の拷問および処刑に手を染めた。13日には74人が殺害された」

 続けて、以下のように書かれています。
「4月19日、ギリス空軍によって収容所が爆撃を受けた。この際、生き残っていた囚人のほとんどが脱走した。ヘロルトと敗残兵らは収容所を放棄し、戦争犯罪を重ねながら放浪した。4月20日にはパーペンブルクで連合軍の到着に備えて家に白旗を掲げていた農夫を逮捕して絞首刑に処した。翌日にはレーアに到着した。一行はホテルに一泊した後、再び野戦裁判所の設置を宣言し、2人の男性を逮捕して処刑した。海軍の脱走兵1人と精神障害者1人も続けて処刑された。4月25日、レーア刑務所に収監されていたオランダ人5人の身柄を引き取り、数分間の裁判でスパイ容疑者として形式的に裁き、墓穴を掘らせた後に射殺した。彼らはヘロルトらが手にかけた最後の犠牲者だった。 連合国軍から逃れるべくヘロルトらは後退を続けていたが、アウリッヒ(英語版)に到着した時点で現地のドイツ軍司令官の命令により全員が逮捕された。5月3日、海軍軍事裁判所にてヘロルトは全ての罪を自白し、翌日には前線執行猶予処分、すなわち執行猶予大隊への転属が決定した。しかし、ヘロルトは出頭せず姿を消し、そのまま敗戦まで潜伏していた」

 さらに、「敗戦後」として、以下のように書かれています。
「潜伏していたヘロルトはヴィルヘルムスハーフェンにて煙突清掃員として働いていた。1945年5月23日、食パン1斤を盗んだとして現地に進駐していたイギリス海軍に逮捕された。その後の取り調べの中で、彼が多数の戦争犯罪を犯したことが明らかになった。1946年2月1日、イギリス軍はヘロルトと彼が率いた敗残兵たちを集め、アシェンドルフ湿原収容所跡にて犠牲者の遺骨を掘り返すように命じた。最終的に195人分の遺骨が回収された」

 そして、以下のように書かれているのでした。
「1946年8月、イギリス軍はオルデンブルクにてヘロルトと敗残兵らあわせて14人を裁くための軍事裁判を設置した。彼らは125人の殺害について責任を負うものと判断された。1946年8月29日、被告のうちへロルトと6人の敗残兵に対して死刑が、5人に対して無罪の判決が言い渡された。ただし、死刑判決が下った敗残兵の1人は後に控訴を行い、判決が取り消されている。1946年11月14日、ヴォルフェンビュッテル(英語版)戦犯収容所にてへロルトと5人の敗残兵のギロチンによる斬首刑が執行された。執行はフリードリヒ・ヘーア(ドイツ語版)が担当した。 尋問中、虐殺の動機について問われると、「何故収容所の人々を撃ったのか、自分にもわからない」と答えたという。 現在、アシェンドルフ湿原収容所跡とレーアには虐殺の犠牲者を弔う碑が残されている」

 この映画を観賞したヒューマントラストシネマ有楽町といえば、一条真也の映画館「サウルの息子」で紹介した映画を観た場所でもあります。じつは、両作品には大きな共通点がありました。「サウルの息子」はドイツ人がユダヤ人を殺す話でしたが、「ちいさな独裁者」はドイツ人がドイツ人を殺す話でした。ヘロルトらは脱走兵を処刑するに際して、「穴を掘れ、棺は要らない」と言います。これは、わが社の大ミッションである「人間尊重」に最も反するものです。思えば、ナチスもオウム真理教もイスラム国も、葬送を儀式を行わずに遺体を処理しました。葬儀を行わないことは、人類の巨大な心の闇に通じていると、わたしは思います。

 それにしても、「ちいさな独裁者」は驚くべき実話です。
 映画評論家の高森郁哉も指摘していますが、1940年に公開されたチャップリンの監督・脚本・主演作「チャップリンの独裁者」を連想させます。この作品は、ヒトラーをモデルにした独裁者に瓜二つの主人公が、脱走の際に拝借した軍服の印象も影響して独裁者に間違われる話でした。このフィクションと奇妙に符合する現実の出来事が、まさにヴィリー・ヘロルトの実話なのです。高森氏は、「当時ドイツで未公開の『チャップリンの独裁者』をヘロルトは観ていないはずだが、ひょっとしたら彼が手本にしたのではないかと思われるのが、1906年に起きた『ケーペニックの大尉』詐欺事件だ」と述べています。

「ケーペニックの大尉」詐欺事件とは何か。
靴職人ヴィルヘルム・フォークトが古着の軍服で陸軍大尉に変装し、本物の兵士たちをだまして従え、ケーペニック市庁舎を襲撃して大金を奪った事件です。
 この事件は、笑い話としてドイツ全土に知れわたり、直後から1940年代にかけてたびたび映画や小説の題材にもなったといいます。高森氏は、「釈放後に自伝まで書いて人気者になったフォークトに対し、ヘロルトの戦争犯罪は数冊の本と1本のドキュメンタリーで取り上げられただけで、半ばドイツ史の闇に葬られてきた」と述べています。それは単に、収容所の囚人100人超の虐殺を命じたヘロルトの行為がおぞましいからだけではなく、彼に同調し服従した兵士が大勢いたことが、程度の差こそあれヒトラーとナチスに従った国民の記憶を容赦なく呼び覚ますからではないかと推測しています。

 戦争状態というのはもちろん異常事態ですが、アドルフ・ヒトラー率いるナチスの誕生と台頭は世界史においても特筆すべき事件でした。巨大な狂気の中では、この映画のように異常な出来事が起こるのも不思議ではないのかもしれません。
「ちいさな独裁者」は映画の中の話ではありません。それは現実の話です。現代日本においても、企業をはじめ、さまざまな組織には偽リーダーがはびこり、数々の「不条理」を生みだしています。わたしは、この映画を観て、「人間を尊重しない者はリーダーではないと思い、「ハートフル・リーダーシップの研究」というサブタイトルの拙著『龍馬とカエサル』(三五館)の内容を思い出しました。
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龍馬とカエサル』(三五館)


 そして、わたしは人間の本性について考えました。
 人間の本性は善であるのか、悪であるのか。これに関しては古来、2つの陣営に分かれています。東洋においては、孔子や孟子の儒家が説く性善説と、管仲や韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示しています。西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ちましたが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も断固たる性悪説であり、フロイトは性悪説を強化しました。

 そして、一条信也の映画館『「人間らしさ」の構造』で紹介した故渡部昇一氏の名著にも述べられていますが、共産主義をふくめてすべての近代的独裁主義は、性悪説に基づきます。毛沢東が、文化大革命で孔子や孟子の本を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのです。独裁主義国家の相次ぐ崩壊や凋落を見ても、性悪説が間違っていることは明らかです。しかし、お人好しの善人だけでは組織は滅びます。1人でも悪党というのは、悪人はみな団結性を持っています。彼らに立ち向かうためには、悪に染まらず、悪を知る。そしてその上手をいく知恵を出すことが求められるのです。「ちいさな独裁者」という驚くべき映画を観て、わたしはそのように思いました。