No.402


 日本映画「キングダム」を観ました。
 コミックが原作の映画は基本的にあまり気が進まないのですが、東京に住んでいる長女と次女が2人でこの映画を観に行ったと知って、映画親父としては居てもたってもいられず、すぐさま小倉のシネコンに向かった次第です。シンプルに面白いエンターテインメント超大作でした。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「原泰久のベストセラーコミックを原作にした歴史ドラマ。中国の春秋戦国時代を舞台に、大将軍を夢見る少年と、中華統一をもくろむ若い王の運命を映す。メガホンを取るのは『GANTZ』『図書館戦争』シリーズなどの佐藤信介。『斉木楠雄のΨ難』などの山崎賢人、『あのコの、トリコ。』などの吉沢亮、『50回目のファーストキス』などの長澤まさみ、『銀魂』シリーズなどの橋本環奈をはじめ、本郷奏多、満島真之介、石橋蓮司、大沢たかおらが共演を果たした」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「紀元前245年、中華西方の国・秦。戦災で親を失くした少年・信(山崎賢人)と漂(吉沢亮)は、大将軍になる夢を抱きながら剣術の特訓に明け暮れていた。やがて漂は王宮へと召し上げられるが、王の弟・成キョウ(本郷奏多)が仕掛けたクーデターによる戦いで致命傷を負う。息を引き取る寸前の漂から渡された地図を頼りにある小屋へと向かった信は、そこで王座を追われた漂とうり二つの王・エイ政(吉沢亮)と対面。漂が彼の身代わりとなって殺されたのを知った信は、その後エイ政と共に王座を奪還するために戦うことになる」

 映画を観る前にシネコンと同じ商業施設にある書店を訪れて原作コミックを探してみたのですが、なんと現在54巻まで刊行されています。集英社が発行する「週刊ヤングジャンプ」にて2006年9号より連載が続けられています。 第17回手塚治虫文化賞のマンガ大賞受賞作品で、単行本発行部数は1~49巻までの累計で3300万部以上を数えるとか。いやはや、すごいですね。

 原作にはさまざまなキャラが登場しますが、それらを現代日本を代表する豪華俳優陣が演じています。主人公の信を演じたのは山崎賢人。ちょっと意外でした。というのも、彼には一条真也の映画館「羊と鋼の森」で紹介した2018年の日本映画の主人公の繊細なイメージを強く持っていたからです。
「羊と鋼の森」は、第13回本屋大賞に輝いた宮下奈都の小説を実写映画化したもので、ピアノの調律のとりこになった1人の青年の成長物語なのですが、同作品を天皇・皇后両陛下(当時)がご鑑賞になられたとき、彼が主演俳優として両陛下に挨拶していました。その様子がじつに自然で違和感がないので、わたしは「まるで本物の王子みたいだな」と思ったのです。

 山崎賢人は、これまで多くの少女漫画が原作のスイーツ映画に出演し、「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」(2017年)の東方仗助役、「斉木楠雄のΨ難」(2017年)の斉木楠雄役など、最近は異色の役も目立ちましたが、「羊と鋼の森」でようやく山崎賢人らしい役にめぐりあえたという感じでした。北海道の山林で育った純粋で繊細な外村青年のキャラクターを見事に演じていました。彼は少女漫画に登場する王子様のような、あるいは昭和のアイドル歌手のような顔をしているのですが、その雰囲気は落ち着いていて上品でした。

 その繊細で上品なイメージの山崎賢人が奴隷出身の武将・信を演じるというので、一瞬だけ「ミスキャストでは?』と思ったのですが、まあ天下の東宝がそんなヘマをするはずがありませんよね。見事に信を演じていました。戦闘シーンもなかなか良かったです。次から次に現れる強敵を片っ端から叩き斬っていくさまは一条真也の映画館「無限の住人」で紹介した2017年の日本映画を連想しました。監督・三池崇史、主演・木村拓哉で、国内外で高い評価を受ける沙村広明の人気コミックを実写映画化したアクションです。無為に生きる不死身の剣士・万次と、復讐のために彼を用心棒として雇った少女・凜が、壮絶な戦いに身を投じる姿が描かれています。考えてみたら、キムタクの王子さま顔ですが、不死身の剣士を迫力満点に演じました。「キングダム」で顔を血だらけにした山崎賢人の顔は「無限の住人」のキムタクに似ていました。

 王の弟・成キョウを演じた本郷奏多も良かったです。
 日本映画「GOTH」(2008年)の主人公・神山樹役で、わたしは初めて本郷奏多を知ったのですが、同作品で森野夜を演じた高梨臨とともに「これはまた、見たことのない美少年と美少女だな」と思った記憶があります。
 本当はわが国で皇位継承がなされ、皇太子殿下が天皇陛下に、秋篠宮殿下か皇嗣殿下となられたまさにそのときに、若き王の弟がクーデターを起こす映画を全国公開するのは「いかがなものか」とも思いましたが、まあ人気コミックが原作ですし、一応はハッピーエンドなので良しとしましょう。

「キングダム」の豪華俳優陣の中で、ひときわ異彩を放っているのが大沢たかおです。無敵の大将軍である王騎を演じましたが、いつもニヤニヤ笑いを絶やさない表情が不気味でした。異彩を放っていたもう1人は長澤まさみです。古代中国の辺境に住む「山の民」を武力で束ねる美しき女王・楊端和を演じましたが、セクシーなアクションシーンで観客を魅了しました。原作コミックでは、楊端和は「山の民」から畏敬の念を込めて「死王」の異名で呼ばれ、ミステリアスな存在として描かれています。

 楊端和は司馬遷の『史記』にも登場する実在の人物ですが、『史記』には秦の武将として登場しており、異民族でもなく、しかも男性だとされています。このへんは原作者があえて魅力的な女性キャラを設定したのでしょう。それにしても勇敢に戦う長澤まさみはまるでワンダー・ウーマンのようでした。そして、大沢たかお、長澤まさみといえば、どうしても日本映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年)を思い出していますね。あの感動のラブストーリーで多くの観客を泣かせた2人が、まさか15年後に古代中国を舞台にした映画で戦闘シーンを演じるとは!

「キングダム」で吉沢亮が演じたエイ政は、中華の唯一の王、つまり後の始皇帝です。「キングダム」そのものが始皇帝外伝のような物語なのですが、わたしは始皇帝という人物に多大な関心を抱いており、著書でも言及してきました。拙著『ハートフル・カンパニー』(三五館)所収の「始皇帝の夢、アレクサンダーの志 東西二大英雄の心を読む」でも、始皇帝について詳しく書いています。
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ハートフル・カンパニー』(三五館)



 わたしは、2005年と2017年の2回にわたって兵馬俑を訪れました。兵馬俑とは、言わずと知れた秦の始皇帝の死後を守る地下宮殿です。二重の城壁を備えた始皇帝の巨大陵墓の下には、土で作られた兵士や馬の人形が立ち並んでいます。実に8000体におよぶ平均180センチの兵士像が整然と立ち並ぶさまはまさに圧巻で、「世界第八の不思議」などと呼ばれていることも納得できます。この兵馬俑を呆然とながめながらも、わたしはさまざまなことを考えました。
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兵馬俑



「キングダム」にも登場する春秋・戦国の舞台は、それが当時の全世界でした。秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓、すなわち「戦国の七雄」がそのまま続いていれば、その世界は七つほどの国に分かれ、ヨーロッパのような形で現在に至ったことでしょう。当然ながらそれぞれの国で言葉も違ったはずです。そうならなかったのは、秦の始皇帝が天下を統一したからでした。その意味で、始皇帝は中国そのものの生みの親と言えます。
 中国を知ろうと思えば、それを生んだ秦の始皇帝を知らなければなりません。彼は前人未到の大事業を成し遂げましたが、その死後、彼の大帝国は脆くも崩壊してしまいました。とはいえ、統一の経験は、中国の人々の胸に強く、そして長く残りました。
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始皇帝像とともに



 三国時代、南北朝、宋金対峙など、中国はその後しばしば分裂しましたが、そのときでも、誰もがこれは常態ではないと思っていたのです。中国が一つであることこそ、本来の自然な姿であると思っていたのです。これは、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペインなどの国々に分かれ、20世紀の終わりになってやっとEUという緩やかな共同体が誕生したヨーロッパの歴史を考えると、本当にものすごいことです。よほど強烈なエネルギーがなければ、中国統一のような偉業を達成することはできませんし、1人の人間が発したそのエネルギーの量たるや、わたしのような凡人には想像もつきません。

 中国すなわち当時の世界そのものを統一するとは、どういうことか。他の国々をすべて武力で打ち破ったことは言うまでもありませんが、それだけでは天下統一はできません。始皇帝は度量衡を統一し、「同文」で文字を統一し、「同軌」で戦車の車輪の幅を統一し、郡県制を採用しました。そのうちのどれ一つをとっても、世界史に残る難事業です。その難易度たるや郵政民営化などの比ではない。始皇帝は、これらの巨大プロジェクトをすべて、しかもきわめて短い期間に1人で成し遂げたわけです。

 かくして、広大な中国は統一され、彼はそのシンボルとして「皇帝」という言葉を初めて使いました。以後、王朝や支配民族は変われど、中国の最高権力者たちは20世紀の共産主義革命が起こるまで、ずっと皇帝を名乗り続けました。すなわち、秦の始皇帝がファーストエンペラーであり、清の宣統帝溥儀がラストエンペラーでした。この二人の皇帝の間には2000年を超える時間が流れています。

 また、始皇帝は2つの水利工事や阿房宮という未完の宮殿を造ろうとしたことでも知られていますが、何と言っても有名なのが、かの万里の長城です。いま残っているのは明時代のもので、始皇帝の時代はもう少し原始的なものだったそうですが、それにしても国境線をすべて城壁にするというのは、実に雄大な英雄ならではの発想です。月から地球をながめるというのはわが人生最大の夢ですが、万里の長城こそは月面から肉眼で見える唯一の人工建造物だと俗に言われています。この上ない壮大なスケールと言う他はありません。

 それほど絶大な権力を手中にした始皇帝でしたが、その人生は決して幸福なものではありませんでした。
 それどころか、人類史上もっとも不幸な人物ではなかったかとさえ私は思います。なぜか。それは、彼が「老い」と「死」を極度に怖れ続け、その病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいったからです。始皇帝ほど、老いることを怖れ、死ぬことを怖れた人間はいません。そのことは世の常識を超越した死後の軍団である兵馬俑の存在や、徐福に不老不死の霊薬をさがせたという史実が雄弁に物語っています。

 中国統一という誰もなしえなかった巨大プロジェクトを成功させながら、その晩年は、ひたすら生に執着し、死の影に脅え、不老不死を求めて国庫を傾け、ついには絶望して死んだ。そして、その墓は莫大な財を費やし、多くの殉死者を伴うものでした。兵馬俑とは、不老不死を求め続けた始皇帝の哀しき夢の跡に他ならないのです。わたしは初めて兵馬俑を訪れたとき、「不老不死 求めてあがく夢の跡 まこと哀しき兵馬俑かな」という道歌を詠みました。

 いくら権力や金があろうとも、老いて死ぬといった人間にとって不可避の運命を極度に怖れたのでは、心ゆたかな人生とはまったくの無縁です。逆に言えば、地位や名誉や金銭には恵まれなくとも、老いる覚悟と死ぬ覚悟を持っている人は心ゆたかな人であると言えます。どちらが幸福な人生かといえば、疑いなく後者でしょう。心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティを実現するには、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが必要なのです。そのことを兵馬俑をながめながら、考えました。

 ある意味では、異常なまでに「老い」と「死」を怖れたからこそ、現実的にはあれほどの大事業を遂行するエネルギーが生まれたのかもしれません。始皇帝は天下を統一し、皇帝となりましたが、それまで誰もが使っていた「朕」という言葉を、皇帝以外は使ってはいけないとするなど、皇帝の絶対化を図りました。皇帝の絶対化は国家を運営していく上で必要なことでしたが、始皇帝は次第に自分を絶対的な存在であると考えるようになっていったのです。天下統一の大事業を成し遂げた自分は、普通の人間ではない、絶対者であるという気になっていったのです。絶対者とは、具体的に言えば、不老不死の人間、つまり神や仙人のような存在です。

 そして、絶対者となるための秘儀である「封禅の儀式」を泰山であげようとしました。ところが、長いあいだ泰山での封禅は行なわれていなかったので、儀式のやり方がわからなくなっていました。『論語』に、「三年礼を行なわなければ礼は廃れてしまう、三年楽を奏さなければ楽は滅びる」という言葉があります。それを、3年どころか五百数十年ものあいだやっていないのですから、封禅についてわからなくなったのは当然です。

 始皇帝はいろいろな人に尋ねました。主として礼の専門家である儒者でしたが、言うことがみな違っていました。ある人は、蒲という柔らかいものを車輪に巻きつけて山に登るのだといいますし、藁の皮を一つひとつ取ってそれでゴザのようなものを作り、その上で儀式を行なうのだという人もいました。そこで始皇帝は、儒者の言うことなど聞かず、自分の思い通りに儀式を行なったのです。このことがあってから、儒者の言うことなどアテにならないと、始皇帝は儒者に対する不信感をつのらせました。これがのちの焚書坑儒の遠因になるのです。儒教書を焼き(焚書)480人もの儒者を穴に埋めた(坑儒)ことは、人類史上でも名高い愚行です。しかし、この愚行の底には性善説と性悪説、さらには「礼」と「法」というきわめて重要な思想的問題が潜んでいます。

 春秋・戦国時代というのは、いろいろな思想が花開いた時期で、さまざまな人がさまざまな説を唱えて論争しました。これを「百家争鳴」といいますが、なかでも後世にもっとも大きな影響を残したのが、言うまでもなく孔子の儒教です。孔子は周の「礼楽」を復興しようとして苦心しました。つまり先王の道、周の時代の道を理想とし、昔の礼の秩序を回復しようという考えです。

 孔子の弟子のうちで子夏あるいは子游という人々の思想の中から、始皇帝とほぼ同時代に荀子という人が現われました。荀子は孟子とよく対比されます。孟子は、人間はもともと良い性質を持っているのだという性善説を唱えました。それに対して荀子は、人間の本性は悪であって、善というのは「偽り」であると主張しました。ここで言う「偽り」は、現在の私たちが言う「偽り」(にせ)ではなく、ニンベン(つまり、人)にタメ(為)と書く「人為」、つまり後天的という意味です。先天的には人間の性は悪であるが、後天的に良くなるのだというのです。

 孔子から孟子に流れている説では「礼」を非常に重んじますが、荀子は「法」を重んじます。人間の性は悪であるから、この悪を法によって抑えようという考えです。荀子の門下からいろいろな弟子が出ています。秦の政治を支えた宰相の李斯や『韓非子』で有名な韓非もそうです。荀子の性悪説に学んだ李斯は、世襲あるいは血縁で結ばれた、いわゆる封建勢力の制約というものを排除しようとしました。才能さえあれば、たとえ自分が殺した者の子でも重用してかまわない。血縁を重視したり、コネなど私的な情で政治を行なうのはよくない、ということを言っています。そして「偽」というもの、後天的なものを尊ぶのです。本来は悪である人の性を法によって正すというのが基本的な考え方です。

 性悪説の基本的な理論とは、次のようなものです。もしも性善説で言うように人間がすべて善人であるなら、聖人などいらないではないか。聖人というのは王、聖天子のことで、聖人が人々を教え導くことになるのですが、性善説ならば教え導く必要はない。もともと悪いことをする素地があるから、良い方向に導く必要があるのだ、というのです。ですから、性悪説では、君臣関係を重んじ、君主の権力の強化が考えられることになります。いわば、人間主義でもありますし合理主義でもありますが、これが荀子の説を離れて、法家の説となりました。もともと、秦には法家の伝統があります。商鞅が法律万能、厳罰主義を政治の基本とし、それで秦が強くなったことはよく知られています。秦にはもともと法家の説に基づいて政治をやってきたという伝統があり、李斯はその伝統にしたがって秦の政治に携わったわけです。

 李斯と同じく荀子の門下生であった韓非は「東洋のマキャヴェツリ」などと呼ばれますが、その著作『韓非子』を読んだ始皇帝は非常に感激し、こんな素晴らしい人と会ってつきあえるものなら死んでも本望だというほど惚れ込みました。しかし、実際に会ってみると、口下手な韓非に失望したと言われています。その後、韓非はその才能を怖れた李斯の陰謀により非業の死を遂げています。
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礼を求めて』(三五館)



 わたしは始皇帝が法家の説を重んじたことは、なにより彼が「礼」という思想を徹底的に嫌っていたからだと考えています。古代中国における「礼」とは、他国との境界線に関わる政治的概念でもありました。転じて他者に対する敬意や思いやりの意味が強くなりましたが、本来は他の領土を侵犯しないことから生まれた概念だったのです。次々に周辺諸国に戦争を仕掛け、打ち破っていった始皇帝がこのような「礼」の思想を好むはずがありません。「礼」の影響力が弱まったからこそ、戦国時代がはじまったとも言えるでしょう。

「礼」という、人としてふみおこなうべき道を外れた始皇帝には、エゴイスティックな暴君的エピソードがたくさんあります。たとえば、不老不死の神仙になる修行をしていたとき、始皇帝はしばらく人に会わず、しかも自分の居場所を誰にも教えないようにしていました。しかし、あるとき、ふとしたことで知られてしまいました。始皇帝は怒って、誰が知らせたのか調べましたが、わかりませんでした。そこで、その時そばにいた者を皆殺しにしたという話です。

 あるとき、隕石が落ちてきました。ある者が、その隕石に「始皇死んで地が分かれる」(始皇帝が死んで秦の土地はバラバラになってしまう)と書いた。これを知った始皇帝は犯人を探しますが、誰ひとり自分が書いたと名乗り出る者がいないので、隕石が落ちた近くに住んでいた住人を全員殺して、隕石を焼いて溶かしてしまったのです。

 また、金陵(現在の南京)に行ったとき、道教の方子が「このあたりには王気がある」と言いました。「王気」つまり王の気配がるということは、その地から王が出るということです。王は自分一人で充分である。それなのに王が出るというのは、自分にとって代わろうとする者がこの地から出るに違いない。それは、この地の気脈によるのだから、それを断ち切ってやろうと、なんと始皇帝は山ごと掘り崩したといいます。

 さらに、天下を取った始皇帝が全国各地を巡歴しますが、あるとき、洞庭湖のほとりの湘山で、大風が吹いて船が進めないということがありました。湘山には水神が祀られていました。始皇帝は、その水神が自分の行く手を妨げて大風を吹かせたと激怒して、湘山の樹木をすべて伐り倒させてしまいました。このような、神への礼に完全に反する行為もあったのです。以上のエピソードは、始皇帝の暴君ぶりを強調するために後世の人々が脚色した可能性もありますが、おそらくそれに近い事実はあったと私は思います。いずれも、神仙思想に関わるもので、不老不死を夢見て、自らの死を怖れるあまり残虐非道な行ないに走ったわけです。
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龍馬とカエサル』(三五館)



 拙著『龍馬とカエサル』(三五館)にも書いたように、始皇帝は実務的には最高の能力を持ったリーダーでした。数多くの不可能とされたプロジェクトも実現させましたし、現場にも非常に強かった。古今東西、始皇帝ほど領地を頻繁に巡歴した皇帝はいないとされています。そして、「法」による厳しい民衆管理の徹底。彼は一見、マネジメントの天才のように見えますが、私はそうは思いません。なぜなら、彼の強大な帝国はわずか14年しか続かなかった。人の心を決して信じず、自らの命と権力のみに固執する彼の恐怖政治は、しょせん心なきハートレス・マネジメントだったのです。
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孔子とドラッカー』(三五館)



 拙著『孔子とドラッカー』(三五館)にも書きましたが、わたしたちの業界をはじめ、現代のビジネス社会には多くのミニ始皇帝が存在します。彼らは現場にも強く、計数感覚も鋭く、結果として商売は上手なので、一見、優秀な経営者に見られます。しかし、従業員の監視カメラを設置するなど例外なく性悪説の信奉者であり、恐怖によって社員を管理している彼らに人心を得ることはなく、その栄光は長続きしません。エゴに満ち、セクハラなどの醜聞が付いてくることも珍しくない。そして、最大の特徴は、彼らの生き方には「礼」のかけらもないことです。
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孔子とドラッカー新装版』(三五館)



 始皇帝の帝国ですら14年の命であったことを思えば、金儲けが少々うまいからといって調子に乗っていても、「礼」なきハートレス・マネジメントの実践者どもが経営する民間企業の命など、まるで広大な湖の水面に浮かんだ水泡のようなものだと思えてなりません。『平家物語』ではありませんが、「盛者必衰の理」を知り、謙虚になることこそ「礼」の根本精神だと、わたしは確信します。娘たちの後を追って映画「キングダム」を観たわたしは、そんなことを考えました。わたしは変な親父でしょうか?